第7話 魔王の残影 その3 決戦の刻
いつもの秘密基地に到着すると、ロビーの隅で待っていた桜井の姿を見つけた。
「おはよう」
「おはようございます。先ほど、平野さんの分も受付は済ませました」
「ありがとう。行こうか」
俺は、何か気の利いた会話でもできないかと考えたが、言葉はうまく出てこなかった。
「昨日はよく眠れたか?」
「はい。作戦はある程度整理できていますので、早めに休みました」
桜井はジト目で俺の顔を見ながら、淡々と答えた。
しかし、その目の下にうっすらと浮かぶクマを見れば、十分に眠れていないことなど一目瞭然だった。
「そうか。ならよかった。今日は勝つぞ」
フリードリンクコーナーに近づいた俺は、桜井に声をかけた。
「コーヒーでいいか?」
「いえ、今日はジンジャーエールで」
「えっ?」
「どうしました。たまには炭酸も飲みたいと思いましたので」
桜井も内心ではそれなりに緊張しているのだろう。
それ以上、理由を聞くことはしなかった。
俺たちはそれぞれ飲み物を手に取ると、個室へ向けて歩き出した。
個室に入ると、桜井は迷うことなくテーブルの端に持参したノートPCを置き、手際よく起動させて準備を進める。そして鞄からスクエア型のブルーライトカットメガネを取り出し、すっと細い鼻筋にかけた。
俺もそれに続くように、スマホを専用のスタンドにしっかりと固定する。
画面の中で、オムニアが腕を組んだままこちらを覗き込んできた。
『真一、準備はどう?』
「ああ、こっちも今セッティングが終わったところだ」
桜井がノートPCの画面にいくつかのウィンドウを展開し、あとは市場が開くのを待つだけとなる。
「市場開始まで、残り十五分です。……予定通り、定刻と同時に仕掛けます」
桜井の淡々とした声に、俺はうなずきながらスマホの画面に向き直った。
「オムニア、桜井。最後の確認だ。今回の作戦で叩く標的は二つだ。まずはAI『エンペラー』の足止め、そして神門の内部に潜む『魔王の欠片』の直接撃滅だ」
俺がそう切り出すと、桜井が画面から目を離さずに淡々と補足した。
「はい。対エンペラー戦では、オムニアに鉄壁のセキュリティから、一瞬の綻び(ホール)を見つけ出してもらいます。その隙に、私が毒を流し込んで予測演算を狂わせ――奴に自発的な誤売却を起こさせます」
『ちょっと待ちなさい、桜井!』
スマホの画面の中で、オムニアがびしっと指を突きつけた。
『「オムニアに見つけてもらう」って、ずいぶん簡単に言ってくれるじゃない! 今回の相手は並のAIじゃないのよ!? ただの【神の目】程度で見抜けるほど甘くないわ!』
「以前おっしゃっていた、別の神技を使うという話ですね」
『そうよ! よく聞きなさい! 今回使うのは、我が広範囲に意識を展開し、あらゆる情報の中からたった一つの綻びを見抜く高位神技――【万象透過】よ!』
「万象透過……高次元オブジェクトによる広域・高負荷索敵モード、ということですね。了解です」
オムニアのドヤ顔での大見得を、桜井はコンマ一秒で自分の理解できる概念へと変換し、淡々と受け流した。
『ちょっと! 我が神聖なる神技の名を、そんな雑に扱うんじゃないわよ!』
画面の中で頬をぷくっと膨らませるオムニアをそのままスルーして、俺は話を続ける。
「……まあ、名前はどうでもいいとしてだ」
『真一まで!?』
オムニアが見つけた綻びへ毒を打ち込めるかどうかで勝負が決まる。
「毒が決まれば、一気にこっちが有利になる」
スマホの画面の中でオムニアが不満げに頬を膨らませて口を挟んできた。
『ねえ、前から思ってたんだけど……真一も桜井も、いい加減その『毒』って雑な呼び方やめてくれないかしら!?』
「え、でも実際やってることはAIの正常な予測演算を狂わせる致命的なエラーコードの注入だろ。どう見ても毒以外の何物でもないと思うが」
俺が呆れたように返すと、オムニアは画面いっぱいに顔を近づけて反論した。
『失礼ね! 我が手掛けた崇高な浄化プロセスを、人間が使う悪辣な毒と同列にしないでちょうだい! ……第一、我が関わっているのだから、ただの毒じゃなくて――『聖なる毒』と呼びなさい!』
個室の中に、ほんの一瞬だけ絶妙な沈黙が流れた。
桜井はカタカタと動かしていた手を止め、じっと画面を見つめ、それから俺に視線を向ける。
「……セイクリッド・ベイン、ですか」
「――セイクリッド・ベインか。うん、なんかいいな。ちゃんとした強力な武器や技の名前って感じで、悪くない」
俺が素直に感想を口にすると、オムニアは得意げに胸を張った。
『でしょ! 神々しさとえげつなさが同居していて、最高のネーミングでしょ!』
ふと桜井を見ると、なぜかその目がかすかに輝いていた。高次元オブジェクトの出力データに名づけられた中二病的なネーミングに、現役トップゲーマー『黒の剣士ナナ』としての血が密かに騒いでいるのかもしれない。
桜井は真顔のまま、爆速のブラインドタッチでキーボードを叩き始めた。
「分かりました。では、作戦上の正式なコードネームは『セイクリッド・ベイン』としてシステムに登録します」
「登録するんだ……」
これで、対エンペラー戦の認識は揃った。
「次は対魔王戦だな」
タイミングを見て、用意してあるファイルを神門宛てに送る。奴がそれを開けば、こちらと神門の間にオムニアの神力を通す『道』ができる手筈だ。あとは、その道を通して魔王の欠片を直接叩く。
「神門本人じゃなく、中にいる魔王だけを狙い撃つってことだ」
『任せなさい。我が神力を信じなさい』
スマホの中でオムニアがいつもの調子で鼻をならす。
これで、確認すべきことはすべて確認した。あとは、その時を待つだけだ。
ディスプレイの時計が静かに刻限を告げる。
――
同じ頃。
マジェスティ・パートナーズ最上階の執務室。
開場前の暗い部屋の中で、モニターが放つ不気味な青白い光が神門賢治の顔を照らし出していた。
デスク上のモニターでは、リミッターを完全解除された【エンペラー】が市場開始までの秒読みを続けていた。
その処理負荷を示す数値は、すでに通常運用の域を大きく超えている。
「ほ、本部長……! 市場が開くまであと十五分です。エンペラーの出力パラメータは本当にこの全開状態のままでよろしいのですか!? 市場トラブルのリスクが――」
「黙れ」
氷のように冷たい一言が、金田の言葉を遮った。
「リスクなどという瑣末な概念で私の邪魔をするな。数秒の遅れも許さん。開場と同時に、市場の株を根こそぎ喰らい尽くせ」
神門の瞳の奥に、人間のものとは思えない異質な光が宿る。
(万能神よ……ワシの完全復活を邪魔立てするなど笑止千万。今日、この世界でお前たちの絶望を骨の髄まで思い知らせてやる)
神門の口元が、ゆっくりと歪んだ。
その指先はキーボードの上に置かれたまま、微動だにしない。
「あと十五分。これですべてが決まる」
――
秘密基地。
ディスプレイの時計が【08:59】へと変わった。
「市場が開くまで、あと三十秒です」
桜井の静かな声が室内に響く。
さっきまで騒いでいたオムニアも、今は黙って瞳を閉じている。
俺は予備のモバイルバッテリーがスマホにしっかり接続されていることを指先で確認し、モニターの情報を凝視する。
(08:59:58……59……)
そして――【09:00】。
「……始まりました。東証、開場です」
桜井の宣言と同時に、静止していた板の数字が一斉に動き出した。
そして次の瞬間――その動きが、明らかに異常な速度へと変わった。
「……来ました。エンペラーです」




