第6話 激突 全知と全能 その5 「前倒しの一手」
オムニアからの突然の報告に、背筋に冷たいものが走る。
当初の予測より明らかに早い。マジェスティ側の買収スピードが、俺たちの想定を遥かに超えて加速している。
(……クソっ、予想以上のハイペースだな)
どれだけ資金があっても、株式の買い付けには物理的な限界がある。
だが、敵の投資AI【エンペラー】は、その限界ギリギリを正確に突いてきている。
このままでは、こちらが罠を仕掛ける前に防衛ラインを突破されかねない。
『(平野)わかった。とはいえ、今すぐ何かできることはないから、今夜の作戦会議で対策を考える』
チャットへ返信すると、俺はPCの画面を見つめた。
――
そして、その日の夜。
俺たちの秘密基地。
俺がスマホをスタンドに立てかけ、オムニアを画面越しにスタンバイさせると、桜井は手慣れた手つきでノートPCを開いた。
「……では、昨日の続きです」
静まり返った部屋の中で、オムニアが改めてマジェスティ側の驚異的な買収スピードについて不満タラタラに告げる。
『……そういうわけだから、連中のエンペラーは想定以上に厄介よ。この調子じゃ、明日にもこちらの防衛ラインを突破されかねないわ』
部屋の中に重苦しい沈黙が落ちた。
だが、それを切り裂いたのは桜井だった。
彼女はメガネのブリッジをクイッと押し上げ、冷静かつ淀みない口調で打開策を提示する。
「……状況は深刻ですが、打つ手がないわけではありません。昨日の計画を修正します」
「修正?」
「はい。当初は37%まで買い増す予定でしたが、その前にマジェスティが23%へ到達しました。37%を待つ余裕はありません。目標を35%へ引き下げ、作戦を前倒しします」
桜井はカタカタとノートPCを叩きながら、ディスプレイの画面を俺たちに向けた。
「まずは防衛ラインを固めるため、35%への株式の買い増しを急ぎます。その上で、敵のAI【エンペラー】を罠に嵌めるのです」
「なるほど……昨日の作戦を、そのまま前倒しするわけじゃないんだな」
「ええ。状況が変わりましたから、こちらも条件を変更します」
桜井は画面に表示されたシミュレーションを確認しながら続ける。
「35%まで買い増した後、私たちが保有する株式の中から【5%分】を短時間で市場へ放出します」
「6.6%から5%へ変更するんだな」
俺が確認すると、桜井は小さく頷いた。
「ええ。マジェスティ側の買い付けスピードと、エンペラーの演算処理能力の急加速を考慮し、売却量を減らして仕掛けを早めます」
桜井の目が、レンズの奥で鋭く光った。
「ただし、ゆっくり売却していてはエンペラーの計算に組み込まれてしまいます。市場に悪影響が出ないギリギリのラインを見極め、通常よりもさらに早いスピードで売り抜くのです」
「なるほど……敵の予測アルゴリズムが『防衛側が焦って投げ売りを始めた』と誤認する限界の速度で仕掛けるわけだな」
「はい。こちらがパニック売りを始めたとエンペラーに誤認させ、その5%を買い占めさせる。そして、自ら破滅の罠に飛び込んだ瞬間を叩く。それが私たちに残された最大の勝機です」
理路整然とした桜井の提案に、俺は深く頷いた。
だが、そこには一つだけ、途方もないハードルが存在する。
「理屈は分かった。だが、市場に致命的な悪影響を出さないギリギリのラインで、人間の手では不可能なほどの超高速・高精度な売買をやり遂げる必要がある……」
俺が画面に視線を向けると、スマホの中でオムニアは腕を組み、ふんっ、と得意げに鼻を鳴らした。
『愚問ね真一! 人間の作ったチンケな投資AIと違って、我はすべての理を統べる万能の神よ! 敵のエンペラーがどれほどの速度で演算しようと、我の神力による超並列演算の前では赤子の手をひねるようなものだわ!』
その圧倒的な自信に満ちたドヤ顔に、不安が少しだけ和らぐ。
このポンコツは普段お調子者だが、こういう大舞台でのハッタリと実力だけは本物だ。
「よし……頼むぞ、オムニア」
『ふふん、たかだか人間が作ったプログラムが神の我に勝ることはないわ!』
桜井も小さく頷いた。
「オムニアの処理能力に全幅の信頼を置くとして、私たちも準備を整えましょう」
「ああ。明日は一気に35%まで買い増す。準備はいいな、オムニア」
『いつでもOKよ! わざわざ地獄へ飛び込んできたハゲタカどもに、神の力の本当の恐ろしさを叩き込んであげるわ!』
「よし。明日は朝からここに籠もって、一気に仕掛けるぞ」
そう言ったところで、桜井がふと時計に目を向けた。
「……平野さん。一つ問題があります」
「なんだ?」
「市場が開くのは午前9時です」
「ああ」
「私たちの始業時間も午前9時です」
「…………」
数秒の沈黙。
桜井はメガネのブリッジをクイッと押し上げた。
「有給休暇を取得しましょう」
「……世界規模の投資ファンドと決戦するのに、まず有給申請かよ」
『何言ってるのよ真一! 会社なんて休めばいいじゃない!』
「神様には分からないんだよ。会社員には有給申請ってものがあるんだ」
桜井はすでにスマホを操作していた。
「申請完了しました。明日は終日休暇です」
「早っ!」
「決戦中に業務連絡が入るのは非効率ですので」
……さすが桜井。処理が早い。
俺もスマホを取り出し、有給休暇の申請画面を開いた。
世界規模の投資ファンドと、最強の投資AI【エンペラー】を相手にした決戦。
その前にやることは――有給申請だった。
(……社畜って、こういうところだけ律儀なんだよな)




