解けた指から、剣を急がせない
【前回までの人物】
・リオ:塔で拾った黒い薄片を市の石箱へ預けた解呪師。一度だけ曲がった白い線を、答えにせず比較することにした。
・エルナ:剣を握ると右腕が硬直する元騎士。薄片へ近づく試験を断り、図を見る役として観測に加わった。
・ダリオ:二人の調査を支える商人。鑑定費と所有権を分け、用途不明の薄片へ先に値を付けなかった。
石箱の蓋を開ける前に、リオは見る役を三つに分けた。
薄片の白い筋を見るのは市の記録係。比較紙を見るのはエルナ。針と時刻を書くのはリオだ。
「僕が薄片も紙も見たくなったら、止めてください」
「止める前に、自分で言って」
エルナは椅子の背へ右腕を預けた。昨日より指の痺れは弱い。ただし、剣の柄には触れていない。
「いまは、箱から三歩。ここから動かない」
「分かりました」
「返事が早い。距離も書く」
記録係が石盆を机の中央へ置く。
「蓋を開けます。白い筋が増えたら、比較を中止して布を戻します」
三人が頷いたのを見てから、彼女は長い柄で石箱の留め具を外した。
薄片は昨夜と同じ向きで眠っていた。
黒い表面に、白い筋が一本。針は一目盛り上がり、すぐ戻る。
「変化なし。針、一目盛り」
記録係の声に、リオは時刻を付けた。
最初は白紙。盆の左へ、端から指二本ぶん離して置く。白い筋は動かない。
次は同じ墨を塗った小片。動かない。
塔の図から位置だけを写した紙を置く。白い筋が、ほんの少し太くなった。
「曲がった?」
リオは紙を見ずに尋ねた。
「まだ。太く見える」
エルナの答えは短い。
「見える、で記録します」
「針は変わりません」
記録係が加えた。
紙を遠ざけると、白い筋は元の細さへ戻った。
同じ距離でもう一度置く。今度も太くなる。
「二回」
エルナは左手の指を二本立てた。
「位置写しで、線が太く見えた。二回。向きは変わらない」
昨日の一度だけとは違う。それでも、何に反応したかはまだ決められない。
原図を置く番になり、リオは紙を持つ手を止めた。
「図の向きは昨日と同じにします」
「昨日、上がどちらだった?」
「塔の北を窓側へ」
「今日は窓が反対」
エルナが顎で部屋を示した。
昨日の石盆は西側の窓口、今日は東側の比較机だ。窓を基準にすれば、方角が逆になる。
「窓ではなく、方角を揃えます」
リオは方位札を借り、図の北を実際の北へ向けた。
原図を置いた瞬間、白い筋が左へ曲がった。
「止めて」
エルナの声で、リオは手を離さず止まる。
「図のどこですか」
「昨日と同じ左。でも、図を北へ向けたら、塔では西側」
「薄片の向きは?」
記録係が石盆の縁へ刻んだ印を見る。
「昨日から固定。白い筋だけが動きました」
リオは息を吐いた。
落ちた場所ではない。黒槍獣が退いた暗がりでもない。図の西側に描かれた古い通路へ、筋が曲がっている。
「何を示すかは、未確認です」
自分から言う。
エルナが一度だけ頷いた。
次の比較は、図を九十度回すことだった。
原図を動かすと、白い筋もゆっくり追った。紙の端ではなく、図に描かれた古い通路の印へ向きを変える。
もう九十度。筋も動く。
白紙へ同じ印を一つだけ写すと、筋は太くなるが曲がらない。
「図全体と、あの印の組合せ?」
エルナが尋ねる。
「可能性です。塔の形、墨の重なり、拾った位置との関係もあります」
「今日は、どこまで」
「原図を回す比較まで。薄片を近づける試験も、エルナさんへ近づける試験もしません」
「よし」
彼女は右腕の位置を変えず、左手で図の古い通路を指した。
「ここ、前に兵が使った退路。私が呪われた時は、閉じてた」
「閉じた理由は?」
「壁の内側から音がした。上官は崩落だと言った。確認へ行った人は、戻らなかった」
言い終えたあと、エルナの指が紙から離れた。
「今のは、私の記憶。記録と違うかもしれない」
「本人の記憶として分けます」
市の記録係は、古い通路の保全記録を探しに行った。
リオは薄片を布へ戻し、石箱の蓋が閉じるまで見届ける。
比較が終わっても、エルナの腕をすぐ調べ始めない。
「休んでから、昨日と同じ記録だけ取ります」
「今日は、もう一つ試したい」
彼女が言った。
リオの背が固くなる。
「剣は握りません」
「分かってる。指を、自分で曲げたい」
右手は膝の布の上にある。これまで、剣を思い浮かべるだけでも薬指と小指が先に固まることがあった。
「薄片は閉じました。距離は三歩。痛みが増えたら止めます」
「私が止める。リオは、見えたことだけ言って」
エルナは右手を開いたまま、親指をゆっくり曲げた。
人差し指。中指。
薬指が半分で止まる。
「張る」
「手の甲ですか」
「腕の内側。昨日より、少し先まで動く」
小指は動かさない。
「もう一度は?」
リオが聞くと、彼女は首を振った。
「今日の一回を、二回にして悪くしたくない」
「はい」
動いた指を、治った指とは書かない。
ただ、本人の意思で三本と半分が曲がり、剣を握る硬直は試していないと記録する。
記録係が戻り、古い台帳の写しを机へ置いた。
「西通路は、塔の封鎖前に呪具の搬入路として使われています。崩落記録はありますが、完全閉鎖を確認した署名がありません」
「呪具の種類は?」
「この写しにはありません。搬入箱は七、返却は六。残り一箱の処理欄が空白です」
薄片が一箱を指している、と決めるには早い。
だが、西通路を次の調査候補へ入れる根拠は増えた。
「塔へ行く前に、搬入台帳の続きと、閉鎖を確認した人を探します」
リオが言うと、エルナは少し眉を上げた。
「行きたい顔なのに」
「行きたいです。でも、いま塔へ戻る理由より、戻らないで調べられる物が多い」
「それなら、一緒に探せる」
昼過ぎ、二人はダリオの店へ寄った。
ダリオは鑑定費の見積書を出し、薄片を買い取る話ではないと最初に言った。
「市の正式鑑定は銀貨一枚。三日保管を含みます。調査勘定から出すなら、残りの使い道も書き直しましょう」
「お願いします。ただし、薄片の所有者は僕でも店でもなく、拾得の共同記録にしてください」
「市も同じ条件です。勝手に研究所へ渡しません」
エルナが見積書の保管期限を読む。
「三日で決まらなかったら?」
「延長費を払うか、安全な返却先を決める。宿へ持って帰る、は私は勧めません」
「私も嫌」
「一致しましたね」
ダリオはそこでだけ笑った。
リオは今日の比較を説明した。
白紙は変化なし。墨小片は変化なし。位置写しで筋が太く見えた。原図では古い西通路へ曲がり、図を回すと筋も追った。薄片は固定。針は一目盛りのまま。
「昨日より、売りにくくなりました」
ダリオが言う。
「価値が下がった?」
「逆です。用途が分からない物へ、知りたい人が増える。だから、値段より先に渡す条件が要る」
「見せる相手も記録します」
「ええ。秘密にして囲うのではなく、誰が何を見たかを残す」
店の奥で、エルナはもう一度右手を布へ置いた。
指を曲げる試験は繰り返さない。代わりに、熱と痺れを読む。
「薬指まで動いた」
彼女が小さく言う。
「はい」
「嬉しくないの?」
「嬉しいです。だから、剣を握って確かめたいと言わないようにしています」
「正直」
エルナは笑い、すぐ真顔へ戻った。
「私も、握りたい。でも今日はやらない」
「次も、動いた指から確認します」
「次は、私が決める」
「はい。相談して決めます」
解呪は、白い光が消えて一度に終わるものではなかった。
今日は、薬指が半分まで動いた。薄片の筋は西通路を追った。台帳には返却されない箱が一つある。
どれも、単独では答えにならない。
それでも、昨日より確かな順番ができた。
剣を握らせて治ったか確かめる前に、本人が動かせる指を増やす。
塔へ戻る前に、町で読める記録を読む。
薄片を売る前に、誰へ見せるかを決める。
エルナは右手を閉じきらず、開いたまま立ち上がった。
「帰ろう。今日は、これ以上よくしない」
リオはその言い方を、後退とは思わなかった。
「はい。解けた分を、急がせず持ち帰ります」
宿へ戻る途中、エルナは町の階段を一段ずつ上がった。
右腕を庇って体を傾けない。左手の杖を先に置き、足を運ぶ。薬指が動いたことを確かめるため、歩きながら手を曲げることもしない。
「さっきから、私の手を見てる」
「見ています」
「隠さないんだ」
「動かしてほしいとは言いません。ただ、痛みで肩が上がっていないかは見ます」
「今は上がってない。階段が終わったら、自分で記録する」
患者の変化を見ないふりはしない。見たからといって、試す理由にも変えない。
宿の机で、二人は今日の観測を別々の紙へ書いた。
リオは薄片、原図、針、時刻。エルナは自分の腕、距離、指の動き、止めた理由。
「三本と半分、って書く?」
エルナが自分の右手を見る。
「薬指は半分まで。小指は試していない、と書きます」
「動かなかったんじゃなく、動かしてない」
「はい」
「そこ、間違えないで」
試さなかったことを、失敗の数字へ入れない。
リオは西通路の台帳写しを、塔の図の横へ置いた。
搬入箱七。返却六。閉鎖確認の署名なし。エルナの記憶では、壁の内側から音がし、確認へ行った兵が戻らなかった。
この四つを一本の物語へ繋げるのは簡単だった。残った箱に呪具があり、通路の奥から塔を動かし、エルナの腕を縛っている。
簡単すぎる答えだった。
「今、全部つなげた?」
エルナが聞く。
「頭の中では」
「紙には?」
「書きません。仮説欄へも、まだ早いです」
「どうして」
「返却されない箱が、処分済みかもしれない。戻らなかった兵は別の出口へ出たかもしれない。薄片が図の記号へ反応した理由も分からない」
「よし。私の記憶も、正しい証拠じゃない」
次に探す記録を三つだけ決めた。
西通路の搬入箱の内容。閉鎖命令を出した上官の署名。戻らなかった兵の点呼記録。
四つ目以降は、三つを見てからにする。
「塔へ行く準備は?」
「まだしません」
「鞄を触った」
「水筒を乾かします」
「本当に?」
「半分は、塔へ行く時を考えました」
エルナは呆れたあと、左手で水筒を机から遠ざけた。
「なら、今日は私が預かる。明日、記録を読む所へ持ってくる」
「水筒を?」
「塔へ行く鞄を作らせないため」
「返してください」
「明日」
そのやり取りで、二人は少し笑った。
笑ったあと、エルナは真剣な顔で付け加えた。
「指が動いたのは嬉しい。でも、動かなかった昨日の私が間違いだったことにはしないで」
「しません。昨日の硬直も、今日の動きも、どちらも本人の状態です」
「解呪したって、もう言う?」
「一部の動きが戻った。原因と持続は未確認。解呪の途中、と記録します」
「それなら、いい」
リオは本日の結論を最後に一行だけ書いた。
剣を握らず、薬指が半分まで動いた。再試験なし。
派手な成功ではない。
けれど、本人が止めた所までを成功として残すなら、次の解呪は今日より先へ進める。




