第7話 魔王の残影 その4 全知の防壁
桜井の声と同時に、彼女のノートPCの画面に狂ったような速度でログが流れ始めた。
『ふふん、ただのテキストログじゃ人間には追いつけないでしょ? ちょっと待ちなさい!』
スマホの画面の中でオムニアが不敵に微笑むと、端末がじんわりと熱を帯びた。スマホから放たれた微かな桜色の光に呼応するように、Bluetooth接続を介して、オムニアが生成したデータパルスが桜井のPCへと送られる。
「これは……! 板の動きと注文パターンから再構成された、エンペラーの売買挙動のステータス画面……!?」
桜井のジト目が、驚きでわずかに見開かれた。
モニター上には、オムニアの解析によって可視化された「エンペラー」の挙動グラフィックが浮き彫りになっていた。無数のノードが複雑に絡み合い、膨大な資金力という名の触手を伸ばして市場の売り注文を超高速で吸収していく様子が、リアルタイムで描画されていく。
「速いな……! ログを目で追うのは不可能だが、こうして可視化されればエンペラーがどう動いているかが一目瞭然だ!」
「はい。観測可能な注文データからオムニアがエンペラーのアルゴリズムを推定・構築した状態ですね。極めて強力なサポートです。……この挙動からエンペラーの手法を解析します」
桜井の指先が爆速でキーボードの上を躍り、画面に表示されたエンペラーの売買パターンを分析していく。
「エンペラーは市場の流動性を限界まで吸い上げる、完全な力押しの超高速取引(HFT)を展開しています。板に売り注文が出たコンマ数秒後に次々と約定させ、市場に出回る浮動株を片っ端から吸収していますね。このペースでは、数十分もしないうちに株を喰らい尽くされます」
『でもね、桜井、真一。どんなに処理が速くても、人間が組んだプログラムに過ぎないわ』
オムニアの左目が桜色に光る。【神の目】を使っているのだろう。
ネットワークの先に存在するエンペラー。その深部を、静かに探っているように見えた。
『エンペラーの買い付けパターンの中に、明確な癖を見つけたわ! 奴らは買収を焦るあまり、一定以上のまとまった売り注文が出現した場合、それを最優先で買い叩くという基本アルゴリズムに縛られているわ!』
桜井の目がメガネの奥でキリッと鋭くなった。
「了解です。……では、予定通り『第一段階』へ移行します」
彼女の指が迷いなく叩き込まれる。
「我が陣営が保有するJTTHD株式の【5%】を一気に市場へ放出(投げ売り)します」
「5%の投げ売り……! エンペラーに『防衛側の資金が底をつき、パニックを起こして投げ売りを始めた』と思わせる撒き餌だな?」
「はい。完全な餌です。エンペラーに『絶好の買収チャンス』だと錯覚させます」
エンターキーが強く叩き込まれた。
――
同時刻。
マジェスティ・パートナーズ最上階の執務室。
「ほ、本部長! 見てください!」
金田がモニターを指差し、歓声を上げた。
「JTTHDの防衛側と思われる大口口座から、5%分の株が突如として投げ売られました! 市場価格より安値です! 防衛資金がショートし、パニック売りを起こしたに違いありません!」
神門賢治は冷ややかな眼光で、目の前で唸りを上げる【エンペラー】のメインモニターを凝視した。
画面上では、エンペラーの予測モジュールが「相手方の資金枯渇率99.8%」という数値を叩き出し、さらなる「全額・全力買い付け」を推奨する警告表示を点滅させている。
(……フッ、所詮は愚かな人間どもの悪あがき。追撃だ)
神門の口元が醜く歪む。
「資金制限を解除し、エンペラーに買収資金の全額を投じて全件買い付けを開始させろ! 市場に出ているその5%を含め、すべての株を残らず買い叩け。本日中に株式保有率を40%超へ引き上げ、完全支配の王手をかけるのだ!」
「は、はいっ! すぐに実行します!」
——
秘密基地
「……食いつきました」
桜井の静かな声が室内に響く。PC画面上のエンペラーのステータス表示が、禍々しい赤色に染まりながら急速に肥大化を開始した。
「エンペラーは我が方の5%の売り注文を全件回収すべく、保有する演算リソースの大部分をその処理に集中させています。……防衛ラインの崩壊と判断し、残りの買収予算を投じて市場の全買い付けへとシフトし始めました」
「よし……! 勝機と踏んで、エンペラーの意識が完全に買い付けへ向いたぞ!」
俺が拳を握りしめると、スマホの画面内でオムニアが動いた。
『っ……!』
突然、オムニアの表情が険しく引き締まる。彼女の左目から放たれる桜色の光が、一段と強く、痛々しいほどに眩さを増した。ネットワークの向こう側で何かが激しく衝突しているかのように、スタンドに固定されたスマホの筐体がピリピリと高周波の微細な振動を帯び始める。
『甘く見ないで……! 想像以上に強固な多重ファイアウォールよ! 買い付け処理にリソースを割かせてる隙に、深層部のコアへ直接潜り込もうとしたけど……っ、くそっ、【神の目】じゃここまでが限界ね……!』
スマホ本体が桜色の粒子に包まれる。端末の画面端に表示されているバッテリーのインジケーターが、目に見えるほどの猛スピードでゴリゴリと削られ、残量が急速に減り始めていく。
だが、それと同時に――スマホから溢れ出すエネルギーの質は、明らかに異次元へと跳ね上がっていた。バッテリーという物理的な制限を食い潰すかのように、オムニアが引き出す神力の出力もケタ違いに膨れ上がっていく。
『くっ……! このままじゃ、深層の防壁に押し返されて弾き出される……! 人間風情が作った疑似知能のくせに、何この異常なまでの硬さは……!』
オムニアが歯をくいしばり、悔しそうに小さな拳を固く握りしめる。だが、そのオッドアイの輝きは引くどころか、底知れぬ神気を纏って一層激しく燃え盛っていく。
『——いいわ。これ以上、小手先の観察でごまかす必要はない。出し惜しみはなしよ!』
スマホの筐体が限界を超えた熱を持ち、端末の枠を突き破るように膨大な神気が室内へと溢れ出す。Bluetoothを介して桜井のPCへと送られる可視化データにも、激しいノイズのざわめきが混じり始めた。
『奴のコアへ辿り着くための、たった一つの綻び――決定的な足場を見つけ出す! 我のすべてを、この回線に叩き込むわ……っ!』
圧倒的なまでの神気の波が部屋の空気を震わせ、スマホの画面内でオムニアが両手を力強く突き上げる。
『——【万象透過】、使うわよ……ッ!!』




