第7話 迫る包囲網
銀座華劇場の奥深く、窓のない氷室弘樹の執務室は、まるで北極のように冷え切っていた。
銀縁眼鏡の奥で感情の読めない瞳を光らせる彼は、華ノ乙女ノ歌舞劇會における極めて合理的で冷徹なマネージャーである。その広々としたマホガニーのデスクの前に立たされていたのは、藤組の麗花である岡村マキだった。
「……最近の天海と八千草の演技は、非常に熱が入っているようだな」
氷室は手元の書類から目を離さず、淡々としたビジネスライクな口調で切り出した。
「はい。二人とも、本当に熱心に役と向き合っていますから」
マキは背中に冷たい汗をかきながらも、努めて明るい声で親友たちを庇うように答えた。彼女は二人きりでの稽古場使用禁止というルールをかいくぐるための「第三者」として、偽装稽古に協力している身である。絶対に二人の秘密を守り抜かなければならなかった。
「そうか。あの二人の稽古には、君が同席しているのだったな。具体的に、稽古はどのように行っているのかね?」
氷室はペンの動きを止め、ようやく冷ややかな視線をマキに向けた。直接的な言及は避けているものの、その言葉は鋭い刃のようにマキの急所を突いていた。
「も、もちろん私がいつも立ち会って、二人の台詞の掛け合いを見ています。厳格なルールに従って、決して私情を挟むような真似は……」
「なるほど。だが、君の交通機関の利用記録と、稽古場の施錠記録に若干のズレが生じているようだ。君が退出したあとも、二人は長時間、密室の稽古場に残っていた計算になるが?」
氷室の極めて合理的で逃げ場のない尋問に、マキは言葉を失った。喉が干上がり、気の利いた言い訳が何一つ出てこない。
「それは……私が一時的に、その、着替えに戻っただけで……」
しどろもどろになり、明らかな冷や汗を流して動揺するマキの様子を見て、氷室は静かに手元の書類を閉じた。
「ご苦労。もういい、下がりなさい」
氷室はマキをこれ以上追及することはしなかった。彼女の焦りと恐怖そのものが、ユリとユラの間に非エス三原則に抵触する関係性があることを、完全に裏付けていたからだ。
+++
同時刻、劇場の広い稽古場では、東郷セイラが周囲の目を盗んでユリの側へと近づいていた。
かつて愛する者を退団に追い込んでしまったトラウマから掟を狂信していたセイラだが、『氷の盾、炎の刃』の舞台袖でユリとユラの真実の愛を目の当たりにし、彼女の凍てついた心は静かに溶け出していた。
「……天海。氷室マネージャーの動きが不穏だ。決して隙を見せるな」
セイラはすれ違いざま、直接的な表現を避けつつも、低く切実な声でユリに忠告した。
「東郷先輩……?」
「もっと周囲を警戒しなさいと言っているのよ。芸術を生み出したところで、所詮私たちは会社員なのよ」
突き放すような冷たい口調の裏に隠された、かつての自分と同じ悲劇を繰り返させまいとするセイラの不器用な優しさ。ユリはその言葉の重みにハッと息を呑み、先輩の背中をただ見送ることしかできなかった。しかし、どれほどセイラが彼女たちを案じようとも、忍び寄る氷室の冷徹な影を止めることは誰にもできないのだった。
+++
華やかな衣装が所狭しと並ぶ、誰もいない薄暗い衣装部屋。
氷室の恐ろしい裁きがすぐそこまで迫っているとも知らず、ユリとユラは甘く濃密な二人きりの時間を過ごしていた。
「ああ……ユリ、今日もチャーミングよ。そして、愛してるわ……」
衣装の陰に隠れるようにして、ユラがユリの首元に熱い吐息を落とす。艶やかな黒髪から漂う甘い香りと、首筋に押し当てられた柔らかい唇の感触が、ユリの理性をドロドロに溶かしていく。
「ユラ……」
ユリは大きな手でユラの華奢な腰を引き寄せ、その艶やかな唇を貪るように奪い返した。先日の舞台『氷の盾、炎の刃』の大成功と、舞台上で交わした大衆の前での疑似的な抱擁の熱が、いまだ二人の体の中に生々しく残っていた。
「舞台の上で、あなたが流してくれた涙……本当に美しかったわ」
深い口づけの合間に息を継ぎ、ユラが熱に浮かされたような潤んだ瞳で微笑む。王と踊り子として交わした、命懸けの愛の証明。それが誰にも咎められることなく観客から称賛されたという事実が、掟に縛られた二人の関係をより深く、狂おしいものへと加熱させていた。
「俺はただ、お前を抱きしめたかっただけだ。……本物の王のように、掟を冷たく守り抜くことなんてできない」
実直で不器用なユリが愛への渇望を吐露すると、ユラは慈しむようにその涼しげな目元を両手で包み込んだ。
「ううん。あなたは誰よりも強くて、優しいわ。ずっとこうして、あなたと一緒にいたい……」
ユラは燃え上がる想いを真っ直ぐにぶつけ、再び自ら口づけをねだるように顔を近づけた。ユラの圧倒的な愛情と大胆な攻勢に包み込まれ、ユリはそれに溺れるようにユラの背中に腕を回し、引き締まった肉体を強く抱きしめ返す。
「俺が雄飛として、お前をずっと守り抜く。何があっても……絶対に離さない」
ユリが低く熱い声で誓うと、ユラは嬉しそうに目を細め、ユリの広い胸に深く顔を埋めた。
静寂に包まれた衣装部屋の隅で、二人の魂は完全に溶け合い、これ以上ないほどの最高潮の幸福に達していた。肌を重ね、言葉を交わすたびに、二人の絆は永遠のものだと錯覚するほどだった。




