第9話 東京駅のホーム
帝都・東京の玄関口である東京駅。新幹線のホームには、華やかな見送りの輪ができていた。
「ユラ、さぬきでも頑張ってね!」
「新しい演目の抜擢、本当におめでとう!」
華ノ乙女ノ歌舞劇會の牡丹組や他組の劇會員たちが、口々に別れの言葉と祝福を投げかけている。その輪の中心にいる八千草ユラは、柔らかな微笑みを浮かべながら「ありがとう。みんなも東京の公演、頑張ってね」と麗花らしく淑やかに応えていた。
傍目から見れば、それは才能ある娘役の華々しい栄転を見送る、美しくも感動的な光景に他ならない。しかし、その内実は冷徹な氷室マネージャーによって下された、容赦のない左遷であり、二人の関係を合法的に引き裂くための残酷な采配であった。
天海ユリは、歓声に沸く輪から少し離れた柱の陰に立ち、腕を組んでその光景をじっと見つめていた。
氷室の監視の目を警戒するがゆえに、ユリはユラの側へ駆け寄ることも、その細い体を抱きしめることもできない。ただ、実直で不器用な自身の唇を血が滲むほど噛み締め、何一つ抗えなかった無力感に苛まれながら立ち尽くすことしかできなかった。
やがて、無情にも発車を告げるベルがホームに鳴り響いた。
「あっ、もう時間だわ。ユラ、気をつけてね!」
劇會員たちに促され、ユラが車両へと足を踏み入れる。ドアが閉まる直前、ユラは振り向き、群衆越しに真っ直ぐにユリを見つめた。
交わす言葉はない。しかし、その大きく潤んだ瞳は「行きたくない」「あなたと離れたくない」と、悲痛なまでの叫びを訴えかけていた。ユリもまた、その視線を真正面から受け止め、ただ一度だけ、微かに頷いてみせた。
プシューという音と共にドアが閉まり、二人の間を分厚いガラスと金属の壁が隔てた。ゆっくりと滑り出した列車が、ユラを乗せて遠ざかっていく。
ユリは列車の姿が完全にホームから消え去るまで、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。胸の中にぽっかりと空いた巨大な喪失感が、冷たい風となってユリの全身を吹き抜けていった。
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ユラがさぬき大歌舞座へと旅立ってから、数週間が経過した。
東京の銀座華劇場では、昭和初期ロマン『帝都狂騒曲~1929年の逃避行~』の公演が連日行われていた。しかし、ユリの日常からは、かつてのような鮮やかな色彩が完全に失われていた。
深夜、汐留寮の暗い自室。ユリはベッドに横たわり、スマートフォンの画面を見つめていた。
『そっちの稽古はどう?』
ユリが送った短いメッセージに、既読がつくのはいつも数時間後だ。
『無事に終わったよ。東京の公演はお疲れ様。……ユリの声が聞きたい』
ユラからの返信が届いたときには、すでにユリは翌日の早朝稽古に向けて眠らなければならない時間だった。さらに、ユラ自身が本番中で電話に出られなかったりする。
物理的な距離だけではない。互いのスケジュールが噛み合わず、電話越しに声を聞くことすら叶わないすれ違いの日々が続いていた。文字だけのやり取りは、かつて衣装部屋やベランダで肌を重ね、息が詰まるほど熱烈な口づけを交わしたあの温もりとは程遠い。冷たい画面に表示される文字を指でなぞるたび、ユリはユラに触れられない飢餓感と孤独にじわじわと真綿で首を絞められるような苦しみを味わっていた。
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「天海。少し、いいかしら」
本番を終えた後の楽屋。鏡前でメイクを落としていたユリに声をかけたのは、今回ユラの代わりに令嬢役を務めている、牡丹組の先輩麗花だった。
「はい、なんでしょうか」
ユリが立ち上がると、先輩は少し困ったような、しかし真剣な眼差しで口を開いた。
「今日のクライマックスの駆け落ちのシーン……天海の演技、すごく熱気があって、客席も圧倒されていたわ。でもね」
先輩は言葉を選びながら、静かに告げた。
「舞台はチーム戦なの。今のあなたの演技は、一人だけ突出して熱量が高すぎる。私がそれに引っ張られて、令嬢としてのアンサンブルが崩れそうになってしまったわ。もう少しだけ感情のボルテージを落として、私の方に歩調を合わせに来てちょうだい」
「……申し訳ありません。以後、気をつけます」
ユリは深く頭を下げた。先輩の指摘は、舞台人として極めて真っ当なものだった。
身分違いの二人が引き裂かれるという物語の展開が、ユラとの理不尽な別れと完全に重なってしまい、ユリは無意識のうちに本物の喪失感と絶望を舞台上で爆発させてしまっていたのだ。
先輩が楽屋から出て行った後、ユリは鏡に映る自分自身の姿を見つめた。
自分についてこれない先輩の演技が悪いわけではない。だが、どんなに腕のある相手であろうと、ユリの魂から溢れ出る熱情を受け止め、それ以上の熱で返し、完璧に共鳴してくれるのは、この世界に八千草ユラただ一人しかいないのだ。
誰も自分を理解できない。誰とも魂を繋ぐことができない。
「ユラ……」
誰もいない楽屋に、かすかな呟きが落ちる。ユリはメイク台に手をつき、深く項垂れた。雄飛としての誇りも、圧倒的な演技力も、ユラがいなければ何の意味も持たない。ただの空っぽの鎧だ。
物理的に引き離されただけでなく、舞台の上でさえも誰とも心を重ねられない圧倒的な孤独。何もできない自身の惨めさが、ユリの心を冷たく、そして深く蝕み始めていた。




