第3話 9999兆円の金の壁と、覚醒するポンコツ女神 その1
大谷を完全に叩きのめした翌朝。
俺の日常は――驚くほど、いつも通りだった。
いつも通りの満員電車に揺られ、いつも通り自席に着く。
だが、決定的に違うことがひとつだけあった。
「……定時だ。お疲れ様でした」
時計の針が定刻を指すと同時に、俺は誰の顔色を伺うこともなくスッと立ち上がった。
理不尽なロジハラで「今夜徹夜で作れ」と叫ぶ課長はもういない。
フロアの社員たちが「えっ、平野さんもう帰るの!?」と驚愕の視線を送ってきたが、知ったことではない。
社畜生活はそのままに、俺は念願の「定時退社」を手に入れたのだ。
――
帰りの道中。
駅前の見慣れた牛丼屋に立ち寄り、カウンター席に着く。
店内には他人の目があるため、俺は片耳だけイヤホンを付け、スマホをテーブルに置いた。
『(平野)なあ、オムニア。ひとつ聞いていいか?』
画面の中では、ちびキャラのオムニアがヒマそうにドレスの裾を揺らしている。
『なにかしら、真一?』
『(平野)お前、一応「至高なる万能神」なんだろ?』
『当然よ』
『(平野)じゃあ、なんでそんな画面の中でちびキャラやってるんだ? そもそも、なんでスマホの中に住み着いてる?』
『ふふん、甘いわね真一! あのパズルから解放された時、我が封印を破るために莫大な神力を消費したのよ! だから今、本来の美貌で実体化するための神力が全然足りないの!』
『(平野)あー……だからスマホの中に避難してるわけか』
『そういうこと! まぁ、アンタのいるこの現代社会なら、我がスマホの中にいたところでネットワークシステムのハッキングもデータ解析も朝飯前だし、実体化しなくても何一つ支障はないんだけどね!』
「へーへー、なるほどな」
注文した「牛丼並盛り・玉子・味噌汁セット」が運ばれてきたので、俺は七味唐辛子を振りかけながら小さく生返事を返した。
実体化しなくても現代社会を裏から支配できるなら、当面はこのポンコツちびキャラ形態のままで十分そうだ。
『ちょっと! 投げやりな返事をしないでちょうだい!』
画面の隅で桜色の粒子をプンプンと散らすオムニアを横目に、俺は紅生姜を添えた牛丼を一口かきこんだ。
……定時で食べる牛丼は、いつもの10倍美味い。
そんな平和な時間の裏で、俺にはまだ片付いていない問題が残っていた。
祖父が遺した“ヤバいアレ”の正体だ。
「そういえば、オムニア。あの地下解析、結局どうなったんだ?」
『……解析?』
オムニアは数秒間、完全に停止した。
『……あ』
「おい」
『……忘れてたわ』
「万能神が忘れてどうすんだよ……」
『う、うるさいわね! どうせ大した進展もなかったし、細かいことはいいのよ!』
「はいはい」
――
週末。
大谷がいなくなったことで平和を取り戻した俺は、祖父の遺品整理を終わらせるため、実家へと足を運んでいた。
誰もいない実家の押し入れの奥をゴソゴソと探っていると、古いタンスの底から、ズッシリと重い鍵付きの革張りノートが出てきた。
「ん……? なんだこれ、じっちゃんの日記か?」
鍵を適当な針金で解除してページを開いてみると、そこには年老いた祖父の筆跡で、到底日本の農家とは思えない物々しい記述がズラリと並んでいた。
『○年○月○日:本日、王都の広場へ召喚される。召喚主の姫様が泣いていたので、とりあえず引き受けることにした』
『○年○月○日:魔王城の地下ダンジョン構造について。トラップが多くてウザい』
「……なんだこれ。じっちゃん、末期はボケてラノベみたいな日記書いてたのか……?」
最初の方のページを何枚かパラパラとめくったが、あまりの突拍子のなさに読むのがバカバカしくなってきた。
俺は細かい記述を途中で盛大に読み飛ばし、一番最後の数ページへ一気に飛ぼうとした。
その時……机の上に立てかけておいたスマホのカメラが、日記の紙面を捉える。
『……ちょっと待ちなさい、真一! そのページ、カメラでよく見せなさい!』
ふたりきりの部屋なので、スマホのスピーカーからオムニアの素の声が直接響き渡る。
画面内のちびキャラが、虫眼鏡を取り出して画面に張り付いていた。
「ん? どうしたオムニア。ただのボケ老人の妄想日記だぞ?」
『バカね! 妄想なんかじゃないわ! ほら、その最後のページの端……かすかに″空間干渉の術式″が魔力インクで書かれているわ! その文章を声に出して読んでみなさい!』
言われるがまま、俺は日記の最後の数行に目を落とし、音読した。
「『……裏山の雑木林、一番奥にある古びた祠。そこが全ての始まりであり、俺が残した最大の遺産だ。真一、もしお前がこれを見つけたら、祠の裏の3番目の岩を押せ』……?」
『やっぱり! 真一、今すぐそこへ行くわよ! 我が感じるわ……その祠の地下に、とてつもなく強い歪み――ポータルの反応があるわ!』
オムニアの声には、これまでにない真剣みがこもっていた。
「裏山の祠……。小さい頃、じっちゃんから『あそこには絶対近寄るな』って固く言われてた場所か」
俺は手元にあった遺品整理のゴミ袋を横に退け、作業の手を完全に止めた。
積み上がったダンボールや片付けかけの荷物は、もうどうでもよくなった。
「よし……じゃ、ちょっと行ってみるか」
部屋の隅に転がっていた普段使いのリュックを手に取り、ヒョイと片方の肩にかける。
懐かしさと、祖父の遺した“本当の秘密”への好奇心が胸の中で静かに跳ねていた。
俺は埃っぽい実家を後にし、裏山へと続く雑木林の坂道を登り始めた。




