第5話 鉄壁の人事部長と証拠なき戦い その4 「驕る部長は久しからず」
翌朝。出社した俺は、執務室の給湯室近くで浅見を呼び止めた。
「浅見。今日の定時直前になったら、社内システムから正式な『残業申請』を出せ」
「え……!? ざ、残業申請!? そんなことしたら川村部長が黙ってないよ! オレ、何をされるか――」
突然の提案に顔を蒼白にして拒む浅見に、俺は軽く笑ってみせた。
「いいから出せって。"社畜"の言うことは、たまには聞くもんだぞ」
自分の境遇を自虐交じりに笑い飛ばす俺の、どこか吹っ切れた不敵な眼差しに、浅見は息を呑んだ。
「……分かった。平野、お前を信じる」
浅見は意を決したように力強く頷いた。
――
そして夕方。定時5分前。
作戦通り、浅見がシステムから残業申請を送信すると、わずか数分後、激昂した川村人事部長から内線が入った。
「浅見ぃ……業務用PCを持って今すぐ別室の応接室に来い」
浅見は怯える手をギュッと握りしめて応接室へ向かった。
廊下の影からその背中を見送り、俺と桜井はノートPCとスマホを開いて待機する。
――応接室。
ドアが閉まった瞬間、川村の怒声がイヤホン越しに響き渡った。
「貴様、何のつもりだ!? 『残業申請』だと!? うちの部署がどれだけ残業削減で社内評価を上げているか分かっているのか!」
「ですが川村部長、業務量が限界で……このままでは私的な時間での処理(自己研鑽)では追いつきません。正当な残業として――」
「黙れ! 誰のおかげで課長の椅子に座っていられると思っている! 評価を最低にして潰されたいのか!? 嫌なら黙ってこれまで通り定時でタイムカードを切って残れ!」
隠す気すらない、露骨なパワハラ。そして、残業を隠蔽するための明確な指示。
その瞬間、俺の手元にあるスマホの画面でオムニアが不敵に笑った。
『真一、音声・映像・タイムスタンプ、そして川村が浅見の勤怠データを手元で不正操作しようとしたログ……全部完璧に手に入れたわよ!』
隣でノートPCを叩いていた桜井も、眼鏡をクイッと押し上げてうなずく。
「こちらのPC側でのログ照合も完了しました。……行きましょう、平野さん」
「よし……突撃だ!」
――
バンッ!
応接室のドアを勢いよく開ける。
「そこまでだ、川村部長」
「な、なんだ平野!? 部署外の人間が勝手に入るな!」
川村が顔を真っ赤にして怒鳴る。その横で、桜井が静かにノートPCをデスクへ置いた。
「川村部長。ただいまの浅見課長に対する脅迫発言、および過去数ヶ月にわたる『自己研鑽』名目での無給残業強要の全記録、しかと証拠として記録させていただきました」
「はぁ!? 証拠だと? 浅見が勝手に残って勉強していただけだ! 捏造データなど何の意味もないぞ!」
川村は冷笑し、どこまでも「証拠などない」と高飛車な態度を崩さない。
だが、俺はポケットからスマホを取り出すと、冷めた眼で川村をまっすぐ見据えた。
「……川村部長。あなたの原籍は、親会社のJTTHDですよね?」
「なっ……当たり前だ! 私は親会社から出向してきてやっているんだ! お前らのような子会社の平社員とは格が――」
「じゃあ、なおさらこれが見えるはずだ」
俺はスマホの画面を、川村の目の前にピタリと突きつけた。
そこに表示されていたのは、社内データでも個人のファイルでもない。
――金融庁の開示システム『EDINET』の画面だった。
「……な、なんだこれは? 金融庁……?」
川村が怪訝そうに眉をひそめる。俺は冷酷なまでに静かな声で言った。
「大量保有報告書だ。金融庁に提出された、公的な開示情報だよ」
「……は?」
「我が親会社・JTTHDの株式を33.4%保有する筆頭株主――その『個人資産管理会社』の代表者名を見てみろ」
川村が吸い寄せられるように視線を落とす。そこに記載されていたのは、紛れもなく俺、【平野 真一】の名前だった。
「な……っ!? ひ、平野……お前、JTTHDの……筆頭株主……!?」
「社内データなら【捏造だ】と言い逃れもできると思ったんだろう。だがこれは、金融庁のシステムで誰でも今すぐ確認できる公的文書だ」
俺は川村をまっすぐ見据えた。
「……それと、ハラスメントの証拠を突きつけられてなお【捏造だ】と虚偽の主張をした。その事実の重さも、理解してるよな」
川村の顔から一瞬で血の気が引き、唇がガタガタと震えだす。
すかさず、桜井が追い打ちをかけるように眼鏡を押し上げた。
「この証拠は、ただちにJTTHDのコンプライアンス委員会へ提出します。併せて、外部の労働基準監督署への通報も行います。川村部長、あなたのキャリアはこれで終わりです」
『ふふん! 自業自得よ、悪党!』
スマホの画面内で、オムニアが勝ち誇ったように腕を組む。
「ひ……ひぃっ……! ま、待ってくれ平野! いや、平野様! 誤解だ、これは指導の一環で――!」
膝から崩れ落ち、哀れにすがりついてくる川村には目もくれず、俺は床にへたり込んでいた浅見の元へ歩み寄った。
「もう大丈夫だ、浅見……。お前はもう、一人で我慢しなくていいんだ」
俺はかがみ込み、震える浅見の肩を優しく抱きしめた。
その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた緊張が弾けたように、浅見の目から大粒の涙が溢れ出した。
「辛かった……っ、辛かった……! 辛かったんだ……っ!!」
何度も、何度も、絞り出すような声で呟きながら、子供のように泣きじゃくる浅見。
その押し殺してきた苦痛と絶望の深さに、俺はただ強く肩を抱きしめ続けた。
「あぁ……分かってる。よく耐えたな、浅見」
ふと横を見ると、冷徹なゲーマーのはずの桜井が、眼鏡を外して必死に目元を拭っていた。
「……くっ、ふ……す、すみません。私……こういうのには、弱くて……」
ポロポロと涙を零しながら、貰い泣きを隠そうともせずに鼻をすする桜井。
画面の中のオムニアも、いつもの高飛車な態度を引っ込め、どこか優しげな目を細めて俺たちを見守っていた。
俺は涙でぐしゃぐしゃになった浅見の肩を軽く叩き、努めて明るい声で言った。
「よし。今日はもう定時退社だ。皆で牛丼食べに行くか」
浅見が涙を拭いながら、くしゃっと笑った。
「……うん。行きたい」
こうして、鉄壁を誇った人事部長の卑劣な支配は、公的な「印籠」と仲間たちの絆の前に、跡形もなく崩れ去ったのだった。
――
東京都心、超高層ビル最上階。
【マジェスティ・パートナーズ】本社。
窓の外に広がる夜景を眺めながら、神門賢治は静かにグラスを傾けていた。
そこへ、金田が足早に歩み寄ってくる。
「本部長。JTTHD株、現在の取得率は15%です。順調に積み増しています」
神門は振り返りもせず、小さく頷いた。
「……フン。予定通りだな」
「ですが……一点、気になることが」
金田の声に、わずかな緊張が滲む。
「直近で、素性の分からない何者かが、30%以上の株式を取得したという報告が上がっています」
神門の眉が、初めてピクリと動いた。
「……何者だと?」
「個人資産管理会社を経由しています。相応の資本を持つ個人が背後にいると思われますが、現時点ではそこまでしか」
沈黙が流れる。
だが、神門はすぐに興味を失ったように鼻で笑った。
「……くだらん。我々が60%を押さえれば、それで済む話だ」
「よろしいのですか?」
「構わん。この世に、我がマジェスティの資金力に勝てる者などいるものか」
神門は再びグラスを傾け、夜景の向こうに広がる街を睥睨した。
その瞳の奥に、ほんのわずかに――人間離れした、暗い光が揺れていた。




