剣では切れない、帰り道
【人物のおさらい】
・リオ:呪いの治療法を調べ、独立を目指す解呪師。
・エルナ:右腕に呪いが残る元騎士。リオと調査を続けている。
エルナが描いた二本の柱を、リオは消さなかった。
けれど翌朝、塔の石段へ上がることもなかった。
入口で待っていた保全担当は、二人の図を見る前に、上を示した。
「昨日の欠けた所は、まだ見てない。今日は踊り場を使わせられん」
帆布の袖に白い粉が付いている。男はもう下の留めを一つ直したらしく、革袋から出した工具の先だけが、朝の光へ濡れたように光った。
リオは頷いた。
「今日は、こちらの蓋だけを見せていただけますか。前に、鏡で見た方です」
「いつもの点検なら、これからだ。ただし、向こうまで繋がってると決めて触るなよ」
「はい。昨日の線と同じかも、まだ分かりません」
言ってから、彼はエルナを見た。
灰金の髪の下で、彼女は二本の柱を描いた紙を畳むところだった。左手で押さえた折り目は、少し斜めになった。
「次に上がる時の図だから。今日、使わなくても、いいでしょ」
「はい。先に決めた位置へ、戻れるように」
彼女は紙を鞄へ入れた。
行けなくなった場所に、昨日の努力まで置いていく必要はなかった。
*
蓋の前は、広間よりずっと明るかった。
塔の外壁へ沿って風が流れ、足元の草を壁と反対へ倒している。低い石へ腰を下ろしたエルナが、杖の先で地面の窪みを示した。
「足、そこへ置かないで。屈むと、踵が落ちる」
リオは靴を半足ぶんずらした。
昨日の退路を選んだ声と同じ、短く、足元へ届く声だった。
保全担当が蓋を開いた。金具が擦れ、古い木の裏に溜まった埃が、細い束になって落ちる。
リオは手を入れなかった。
鏡に映る継ぎを見て、前の図を横へ置く。
広間の獣を見たあとだと、細い明滅の一つ一つが、あの背へ向かう物に見えかけた。彼は、昨日の獣を描いた紙を、いったん裏へ返した。
「どこまで見えてる?」
エルナが訊いた。
「この継ぎの奥までです。広間へ出る所は、ここから見えません」
「じゃあ、今は、それで」
彼女は彼の横へしゃがみ、鏡の縁を見た。彼女に、彼と同じ線が見えるわけではない。それでも、どこを見て話しているかは確かめられる。
男が二人の図を覗く。
「その赤い方、俺が替えた留めか」
「いいえ。こっちが、金具の位置です。赤い方は、僕に見える術の流れで」
リオは紙の端へ、別の見出しを書いた。
同じ場所を描いているからこそ、同じ線の意味へしてはいけなかった。
*
保全担当が手を動かす前、リオは今日の作業を尋ねた。
男は蓋の下へ膝をつき、革袋の口を広げる。
「外の留めを見て、緩んでりゃ締める。奥の古い継ぎは、今日も剥がさん。ここを壊す道具も持って来てない」
「外の留めを、一度外しますか」
「こっちはな。替えた板の下を見て、また戻す。その間、蓋を持ってろ」
頼まれたのはエルナだった。
彼女は左手で持てる縁を確かめ、杖を倒れない所へ置く。
「これくらいなら。右へ倒れたら、手を出せないからね」
「なら、俺の方へ寝かせる。高く持たなくていい」
男は蓋の角度を変えた。
リオは、その短いやり取りを待ってから口を開いた。
「外す間、流れを見ていてもいいですか。昨日の試験糸は、今日は置きません」
「見るのはいい。外す時、声を掛ける」
男は答え、工具を選び直した。
リオのために通常の仕事を危険な順序へ変えるのではなかった。普段から開ける物を、普段の順に開ける。その変化を、一緒に見せてもらう。
それだけでも、昨日には得られなかった比べ方ができる。
エルナは蓋の縁を左手で押さえた。
リオは鏡を見る。
男の工具が、小さく鳴った。
「外すぞ」
留めが一つ緩み、外装の板がほんの僅か浮いた。
その瞬間、赤い線が細くなる。
リオは身を乗り出しかけ、踵へ力を戻した。さっき言われた窪みは、すぐ後ろにある。
「今、細くなりました」
「板が浮いた所?」
エルナが訊く。
「その少し奥です。見え方が変わっただけかもしれません。鏡を動かさず、戻す時も見ます」
男は、裏の木の状態を確かめていた。リオの返事に合わせて、作業を急いだりはしない。
待つ間、線は細いまま残った。
途切れたわけではない。
リオは、消えた、と書きかけた手を止めた。
板が戻った。
工具を掛ける前に、線が元の太さへ近づく。
男が留めを締める。
リオは、その二つの時を、別々に紙へ置いた。
金属を締める音の時ではなく、板が重なった時に変わった。
ならば、留めの金具そのものが、全部の原因だとは言えない。
「もう一度、外してもらえますか」
言葉が、先に出た。
男が顔を上げるより早く、リオは続けかけた口を閉じた。
エルナも彼を見る。
「今日の点検が、もう一度いる理由?」
彼女の声は低かった。
リオは鏡から目を離した。
「僕が、見直したい理由でした。点検の理由では、ありません」
男は工具を布で拭いた。
「今ので、裏は見た。次、板を開ける日にも見たいなら、来る前に聞いてくれ」
「はい。今日の分は、今見た所まで残します」
リオは答えた。
見ることに協力してもらったからと、次の作業まで自分の実験へ変えてよいわけではなかった。
*
蓋を閉じる前に、エルナが外壁の下を指した。
「そっちの、古い板。下の隙間、さっきのと違うね」
保全担当が頷く。
「替えた方より、少し沈んでる。ここは前からだ。新しい傷じゃない」
リオは、彼女が見た方へ鏡を向けてもらった。
自分の線だけを追っていた時には、同じ継ぎの一部に見えていた。だが、石の段と板の重なりで分けて見ると、明滅は板の奥で二つへ折れている。
広間へ進む側らしい線とは別に、細い方が外壁の下へ戻っていた。
昨日、柱の陰へ下がった時に見えた、手前へ残る細い道。
似た曲がり方だった。
彼はそれを、同じだ、とすぐ繋がなかった。
「ここに、もう一つあります。外壁の下へ向かう方です」
男は彼の指の先を見た。
「その下には、古い点検口がある。だが、今日は鍵も持ってないし、開ける予定もない」
リオの顔が上がった。
エルナが、蓋の端を押さえたまま、彼を見返す。
「今から、走らないでよ」
「走りません。でも、場所を、図へ入れたいです」
「場所なら、俺の控えを見ろ。開けて中を見た図と、外から位置を見た図は違うぞ」
男が革袋を探った。
取り出した紙は、リオの術の図よりずっと角ばっていた。壁の段、蓋、金具、外から回る通路。古い点検口は、低い四角で描かれている。
リオは、まず外から歩ける線を写した。
その隣へ、今見えた明滅を別の色で引く。
途中には、空いた所を残す。
目に見えない距離を、紙の上で勝手に短くしないための空白だった。
エルナは左手を蓋から離し、男が閉じ終えるまで待ってから、杖を取った。
「そっちへ回る時、坂はある?」
「ある。濡れた日は滑る。下へ下りる道は一本だ」
「今日は、そこから見える?」
「入口の位置なら、この角から。降りなくても、目印は見える」
リオは、彼女が先に道を尋ねたことを紙へ残した。
次の行先が一つ見つかった喜びはある。それと同じ重さで、どうやってそこへ行き、戻るかが必要だった。
*
三人は、外壁の角まで歩いた。
遠くの低い所に、草が切れた四角がある。点検口そのものの内部は見えない。脇に立つ細い石が、控えの目印と同じだった。
エルナは、坂の上へ杖をつき、下りなかった。
昨日の柱の図へ、新しい坂を付け足す。
「こっちは、上へ戻る時、長いね」
「疲れてからだと、ここで遅れそうです」
「うん。だから、上まで行った続きに、そのまま下へ行かない」
リオは頷いた。
獣のいる広間と、この低い点検口を同じ日に追い、見えた所から順に全部調べる案が、もう頭に浮かびかけていた。
彼女の図は、それを、人の足で歩く一日に戻してくれる。
男は控えをしまった。
「開けられるかは、戻って記録を見る。次の巡回で使えるとも、今は言えん」
「返事を待ちます。外の線を見たい理由は、紙へ書いて渡します」
リオは言った。
男は頷き、自分の工具袋を肩へ戻した。彼らの先の調査が決まるまで、男自身の仕事が止まることはなかった。
*
塔を離れてから、エルナは石の上へ腰を下ろした。
リオも隣へ座る。風でめくれる紙の端を押さえ、今日見たことを短く並べた。
外装の板が浮いた時、線は細くなった。板を戻した時、締め終わる前に太さが戻った。外壁の下へ折れる別の線がある。古い点検口の位置を、控えと外の目印で確かめた。
昨日見た獣の背まで、連続して追えたわけではない。
それでも、塔へ戻る力を、強い攻撃で押し切る以外に調べる入口が見つかった。
「剣で、あの板は切れないね」
エルナが言った。
リオは顔を上げた。
「斬る力は、あると思います。でも、あの奥が分からないまま壊したら」
「うん。斬れるか、じゃなくて。私たちが、やりたい方へは、切れない」
彼女は右袖を見た。
剣を握った時の硬直を、ここで確かめ直しはしない。昨日も今日も、包みは開いていなかった。
「部隊にいた時、押すのをやめるって、後ろの人へ言うのが、一番難しかった」
エルナが続けた。
リオは鉛筆を紙へ置いた。
「話してもらっても、いいですか」
「今、話してる。全部じゃないけど」
彼女は少しだけ笑った。
「硬くなったら、前の人が押し返される。後ろは、もっと力を足す。前にいる人が、足りないって思われたくないから」
声が一度、途切れた。
リオは、誰が命じたのかを尋ねなかった。
エルナは杖の柄を左手で回し、言葉を続ける。
「昨日、あんたが手を引いた時、また押すと思った。私も、そうしてきたから」
「押し返したくなりました」
「見てた。だから、引いた方も、見た」
彼は自分の指を見た。
昨日の熱は、もう皮膚にない。それでも、出しかけた力を引いた時の怖さは、まだ思い出せた。
何もしなかったから助かった、というだけの話ではない。自分が何を送り、相手へ何が戻るのかを分けるために、手を引いた。
「次に、僕がまた押す方だけ見ていたら、言ってください」
リオが言うと、エルナは眉を上げた。
「言うけど。私にだけ、止める係を置かないでよ」
「はい。自分でも、外す所まで先に決めます」
「その図なら、一緒に見る」
彼女は、紙の空白へ指を置いた。
リオはそこへ、点検口の内側を見ていない、と書く。
知らないことを目立たせる文字が、昨日より小さくならなかった。
*
帰る前、リオは依頼の控えを書いた。
塔の壁の下へ向かう線を、既存の点検口から観察したい。古い継ぎを剥がさず、人体の呪いを試験へ使わず、通常保全の作業へ同行できるかを尋ねる。
上段の通路の利用とは、別の相談にする。
書き終えて見せると、エルナは最後の一行へ指を置いた。
「ここ、私も行くって、先に決めてない?」
リオは読み返した。同行者二名。いつものつもりで書いていた。
「まだ、聞いていませんでした」
「行きたい。でも、坂へ下りるなら、道の返事も聞いてから」
彼は頷き、人数の欄へ、経路確認後に確定、と書き足した。
エルナは、その下へ自分の名を書いた。
誰かに全部の危険を預けるための名ではなく、自分も見たいと伝える名だった。
塔の上は、まだ使えない。
獣も、右腕の呪いも残っている。
けれど、帰り道を描いた昨日の紙に、今日は、別の入口へ下りる道が加わった。
リオは二本の柱の図を、坂の図と同じ鞄へしまった。
どちらも、遠回りの記録ではなかった。
彼が隣を見ると、エルナが先に立ち、杖で道の端を一度叩いた。
「今日は、こっち。紙、歩きながら見ない」
「はい」
彼は笑い、彼女の足元から、同じ道を見た。
坂を振り返ると、角の石はもう見えなかった。次に来る時も、入口の控えから確かめよう。リオは鞄の口を押さえ、前を歩くエルナへ追いついた。
杖の先が乾いた石を打つ音を、リオは聞いた。坂を下りる日の足音も、今の二人の歩幅から決めたかった。




