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第6話 激突 全知と全能 その6 「全知の奥に潜むもの」

翌朝、午前8時。


俺と桜井は、いつもの【秘密基地】の扉を開けた。


朝のフリータイム、いわゆる「朝割」を使えば、この時間帯は料金も安く抑えられる。おまけに店内は静かで、人目を気にせず作戦に集中するにはうってつけだった。


世界規模の投資ファンドと戦う場所としてどうなんだというツッコミはさておき、俺たちにとっては十分すぎる司令室だ。


テーブルの上には、俺のウーロン茶と桜井のブラックコーヒー。


俺がスマホをスタンドに立てかけ、オムニアを画面越しにスタンバイさせると、桜井は手慣れた手つきでノートPCを開いた。


画面の中では、オムニアが腕を組んでふんぞり返っている。


「よし。準備はいいな」


『当然よ! 今日こそ、あの生意気な【エンペラー】に万能神の格の違いを見せつけてやるわ!』


桜井は返事の代わりにノートPCへ視線を落とした。


ディスプレイのブルーライトが、彼女のメガネのレンズに冷たく反射する。


時計の針は午前8時55分を指していた。


あと五分。


昨日まで散々練り上げた作戦の全貌が、脳裏をよぎる。


まず、俺たちが35%まで買い増す。


その後、保有する株式のうち5%を市場へ放出。


こちらが防衛を諦め、売りに転じたと【エンペラー】に誤認させる。


そこから先が、敵を罠にハメる本当の勝負だ。


俺はウーロン茶を一口飲んだ。


いつもと同じ味なのに、今日は妙に喉を通りにくい。


午前8時59分。


桜井の指がキーボードの上でピタリと止まった。


オムニアも、いつの間にか腕を組むのをやめ、画面の向こうで息を呑んでいる。


そして――午前9時。


東京証券取引所の市場が開いた。


「オムニア、開始だ」


『任せなさい!』


その瞬間から、JTTHD株の猛烈な買い増しが始まった。


市場に出てくる株式を瞬時に拾い上げ、必要以上に株価を刺激しないよう買い注文がミリ秒単位で分散されていく。


俺には到底追い切れない処理が、スマホの画面の向こうで同時進行していた。


万能神がアプリの中で株を爆買いしている。


冷静に考えると狂気の沙汰だが、今さらそこに突っ込んでいる余裕はなかった。


午前10時。午前11時。そして正午。


時間の経過とともに、俺たちの保有比率は着実に跳ね上がっていく。


一方のマジェスティも止まってはいない。


【エンペラー】の指示による買い付けは継続されていたが、昨日までのような異常な加速は見られなかった。


桜井はほとんど口を開かない。


市場の値動き、出来高、マジェスティ側の取得ペース。複数のデータを冷静に見比べながら、時折、迷いのない手つきでキーボードを叩いている。


俺も余計なことは言わなかった。ここまで来れば、俺にできるのは二人を信じることだけだ。


そして――午後2時。


桜井の指が、ふと止まった。


「平野さん。到達しました」


ノートPCのディスプレイに表示された数字を見る。


【35%】


「……よし」


思わず声が漏れた。


予定していた最初の防衛ラインまで、ようやく辿り着いたのだ。


『ふふん! どうよ真一! 我にかかれば、このくらい朝飯前よ!』


画面の中でオムニアが胸を張る。


朝飯前というには、もう午後2時を過ぎているんだが……まあ、今は大目に見るとしよう。


問題はここからだ。


俺たちの目的は35%で留まることじゃない。ここから5%を放出し、【エンペラー】を完璧な罠へと引きずり込む。


「桜井、次だな」


「はい。ただ……もう少し様子を見ましょう」


「マジェスティか?」


「はい。まだ買い付けを続けています」


俺も画面へ目を向けた。


23%を超えたところから、マジェスティ側の数字はゆっくりと、しかし確実に伸び続けている。


急激ではない。だが、止まってもいない。


このまま予定通り仕掛けるべきか、もう少し敵の動きを見るべきか。


桜井は後者を選び、俺たちは35%を維持したまま敵の推移を監視し続けた。


そして――市場終了が近づいた頃。


桜井が小さく息を吐いた。


「23.5%です」


マジェスティは、そこまで取得比率を伸ばしていた。


こちらは35%。向こうは23.5%。


数字だけを見れば、俺たちが圧倒的に先行している。


――


同じ頃。


【マジェスティ・パートナーズ】本社、最上階の執務室。


神門賢治は、壁一面に映し出されたJTTHDの市場データを無言で睨みつけていた。


その背後で、金田が青ざめた顔で報告を続けている。


「我々の取得比率は23.5%です。しかし、例の個人資産管理会社が……」


金田が一度、言葉を詰まらせた。


「35%に到達しました」


神門の顔から、微かに残っていた余裕の笑みが消え失せた。


35%――これまでなら、多少の抵抗など圧倒的な資金力とアルゴリズムで文字通り押し潰してきた。市場に流れる株式を【エンペラー】が拾い続ければ、いずれ相手が先に息切れする。そのはずだった。


だが、相手は止まらない。それどころか、マジェスティを上回る速度で株式を積み上げている。


「……なるほど」


神門は静かに椅子から立ち上がった。


デスクの引き出しを開け、厳重に保管されていた一本のセキュリティキーを取り出す。


それを見た金田の顔色が変わった。


「本部長……まさか」


神門は答えず、キーを専用の端末スロットへ差し込んだ。


現れたのは、通常の管理画面とは異なる、専用コンソールだった。


【E-M-P-E-R-O-R】


Economic Market Prediction Engine with Omniscient Response.


これまで圧倒的な市場予測でマジェスティを勝利へ導いてきた最強の投資AI。その能力にはこれまで意図的な制限がかけられていた。


神門の指が、冷徹にマスターパスワードを打ち込んでいく。


「リミッターを解除する」


「お待ちください!」


金田が思わず声を荒げた。


「完全解除すれば、市場への影響と、サーバーにかかる負荷がどこまで跳ね上がるか――」


「構わん」


神門は振り返りもしない。


「全リソースを使え。あの連中を、跡形もなく叩き潰す」


最後の認証キーが叩き込まれた。


一瞬の静寂。


直後――メインモニターが赤く染まった。


【警告:セーフティリミッターが解除されました】


【全演算リソースを敵性対象の粉砕に特化します】


それまで安定した青色を保っていた波形が、一斉に赤へと切り替わる。


常識では考えられない速度で数式とデータが更新されていく。


金田は言葉を失い、その光景を見つめていた。

神門だけが満足そうに口元を吊り上げる。


「そうだ……いいぞ、エンペラー」


赤い波形が激しく脈打つ。


だが、その瞬間――神門の表情が、不意に固まった。


「……うん?」


何か異質なものに触れたように、神門がゆっくりと顔を上げる。


メインモニターの赤い波形が激しく乱れる。


それまで市場のデータだけを機械的に処理していたはずの【エンペラー】が、まるで別の何かをサーチするかのように急激な演算の矛先を変えた。


そして――。


『……この気配』


執務室に、低く這うような声が響いた。


金田が凍りつく。


それは神門の声ではなかった。


赤い波形が激しく乱れる。


『……まさか』


――


『――っ!?』


突然の異変に、スマホの向こうでオムニアが大きく息を呑んだ。


俺は反射的に手元の画面を凝視する。


「どうした、オムニア!?」


返事はない。


画面の中で、オムニアの身体は完全にこわばり、動きを止めていた。さっきまでの不敵な自信はどこにもない。


『……何、これ』


ようやく絞り出されたその声は、いつもの高飛車な響きが嘘のように低く震えていた。


「エンペラーの暴走か?」


『違う……』


オムニアは目を細める。


『エンペラーの奥に……何かいる』


「何か?」


オムニアはすぐには答えなかった。


『……分からない。でも、今まで感じていた気配が、急に強くなったのよ』


オムニアがここまで動揺している。


しかも、あの万能神がはっきりと「分からない」と口にした。


その事実が、俺の胸に嫌な予感を叩き込む。


「平野さん」


静まり返った部屋に、桜井の冷静な声が割り込んだ。


彼女の視線はノートPCの画面から一瞬たりとも外れていない。


「今日の売却は、見送ります」


「……5%の放出を中止するのか?」


「はい」


桜井の指が高速でキーボードを叩き、シミュレーション画面を切り替える。


「エンペラーの挙動が完全に変質しました。この異常事態のなかで予定通り仕掛けても、こちらが意図した反応を引き出せる保証はどこにもありません」


俺は壁の時計に目をやった。市場が閉じるまで、もう時間はない。


ここで中途半端に動いて、昨日まで積み上げてきた優位性を自らブチ壊す愚だけは避けるべきだ。


「……分かった。じゃあどうする?」


「今夜、もう一度エンペラーの新しい挙動を徹底的に解析します」


桜井はメガネの位置を指先で直し、きっぱりと言い切った。


「明日の朝一番。市場開始と同時に5%を一括で売却します」


小分けではない。


市場開始直後、一気に5%を放出する。


俺たちが防衛を完全に投げ出したと【エンペラー】に錯覚させるための、文字通りの乾坤一擲だ。


「了解だ。決戦は明日の朝一だな」


「はい」


そこで俺は、残酷な現実を思い出し、頭を抱えた。

今日は、この決戦のために有給休暇を取得している。


そして、明日も当然――平日だ。


「……おい、桜井」


「なんですか」


「悪いが、明日も仕事休めるか?」


「先程、私の有給申請は完了させておきました」


即答だった。


(相変わらず、処理が早い)


俺が天井を見上げて溜息をつく暇すら与えず、桜井はすでにスマホの画面を閉じ、何事もなかったかのようにバッグへ収めていた。


『ちょっとあなたたちね!』


スマホの画面の中で、オムニアが痺れを切らしたように声を張り上げた。


『そんな会社の都合なんてどうでもいいでしょう! 我はさっきから、あのエンペラーの奥から漂う忌々しい気配が気になって仕方ないのよ!』


「分かってるよ。社畜には社畜のスケジュールってものがあるんだよ!」


『こんな緊迫した状況で会社の心配をしてる場合!?』


オムニアはそう喚き散らしたものの、その瞳の奥には拭い去れない警戒の色が宿ったままだった。


エンペラーの奥にいる【何か】。


オムニアにも、その正体までは分からない。

予定していた決戦の日は一日延びた。


明日の朝一番。


俺たちは5%の一括売却を仕掛ける。


その前に――


まずは、追加の有給申請だ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

次回、第7話から物語はいよいよ終盤へ入ります。


これまで毎日投稿を続けてきましたが、ここからは毎週月曜日の週1回更新に変更します。


筆者もリアルでは社畜のため(笑)、平日に少しずつ書き進め、土日でしっかり仕上げてからお届けしていこうと思います。


更新の間隔は少し空きますが、完結まで丁寧に書いていきますので、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。


次回、第7話。

【エンペラー】の奥に潜む、オムニアにも分からない【何か】。


ここから、物語は最後の戦いへ向かって動き始めます。

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