第8話 辞令
銀座華劇場の深部にある、氷室マネージャーの執務室。
甘く濃密な逢瀬の余韻も冷めやらぬまま、突然の呼び出しを受けたユリとユラは、重厚なマホガニーのデスクの前に並んで立たされていた。
室内は無機質で、冷房がついていなくても肌寒い。銀縁眼鏡を押し上げた氷室は、感情を一切排した冷徹な声で静寂を切り裂いた。
「単刀直入に言おう。君たちの間には、『非エス三原則』に抵触する私情の持ち込みがある」
その一言は、容赦のない死刑宣告だった。ユラの肩がビクンと跳ね、ユリは血の気が引くのを感じた。偽装稽古や、深夜の密会。完璧に隠し通せていたと思っていた秘密は、この鷹の目を持つ男にはとうに筒抜けだったのだ。
「お待ちください、氷室マネージャー!」
ユリは咄嗟に半歩前に出て、自身の後ろにユラを庇うように立ち塞がった。雄飛として、何があっても愛する者を守り抜く。先ほど衣装部屋で誓ったばかりの強い信念が、ユリの体を動かしていた。
「もし規律違反があるというのなら、全ては雄飛である私の責任です!ユラは何も——」
「……呆れたものだな」
氷室の底冷えのするような声が、ユリの必死の訴えを無残に断ち切った。彼は机の上で両手を組み、さげすむ冷ややかな目でユリを見据えた。
「君がそうして彼女を庇い、自己犠牲を払おうとするその行為自体が、私的な感情が持ち込まれている何よりの証拠だ。舞台上のアンサンブルを第一に考える真の雄飛であれば、全体を俯瞰し、一人の麗花に固執するような真似はしない」
正論という名の鋭利な刃で切り捨てられ、ユリは息を詰まらせた。
「劇會は巨大なビジネスだ。商品である劇會員に私情による瑕疵が生じることは絶対に許されない。これは単なる規律の問題ではない、ビジネス上の危機管理だ」
氷室は一切の感情を交えず、淡々と事実だけを述べる。彼にとって、二人の純粋な愛など、排除すべき不確定リスクでしかなかった。
「事態を穏便に、かつ確実にもみ消すため、上層部として決定を下した」
氷室は手元の書類を一枚、二人の前へと滑らせた。そこには、目を疑うような辞令が印字されていた。
「八千草ユラ。君には来月より、本拠地である『さぬき大歌舞座』へ異動してもらう」
「さぬき……?」
ユラの喉から、絶望に満ちた掠れ声が漏れた。それは、帝都である東京の劇場から遠く離れた場所への左遷であり、二人が物理的に完全に引き離されることを意味していた。
「そんな決定に納得できるわけがない! 今までチームとして練習してきたのは何だったんだ! 理不尽だ!」
ユリが激昂して声を荒らげようとした瞬間、氷室は冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「理不尽、とは心外だな。これは処罰ではない。さぬき大歌舞座で新たに始まる演目における、重要なポジションへの抜擢だ。君の才能を高く評価しての『栄転』だよ」
その言葉の持つ恐ろしい意味を理解し、ユリとユラは完全に言葉を失った。
単なる左遷や謹慎であれば、不当な処罰だと抗議することもできたかもしれない。しかし、「抜擢」という完璧な建前を用意された以上、表立って反論すれば、劇會の決定に泥を塗る我が儘な役者として、二人のキャリアそのものが完全に終わってしまう。周囲の劇會員やファンから見れば、それは名誉な異動にしか見えないのだ。
逃げ道を完全に塞ぎ、二人の関係を合法的に、かつ誰にも怪しまれずに引き裂く。氷室の隙のないビジネスパーソンとしての恐ろしさが、冷たい絶望となって二人に重くのしかかった。
「辞令は以上だ。次の舞台へ向けて、せいぜい精進したまえ」
氷室はそれだけを言い捨てると、再び手元の書類へと視線を落とした。もはや二人に、反論を許す空気など微塵も残されていなかった。
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重厚な扉が背後で冷たい音を立てて閉まり、二人は執務室前の廊下へと放り出された。
温度のない薄暗い廊下に、無慈悲な静寂が降り積もる。
「ユリ……っ」
決定的な引き離し宣告を受け、耐えきれなくなったユラが、糸が切れたように崩れ落ち、ユリの胸に縋り付いた。その大きな瞳から、とめどなく大粒の涙が溢れ出し、ユリの分厚い雄飛の衣装を黒く濡らしていく。
「嘘よ……嫌だ、離れ離れになるなんて……。ユリと会えなくなるなんて、絶対に嫌っ……!」
普段は情熱的で、気丈で大胆なユラが、今ばかりはただの弱い少女のように声を上げて泣き崩れている。ユラは必死にユリの背中に腕を回し、まるでこの場から引き剥がされるのを拒むように、その体を強く、強く抱きしめた。
「ユラ……」
ユリは震える腕で、愛する人の華奢な肩を抱きとめた。しかし、今のユリの腕には、彼女を絶望の淵から救い出す力が何一つなかった。
会社と上層部の決定である以上、一介の劇會員に過ぎない二人に、この理不尽に抗う術は残されていないのだ。
(俺が雄飛として、お前をずっと守り抜く)
ほんのすこし前、誰もいない衣装部屋で誇り高く誓ったばかりの言葉が、ひどく虚ろな響きとなってユリの脳裏に木霊した。
舞台の上でどれほど格好良く剣を振りかざそうとも。どれほど熱く愛を叫ぼうとも。現実の冷たい檻の前では、自分は何の力も持たないただの無力な存在でしかない。
ユラを庇おうとした行動すらも、氷室には「私情の証拠」として冷酷に切り捨てられた。雄飛という立場、雄飛としての鎧が、いかに無意味で脆いものであるかを思い知らされ、ユリの心はズタズタに引き裂かれた。
「……ごめんよ、ユラ……。ごめんよ……っ」
守ると誓ったばかりの愛する人を守れない。その不甲斐なさと、どうしようもない無力感に打ちのめされ、ユリはユラを抱きしめたまま、ギリッと強く自身の唇を噛み締めた。
鉄の味が口の中に広がる。視界が滲み、悔し涙が頬を伝って落ちた。
華やかな舞台の裏側で、冷徹な掟と巨大なビジネスの論理によって無残に引き裂かれた二人の乙女。暗く冷たい廊下には、深い悲壮感と、抗うことのできない絶望の啜り泣きだけがいつまでも漂っていた。




