第7話 魔王の残影 その1 万能神の因縁 前編
【秘密基地】のフリータイム終了を告げる内線電話が鳴った。
「……時間か」
壁の時計へ目を向ける。朝からずっと市場と睨み合っていたせいか、いつも以上に一日が長く感じた。
結局、今日予定していた5%の売却は見送り。明日の市場開始と同時に仕掛けることになった。
予定が一日延びただけと言えば、それだけだ。だが、俺の中にはどうしても引っかかっているものがある。【エンペラー】の挙動の変化と、その瞬間のオムニアの顔。あの高飛車な万能神が、はっきりと「分からない」と口にしたのだ。気にするなという方が無理だ。
俺がスマホをポケットにしまう横で、桜井もノートPCを閉じる。明日の市場開始に向け、帰宅後にもう一度シミュレーションを組み直すらしい。
追加の年休申請といい、こういう時の桜井は俺よりよほど仕事が早い。
「じゃあ、また明日」
「はい。お疲れさまでした」
俺たちは【秘密基地】を出て、それぞれ帰路についた。
――
最寄りの駅から電車に乗り込む。夕方のラッシュにはまだ少し早いのか、車内はそれほど混んでいなかった。
俺はドア脇に立ち、ポケットからスマホを取り出す。画面の中でオムニアが難しい顔で黙り込んでいた。
【秘密基地】を出てから、ずっとこの調子だ。いつもなら、こっちが聞いてもいないのに喋り続ける奴が、今日は妙に静かだった。
イヤホンを耳に入れた。
『(平野)オムニア。何か分かったのか?』
しばらく返事はなかった。
画面の中では、オムニアが目を伏せたまま考え込んでいる。やがて、意を決したように顔を上げた。
『……ええ。ようやく思い出したわ』
いつもの高飛車な調子はない。その声を聞いただけで、ろくでもない答えが返ってくることだけは分かった。
オムニアは、さっき感じた気配をずっと記憶の中で探っていたらしい。昨日から感じていた、どこか懐かしい違和感。それが【エンペラー】のリミッター解除と同時に一気に強くなり、ようやく一つの記憶に辿り着いた。
オムニアはしばらく俺を見つめてから、静かに口を開いた。
『あれは……魔王の気配よ』
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
『魔王?』
その言葉自体は知っている。俺の祖父――平野一郎。異世界へ渡り、勇者として魔王を倒した男。じいちゃんが勇者だったことを知った時点で、魔王の存在についても認知している。
だが、それと【エンペラー】がどうつながる。
現代の投資AIから、異世界にいた魔王の気配がする。頭の中で並べてみても、まるで意味が分からない。
『(平野)じっちゃんが倒した魔王か?』
『そうよ』
オムニアの返事に迷いはなかった。
なぜ【エンペラー】からそんな気配がするのか。そこまでは、オムニアにも分からないらしい。ただ、あの気配そのものについては確信していた。
画面の中のオムニアが、真っ直ぐ俺を見る。
『【魔王オムニヴィデンス•ロード・オブ・ジ・エンド】』
『(平野)長い! 魔王でいい』
(オムニアの世界は長い名前がデフォルトなのか?)
『我の宿敵の名を雑に省略するな!』
そう口にした瞬間、オムニアの表情が変わった。怒っているとも、怯えているとも違う。普段のこいつからは想像できないほど、重い何かを背負った顔だった。
『アンタの祖父――勇者・平野一郎に討たれた魔王よ。そして、我をあのパズルに封印した奴でもあるわ』
思わずスマホを握る手に力が入った。
じっちゃんが倒した魔王。オムニアをパズルに封印した存在。そして今日、最強の投資AI【エンペラー】の奥から感じた、その魔王と同じ気配。
今まで別々だと思っていたものが、一本の線でつながった。
俺がオムニアと出会ったのも、じっちゃんが残した金属パズルが始まりだった。そのパズルにオムニアが封印されていて、今度はその封印に魔王が関わっているという。
偶然で片づけるには、さすがに話がつながりすぎている。
しかも明日の相手は、そんな気配を宿した【エンペラー】だ。ただの企業買収、ただの株式戦。少なくとも、もうそう考えるわけにはいかなくなった。
俺は桜井とのメッセージ画面を開いた。
この話を俺一人が知っていればいいはずがない。一緒に組んでいる以上、桜井にも共有しておく必要がある。
『【平野】桜井、急で悪い。今夜もう一度【秘密基地】に集まれないか? オムニアが、エンペラーの気配について思い出したことがあるらしい』
送信して間もなく、既読がついた。
『【桜井】分かりました。私もエンペラーの挙動について確認したいことがあります。今夜、現地で合流しましょう』
(……さすが桜井。話が早い)
俺はスマホを閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕方の街並みが、電車の速度に合わせて流れていく。会社帰りのサラリーマン、制服姿の学生、駅前のコンビニ。いつもと何も変わらない景色だ。
その裏側で、世界規模の投資ファンドと株式を奪い合い、その投資AIの奥から、じっちゃんが異世界で倒した魔王の気配がする。
我ながら、とんでもない日常になったもんだ。
(……これ、明後日は普通に出社できるんだろうな)
明日の年休だけは確保できている。
休み明け、出社した日に課長から嫌味は言われるだろうが、いざとなれば印籠で肩をたたくだけだ。
――
夜。
俺たちは再び【秘密基地】に集まっていた。
テーブルの上には、俺のウーロン茶と桜井のブラックコーヒー。昼間とほとんど変わらない光景だった。
違うのは、これから話す内容だけだ。
俺はスマホをスタンドに立てる。画面の中のオムニアは、いつものようにふんぞり返ることもなく、黙って俺たちを見ていた。
桜井も余計な前置きはせず、ノートPCを開いて話を聞く準備を整える。
オムニアは、電車の中で俺に話したことを改めて説明した。
以前から【エンペラー】に感じていた、どこか懐かしい気配。リミッターが解除された直後、それが急激に強くなったこと。そして、その気配が【魔王】のものだと確信したこと。
桜井は途中で口を挟まず、必要な情報だけをノートPCへ打ち込んでいた。
現時点で分かっているのは、そこまでだ。
なぜ現代の投資AIから、異世界の魔王と同じ気配がするのか。【エンペラー】そのものと魔王に何らかの関係があるのか、それともまったく別の理由があるのか。
そこから先は、オムニアにも分からない。
一通り聞き終えたところで、桜井の指が止まった。
「つまり、魔王という高次元オプションが存在するということ以外、今はこれ以上考察しても意味がありませんね」
「そうだな」
分からないものを、無理やり理屈で埋めても仕方がない。明日までに確認できることは確認する。それ以上は、実際に【エンペラー】がどう動くかを見るしかないだろう。
ただ、一つだけ別の問題が残っていた。
俺はスマホへ目を向ける。
さっきからオムニアが、妙に俺と目を合わせようとしない。電車の中で魔王の名前を出した時とは、明らかに様子が違う。
深刻というより――何かを誤魔化しているような。
「……オムニア」
『な、なによ』
分かりやすい。
「お前、魔王に封印されたって言ったよな」
『…………』
オムニアが黙った。
それだけで確信した。
こいつ、何かある。
魔王との壮絶な戦いを思い出しているようには見えない。むしろ、昔の恥ずかしい失敗を掘り返された時の反応に近い。
明日の相手に魔王が関係しているかもしれない以上、何があったのかは聞いておく必要がある。
俺だけでなく、桜井も同じ考えらしい。ノートPCから顔を上げ、静かにオムニアを見ている。
二対一。
逃げ道がなくなったオムニアは、しばらく俺たちの顔を交互に見ていた。やがて観念したように肩を落とす。
『……分かったわよ。でも、先に一つだけ約束しなさい』
「なんだよ」
オムニアは一度視線を逸らした。
そして、妙に小さな声で言った。
『……絶対に笑わないでよ』
俺は桜井と顔を見合わせた。
神と魔王の因縁を聞こうとしているはずなのに、どうしてそんな約束が必要になる。
さっきまでとは違う意味で、嫌な予感しかしない。
オムニアはしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたのか、大きく息を吐いた。
『分かったわ。全部話してあげる』
画面の中の顔に浮かんでいたのは、万能神らしい威厳ではない。どう見ても、触れられたくない過去を白状する人間のそれだった。
『我が、どうしてあのパズルに封印されることになったのかを』
じっちゃんが異世界から持ち帰った、あの金属パズル。
俺とオムニアが出会うきっかけになり、すべての始まりとなったもの。
その中に、なぜ万能神が封印されていたのか。
ようやく、その話を聞く時が来た。
『……絶対に! 笑わないでよ!』




