帰らなかった兵を、死者欄へ急がせない
【前回までの人物】
・リオ:黒い薄片が塔の西通路を示す可能性を見つけた解呪師。塔へ戻る前に、町で読める三つの記録を調べる。
・エルナ:右手の薬指が半分まで動いた元騎士。改善を完治とせず、戻らなかった兵の記憶を本人の記憶として分けた。
・ダリオ:薄片の鑑定費と共同記録を整え、誰が何を見たかを残してから調査を進める商人。
翌朝、リオの水筒はエルナの鞄に入っていた。
「返してください」
「記録庫へ着いたら」
「塔へ行く鞄は作っていません」
「顔が作ってる」
エルナは右手を布の上へ置いたまま歩いた。薬指を曲げて昨日を確かめることはしない。今日は指の試験ではなく、西通路の記録を読む日だ。
市の記録庫は、乾いた羊皮紙と古い糊の匂いがした。受付の女性は、机へ三枚の木札を並べる。
「搬入箱の内容、閉鎖命令の署名、当日の点呼。閲覧理由は塔の保全調査。写しは一枚につき銅貨四枚です」
「三つ全部を先に頼まず、一つずつ読めますか」
リオが尋ねる。
「できます。閲覧料は変わりません。写しは必要な頁だけ」
「では、箱の内容から」
エルナは左手で最初の札を押した。
「順番も記録して」
「はい。先に読んだ物が、後の読み方を変えるかもしれません」
搬入台帳は二冊に分かれていた。
一冊目には、塔へ入った七箱が並ぶ。封鎖鎖六組、刻印釘二百本、警報板一枚。箱番号は一から七。警報板だけが七番箱だった。
「薄片と同じ黒い板?」
エルナが訊く。
「材質は『黒晶質』。同じとは書けません」
受付の女性が欄を指す。
「返却六箱は鎖と釘です。七番は返却欄が空白ですが、隣に赤い点があります」
「赤い点は?」
「別冊参照の印です」
二冊目を開くと、七番箱の行には『西通路内へ保全移送』とあった。移送の命令番号もある。だが、受領者の署名はない。
「返らなかったんじゃなく、通路へ移した?」
「移す命令は出ています」
リオは言葉を区切った。
「届いた記録はありません」
「箱は一つ。警報板も一枚。でも、薄片がその欠片とはまだ言えない」
「はい。黒晶質という言葉だけで繋げません」
エルナは台帳へ顔を近づけず、椅子を半歩引いた。右腕が机の縁へ当たらない距離を自分で選ぶ。
「警報板は、何を知らせる物?」
受付の女性は説明しなかった。
「この台帳の担当範囲外です。用途簿を別に請求できます」
リオの指が、無意識に四つ目の木札を探した。
「今日は三つ」
エルナが止める。
「分かっています」
「手が、分かってない」
リオは両手を膝へ戻した。
二つ目は閉鎖命令だった。
西通路を封じる。理由は崩落の危険。命令者は塔守備隊長ガルド・レイン。現場確認者は副官と工兵長の二名――のはずだった。
「工兵長の署名がありません」
リオが読む。
「副官だけ。閉鎖時刻は日没前」
エルナの眉が寄る。
「私が音を聞いたのは、日が落ちてから」
「命令のあとですか」
「たぶん。窓が暗かった。時刻までは言えない」
「暗かったという記憶と、正確な時刻不明を分けます」
命令書の下には、小さな追記があった。
『西側内壁の確認者一名、帰隊未確認。閉鎖を仮とし、翌朝再点検』
翌朝の再点検欄は空白だった。
「完全閉鎖の署名がない理由は、これかもしれない」
「翌朝に見る予定だった。でも、見た記録がない」
エルナの声が低くなる。
「隊はその日、塔を捨てた?」
「退去命令は別記録です。いまの頁では分かりません」
受付の女性は、知らないことを穴埋めしなかった。
三つ目の点呼簿は、名前の列が細かった。
帰隊、負傷、転送、行方未確認。戻らなかった兵はオルフェン・カスト。エルナの記憶に姓はなかった。
「この人ですか」
「名前はオルフェンだった。若くて、左耳が欠けてた」
点呼簿には外見がない。
「本人と断定せず、記憶上一致、と書きます」
リオは次の頁へ指を進めた。
翌朝の点呼で、オルフェンの名は死者欄へ移っていない。行方未確認のまま。三日後の頁にも同じ印がある。
七日後、名前だけが消えた。
「消えた?」
「転記先の番号があります」
受付の女性が欄外の細い数字を読む。
「西病舎の移送簿、四十二」
エルナが椅子から立ちかけた。
右腕が机へ近づき、彼女自身が足を止める。
「病舎へ行った?」
「点呼簿は、移送簿四十二を参照しています。本人が生きて着いたか、この頁では分かりません」
リオはすぐ希望へ変えなかった。
「でも、死者欄へは入っていない」
「そうです」
エルナは座り直し、右肩を一度下げた。
「私たちは、戻らなかった人を死んだと思ってた」
「塔から帰隊しなかったことと、生死は別です」
「生きてたなら、どうして誰も」
「まだ移送簿を読んでいません」
「分かってる」
短い返事のあと、彼女は左手で自分の額を押さえた。
「分かってるけど、腹が立つ」
「誰にですか」
「記録を分けた人。見なかった隊。死んだって決めた私。全部」
「最後の一つは、当時の情報でそう思ったことです」
「慰めないで」
「はい。怒っている、とだけ記録します」
三記録の写しを取る頁を決めた。
七番箱の保全移送。仮閉鎖の追記。オルフェンの移送簿番号。全部を写す費用は銅貨十二枚だった。
エルナが財布を出す。
「半分」
「調査勘定から払えます」
「私の隊の記録でもある」
「では、六枚ずつ」
誰かの罪悪感だけで費用を増やさない。受付の前で銅貨を分け、受領印を一枚にまとめた。
記録庫を出ると、ダリオが軒下で待っていた。鑑定所からの連絡を持っている。
「薄片は、一般的な黒晶ではない。表面の白線は顔料でなく、内部の結晶境界だそうです。ただし、警報板との一致は未確認」
「七番箱は黒晶質の警報板でした」
リオが写しを見せる。
ダリオは受け取らず、二人が机へ置くのを待った。
「同じ物だと鑑定所へ伝えますか」
「似た記述がある、とだけ」
エルナが先に答えた。
「用途簿もまだ。箱が届いた記録もない」
「ええ。その言い方なら、鑑定の向きを狭めすぎません」
ダリオの店で、三人は記録を別の列へ置いた。
物の記録。命令の記録。人の記録。
「一本の話にすると、警報板を運んだオルフェンが西通路で何かを見つけ、病舎へ運ばれた、になります」
リオが言う。
「簡単すぎる答え?」
エルナが訊く。
「はい。七番箱を運んだ人の名はない。オルフェンが確認へ行った時刻も、病舎へ移された理由もない」
「薄片が警報板なら、誰が割ったかもない」
「その通りです」
店の戸が開き、市の記録係が追ってきた。手には写しの控えと、閲覧区分の札がある。
「西病舎の移送簿四十二について、先に伝えておきます。病名と処置は非公開です。氏名、入退所日、移送元だけなら、守備隊関係者本人か調査責任者の申請で見られます」
エルナは左手を上げた。
「私は当時の隊員。証明は退役札で足りる?」
「札と、本人の署名。リオさんは同席者として記録します。閲覧目的を『オルフェンの生死確認』だけにすると、処置欄は伏せます」
「腕の呪いとの関係を見たい、と書いたら?」
リオの質問に、記録係は首を横へ振った。
「関係が確認されていない段階では、他人の病歴を開く理由になりません」
「分かりました。まず所在の確認だけ」
「申請は明朝。西病舎の古い簿冊は、午後に別倉から届きます」
エルナは退役札を机へ出したが、すぐ署名しなかった。
「私の名も、病舎へ残る?」
「閲覧者として残ります」
「オルフェン本人や家族が後で見たら、私が探したと分かる?」
「請求があれば。隠して読む制度ではありません」
「なら書く」
エルナは右手で筆を持とうとせず、左手でゆっくり名を書いた。字は少し傾いたが、他人に代筆させなかった。
「私が生きているか確かめたい。会うかどうかは、そのあと本人が決める」
リオは申請理由を、その言葉より広げなかった。
記録係が去ったあと、ダリオは退役札の番号だけを調査勘定へ控えた。
「病舎への寄付や見舞金を、先に用意しますか」
「しない」
エルナの返事は早い。
「生きてるとも、困ってるとも分からない。金を出して、会わせてもらう話にしないで」
「承知しました」
ダリオは財布を閉じる。
「必要になった時、本人の希望を聞いてから」
リオも続けた。
善意を先回りさせないことも、記録を読む順番に入った。
昼の鐘のあと、三人は塔の古い兵舎を知る荷運び人を一人だけ訪ねた。名はベレン。灰色の髭を短く切り、左肩を上げる癖がある老人だった。
「オルフェンを覚えていますか」
エルナが退役札を見せる。
老人はすぐ頷かなかった。
「その名の若い兵は二人いた。耳の欠けた方なら、荷車へ乗せた」
「いつ」
「塔を空にした翌朝。顔を布で覆って、西病舎へ」
リオは身を乗り出しかけ、椅子の脚を鳴らした。
「生きていましたか」
「俺が見た時は息をしてた。話せなかった。腕じゃなく、耳を押さえてた」
「誰の命令で?」
「紙は副官の印。俺は荷車を出しただけだ」
ベレンの記憶は、点呼簿の移送先と合う。だが、数年後の今も生きている証拠にはならない。
「病舎へ着いた所は見ましたか」
「門で引き渡した。中までは入ってない」
「七番箱や警報板は?」
「知らん。荷台には人一人と毛布だけ。箱を積んだ覚えはない」
物と人を同じ荷車へ載せた話にはならなかった。
エルナは老人へ礼を言い、店を出てから壁へ背を預けた。
「生きて荷車へ乗った」
「ベレンさんが見た時点では」
「言い方が細かい」
「細くしておかないと、明日会える人にしてしまいます」
「分かってる。今日は、その言い方でいい」
彼女は右肩を上げず、左手だけで深く息を整えた。
ダリオは三枚の紙の間へ、空白の札を置いた。
「次に読むなら、病舎の移送簿ですか」
「はい。ただし、病歴の閲覧許可が要るか確かめます」
「用途簿は?」
エルナがリオを見る。
「読みたいです」
「顔が早い」
「先に病舎。人の所在を、物の用途より先にします」
言ってから、リオは自分で頷いた。
右手の記録は、昼に一度だけ取った。
熱は昨日と同程度。痺れは弱い。指は曲げない。剣も握らない。
「今日は、何も動かしてない」
エルナが言う。
「動かなかった、とは書きません」
「覚えてた」
「昨日、間違えないでと言われました」
「なら、明日も覚えてて」
水筒は、店を出る時に返された。
「塔へ行く準備じゃないから」
「病舎へ持っていく水です」
「誰の?」
「僕たちの」
「よし」
帰らなかった兵は、まだ帰ったことにはならない。
生きていたとも、死んだとも決められない。
ただ、死者欄へ急いで入れられる名前ではなくなった。
エルナは写しの端を左手で押さえた。
「オルフェンが生きてたら、謝りたいと思ってる」
「何をですか」
「死んだ人にしてたこと」
「会えるかも、本人かも、まだ分かりません」
「だから今は、思ってるだけ」
「それなら、そのまま持っていきましょう」
次は西病舎の移送簿四十二。
塔へ戻る道ではない。けれど、塔から戻らなかった一人の道を、町の中で追える。
リオは水筒と三枚の写しを別の鞄へ入れた。
今度はエルナも、それを塔へ行く鞄とは呼ばなかった。




