生きていた人に、ただいまとは言わせない
【前回までの人物】
・リオ:自治市で独立を目指す解呪師。塔の記録から、戻らなかった兵の移送先を西病舎と知った。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。移送されたオルフェンの所在を、自分の名で確かめたいと申し出た。
・オルフェン:塔から帰隊せず、西病舎へ運ばれた兵。ベレンは移送時に息をしていたと証言したが、その後はまだ分からない。
西病舎の門は、リオが思っていたより低かった。
馬車を寄せるための広い屋根があり、その下に乾いた藁が敷かれている。朝の風が通るたび、石鹸と煮た麦の匂いが入れ替わった。
エルナは門柱の傷を見ていた。
「ここまで来たんだな」
昨日聞いた、荷車の行き着いた場所。その先へ踏み込むのに、左の足がなかなか出ない。
リオは隣で待った。彼女の右手は布の中にある。水筒は鞄から取り出さず、必要になったら左手で持つと、ここへ来る前に自分で決めていた。
午前は申請の確認だけだった。退役札と昨日の署名を照合すると、病舎の記録係は午後の呼出札を渡した。
「別倉の簿冊が届くまで、お待ちください。お二人のお名前で受け付けています」
紺の仕事着の袖を肘まで留めた女性だった。窓口の脇に、退所した人への手紙が束ねてある。端の一束を布で覆ってから、係は二人へ向き直った。
「昼を抜いて待つ方がいらっしゃいますが、早くはなりませんよ」
「……分かりました」
リオより先にエルナが答えた。その腹が小さく鳴り、彼女は門柱から目を離した。
二人は持ってきたパンを中庭で食べた。昨日から調査鞄に入れてあった物で、端が少し硬い。
「生きてたら、最初に何て言う」
パンを割りながら、エルナが訊いた。
「僕がですか」
「あんたは知らない人だもんな」
「エルナさんは、考えていましたか」
「考えた。全部、変だった」
会いたかった。すまなかった。よく帰った。
彼女は三つ言い、最後の言葉でパンを置いた。
「帰ったかどうかも、その人が決めることなのに」
「言葉が出なければ、名前を呼ぶだけでもいいのでは」
「それがいちばん、出なさそう」
左手の指に付いた粉を払ってから、エルナは残りを口へ入れた。リオも質問をやめ、自分のパンを噛んだ。
*
午後の閲覧机には、四十二と記された灰色の簿冊が出された。
処置の欄は厚紙で隠されていた。めくる前に、記録係は氏名の行と、そこから追える日付だけを説明した。
オルフェン・カスト。移送元は黒槍の塔。搬入翌日から西病舎に入所。退所は、その八十四日後。
退所先はソルヴィア市内、革工区の共同住宅。
死亡ではなかった。
エルナの左手が机の下へ落ちた。膝をつかんだのだと、衣擦れの音で分かった。
「生きて、出た」
係はうなずいた。
「退所日に本人が受領した衣類の欄もあります。現在の住居はこの古い簿冊では保証できません。ただ、病舎へ本人から届いた転居連絡の有無は、担当が確認できます」
「お願いします」
今度は声が出た。エルナは顔を上げ、自分で頼んだ。
係が奥へ行っている間、リオは移送元と退所日を手帳へ写した。病名を覗こうとはしなかった。
エルナは空いた頁を見つめている。
「八十四日」
「ええ」
「私たちが隊を解かれたあとも、ここにいた」
彼女は右の袖へ左手を掛けかけ、やめた。
「腕のことばっかりだった。自分の」
リオはペンを机へ置いた。
「今、ここへ来たのもエルナさんです」
「帳消しにはならない」
「帳消しのお話はしていません」
彼女は唇を結んだまま、短く息を吐いた。
戻ってきた係は、住所を読み上げなかった。
「本人へ連絡を取れる届けは残っています。病舎から使いを出せます。面会を望むか、伝えてよい連絡先はどこかを尋ねましょう」
エルナが握っていた退役札を、ゆっくり伏せた。
「隊の命令みたいには、言わないで」
「お知り合いが会いたいと申し出ている、と伝えます」
「エルナ・ヴァルクが。リオも一緒に。断られても、居所を探しに行かない」
使いに渡す紙には、それだけが書かれた。手紙の取り次ぎに別料金はなく、二人も写しを注文しなかった。
返事を待つ時間は、長かった。
窓の外で、洗い上がった敷布が風を含む。隣の病棟から笑い声がした。誰かが一度咳をし、そのあとまた笑った。
エルナはその音へ振り返った。リオも同じ方を見たが、どこの誰かは分からない。
「病舎って、もっと静かな場所だと思ってた」
「暮らしている人がいますから」
「そうか」
それきり彼女は黙った。今度の沈黙は、門柱の前のものより呼吸が深かった。
使いが戻ったのは、窓の影が机の端を越えた頃だった。
本人が面会を了承した。仕事の途中なので、十分だけ。病舎から歩いて十五分ほどの革切り場で待つという。
エルナは立ち上がったが、すぐには鞄を持たなかった。
「リオ」
「はい」
「謝る話ばかり始めたら、止めて」
「一度は聞いてからでいいですか」
「……一度だけなら」
彼女がようやく笑った。ひどく小さく、でも確かに、自分で作った笑いだった。
*
革切り場の戸は開いていた。
樹皮を煮たような匂いと、濡れた革の重い匂い。作業台の上に茶色い細帯が何本も並んでいる。
そこにいた男は、エルナより小柄だった。短く刈った黒髪、欠けた左耳。前掛けの端を膝へ巻き込み、丸い刃を両手で押している。
エルナの足音に顔を上げるまで、少し間があった。
「……エルナさんか」
丸い刃が、台の奥へ置かれた。
「オルフェン」
彼女はそこで言葉をなくした。
男は立ち上がらなかった。座った高さから二人を見て、口の端を少し曲げる。
「背、変わってないな。こっちの顔で驚いた?」
「生きてた」
「うん」
「私……」
謝罪の最初の音が、喉に絡んだ。
オルフェンはエルナの右袖を見て、それから作業椅子を足で押し出した。
「座って。立ったままだと、こっちが見上げるばっかりになる」
昔の兵ではなく、今この場所で働く人の声だった。
リオは自分の名と、エルナの治療の相談を受けていることだけを伝えた。
男の目が少し警戒を含む。
「俺の具合も聞きに来た?」
「今日は、会ってよいと返事を頂いたので。診察をお願いするつもりはありません」
「なら、いい。声、こっちから掛けて。左から小さく言われると落とす」
オルフェンは右耳を指した。
リオは椅子をずらした。エルナも、男の正面が見える位置へ座る。
男はその動きを確かめて、前掛けの粉を払った。
「死んだと思ってた」
エルナの左手は、自分の膝の上にあった。
「ベレンに聞いた。荷車でここまで運ばれたって。昨日まで、私は――すまなかった」
「俺が生きてたことで、謝りに来たのか」
「そうじゃない」
「じゃあ、そこはもういいよ」
拒まれた、と思ったのか、エルナの顎が引けた。
オルフェンは切りかけの革へ目を落とし、続けた。
「俺も調べなかった。隊は散ったって聞いて、戻っても仕事はないと思った。あんたが剣を使えないことも、知らなかった」
「使えない。でも、護衛はやってる」
「そうか」
男はうなずいた。
「俺も切ってる。剣じゃなくて、これを」
丸い刃へ視線を送る。その先の細帯は、長さも幅も揃っていた。
エルナが初めて作業台を見た。
「何に使う?」
「荷袋の持ち手。細いのは靴。太いのは、鞍の下に入れる」
「全部、一人で?」
「切る分は。縫うのは別の人だ。俺、縫うと曲がる」
「昔も装具の紐を」
「それ、まだ覚えてんのか」
男が笑い、エルナも鼻から短く息を漏らした。
謝るために来た十分の中へ、革の使い道が入り込んだ。リオは時計を見たあと、手帳を閉じた。
オルフェンは二人が持ってきた西通路の写しに気づいた。
「あそこ、調べてるのか」
「私の腕と関係がある。まだ分からない所が多い」
エルナは紙を出す前に、男を見た。
「聞いてもいいことなら、いつか訊きたい」
オルフェンは欠けた耳の縁を触り、しばらく黙った。
「今日は一つだけな。俺があの中へ行ったのは、人が残ってると思ったからだ」
リオの背が伸びた。
「鳴ってたんだ。壁の奥で、ずっと。誰かが取り残されて叩いてると思った」
「警報板?」
エルナの声に、男は眉を寄せた。
「その名は知らない。俺には、人の合図に聞こえた。それだけ」
「……ありがとう」
彼女は紙を開かなかった。
リオも、いつ、何回、どちらの壁かと続けたくなる問いを飲み込んだ。男が話したのは一つだった。
外から仕事仲間を呼ぶ笛が鳴った。
オルフェンは右へ顔を向け、作業台の覆いを持ち上げる。
「時間だ。あんた、また来るなら使いをくれ。仕事場じゃない所で話そう」
「来ていいのか」
「今度は、俺の方の話も聞くなら」
エルナはうなずいた。
「聞く」
「じゃあ。またな、エルナさん」
彼は隊長とも英雄とも呼ばなかった。彼女も部下を送り出すような声を出さなかった。
戸を出ると、エルナは長く息を吐いた。
「ただいま、って言わせそうだった」
「ええ」
「帰ってこなかったんじゃない。別の場所で、生きてた」
右手は相変わらず布の中にある。けれど、その手を急いで動かして何かを埋め合わせようとはしなかった。
リオは壁から少し離れた所で手帳を開いた。壁の奥の音。一人の兵が、人の合図だと思って向かったこと。
新しい記録は、術式の形ではなく、そこへ入った理由から始まった。
「次は用途簿だね」
「はい。音を出すための板だったのか、確かめたいです」
「でも、今日はここまで」
「……はい」
返事が遅れたのを、エルナは聞き逃さなかった。
「顔」
「そんなに分かりますか」
「分かる。今度は私が見てるから」
リオは手帳を閉じた。
生きていた人を、自分たちの失った時間へ連れ戻して終わらせない。
次に会う日には、革を縫うと曲がる話を、もう少し聞けるかもしれない。
リオはさっきの切り口を思い出した。端の厚さを指で確かめてから、男は刃を押していた。幅を合わせる速さは、初めて持った道具のそれではない。
「随分、練習したんだと思う」
エルナも同じことを見ていたらしい。
「会わなかった間に」
「はい」
「私の腕が戻ったら、何もかも元どおりになる気がしてた。あの人と会ったら、それは違うんだなって」
彼女は言ってから、左手で外套の襟を直した。風にほどけた灰金色の髪が、頬へ掛かる。
「元どおりじゃなくても、また会える。今日は、それが分かった」
リオはうなずいた。自分の施療所の看板へ書く言葉より、今はその一言を覚えておきたかった。
二人は革切り場の窓を振り返った。丸い刃がまた動き、その向こうでオルフェンが、仕事仲間へ何か言って笑っていた。




