其之12 とんだ忘れ物 (突撃! 酉田屋・前編)
琥狐と暮らし始めてから、3日目のこと。
いつも通り、女学校から帰ったわたしが、純喫茶「ともしび亭」の女給仕事をしていると――。
「あれ! どうしましょうっ」
おろおろした風に、女将の千代子さんが蒼い顔をしていた。
わたしも慌てて千代子さんに尋ねてみた。
「どうかなさったんですか?」
「ああ。お紗江ちゃん。なに、お客様がお忘れ物をなさったみたいでね」
「忘れ物??」
「そう。おカバンごと。お財布は懐に入れておいでだったから、お支払いでもおカバンから出す必要がなくて、うっかりしたんだろうね」
「って、コトは、忘れられた御方、分かってらっしゃるんですか?」
わたしが尋ねると、千代子さんは一瞬ギクッとしてまごついていた。
分かってるなら、今すぐ届けてあげればいいのに。
何ならわたしが行きます、って言おうかしら。
そう眉間に皺を寄せていると――。
「酉田屋の坊ちゃんだよ」
すぐ傍で、給仕主任で勘定場も受け持つ住田さんが言った。
「と……っ!」
わたしも目を剥いて狼狽する。
成金呉服商、酉田屋の跡取り息子。
坪井豪太。
顔は悪くないのに、四六時中、威張っていて、貧乏人を馬鹿にしている。
どこぞの華族様らしい婚約者がいるくせに、いつも、わたしに「妾になれ」って誘ってくる不届きなヤツだ。
そして、わたしは、なるべくアイツに会いたくない。
「いつもなら、お紗江ちゃんに行ってもらおうかしら、って思うんだけれど。流石に、あの坊ちゃんはねえ。もうすぐ日も暮れてしまうし」
千代子さんも深い溜息をついて言う。
つまり、この時間に、わたしが忘れ物を届けると「危険な目に遭うかも」って心配してくれているのだ。
でも――。
(アイツ、あの神社を破壊した張本人で、あそこの宝物盗んだのよね?)
そう紫希が激怒して訴えていたから、わたしも、思わず「取り返すの協力します!」って言っちゃったんだけど。
そして、案の定、ハツカネズミ大の三尾の白狐姿でわたしの懐紙入れに潜む紫希――いや、琥狐から、「君ガ行ケ」な念がフツフツ送られている気がした。
なので、わたしも、内心、イラッというか、「うわー。ヤダー」な気はしたけど、そこをグッとこらえて、スウと深呼吸した。
「いえ! 大丈夫ですっ。ちゃっちゃと届けて、ちゃっちゃと帰ってきます!!」
思い切り挙手をして、ドドンと胸を張った。
「本当に大丈夫かい? なんだか心配だねえ」
千代子さんも気の毒そうな顔をしていたけれど。
ただ、現状、持ち場を離れても問題ないのは、ほぼほぼ見習い女給みたいな、わたしだけで。
「じゃあ、アンタ、徒歩じゃなくて、タクシー使いなさい。運賃は経費で落としていいから」
「えっ。いいんですかっ?」
まさかのご厚意に、わたしも顔をぱあっと明るくした。
千代子さんも少し憐れむような複雑な顔で頷く。
「だってねえ。アンタ。お嫁入り前の若いお嬢さんに何かあったら、と思うとねえ。アンタの親御さんにも申し訳が立たないよ」
「千代子さん……!」
本気で心配してくれてるらしい千代子さんに、わたしもジーンと感動する。
「大丈夫です! いざとなったら、アイツ、ぶん殴ってでも逃げてきますからっ」
「おやおや。物騒だねえ。でも、あの坊ちゃん相手なら、それぐらい勇ましくても、ちょうど良いかもしれないねえ」
千代子さんが失笑すると、ともしび亭の皆さんも、ワハハと和やかに笑っていた。そこで、わたしは忘れ物とタクシー代を預かり、千代子さんが電話で呼んでくれたタクシーが店先に着くなり、「お願いします」と乗り込んだ。
考えてみれば、わたし、上京してから自動車に乗ったの、これが初めてかも。
ブロロと案外爆音のエンジン音にビックリしながら、一路、酉田屋へと向かった。
(すごい……! 窓の外の景色がどんどん変わっていく。歩くと、絶対、この倍以上はかかるわ。これなら、明るいうちに帰ってこれるかも!!)
あっという間に過ぎ去りゆく見慣れた街並みに、わたしは感動を覚えながら、初タクシーを満喫していた。いえ。これもお店の業務の一環だと思うと、ワクワクするのは、ちょっと不謹慎かもしれなかったけれど。
そうして、馬喰町に入った辺りで、衣料品の問屋街も見えてくる。
酉田屋は、今でこそ一般客にも商品を販売しているけど、昔は呉服の卸専門だったらしい。だから、立地的には、日本橋地域になるけど、店を構えているのが裏通りみたいな場所になる。
そういえば、女学校で「美男の社長さんがいる」って、もっぱら噂になっていた蘇芳屋さんは、表通りの立地っぽいんだけど。後発でそこに店を構えられるなんて、成金の酉田屋より資金力があったのかしら?
まあまあ、お店だって、商売するにあたって、顔なじみとか、近所付き合いとか、もろもろ大切だから、資金力がすべてではないと思うけど。
まもなく、酉田屋の看板が目に入るや、その店先でタクシーも停まった。
わたしは、「ありがとうございました」と運転手さんに告げ、とりあえず、往路分の乗車賃を支払い、領収書を書いてもらう。
できれば、タクシーには、そこで待機してもらえれば良かったんだけど。
道幅的に「路上駐車は一時的なものに限る」となっている場所だったし、待機中も代金が計算されてしまうから、泣く泣く、すぐにお帰りいただいた。
とはいえ、帰路も乗る予定だったから、運転手さんに、事前に「この辺りで1番近いタクシーの乗降所ってどこですか?」と、乗り場を教えてもらってから別れた。もちろん、わたしの備忘録に、乗降所の名前と簡易地図を描いてもらって。
「……よし!」
わたしは気合を入れて、酉田屋に一歩足を踏み入れた。
<執筆後記>
この「突撃! 酉田屋」編も、できれば1話で終わらせたかったのですが。
端折りすぎると時間の流れが出ないし、人間関係とかも分かりにくくなるので。
結果、細切れみたいな進行になってしまい、申し訳ございません。
こちらは、「前編→後編」みたいな感じで、次回へ続きます。




