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非エス三原則のハットを破り、フラチに恋慕るユリとユラ ~大正から令和へ受け継がれる百年の掟を打ち破らんと、二人の乙女が愛を誓う~  作者: 団田図


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第10話 それぞれの窓辺

 数日後の銀座華劇場。

 舞台上では、昭和初期ロマン『帝都狂騒曲~1929年の逃避行~』のクライマックスシーンが展開されていた。華やかなジャズが流れていた前半の雰囲気から一転、暗く冷たい夜のプラットホームのセットには、真っ白なスモークが不気味に立ち込めている。


 ユリが演じる貧しいサックス吹きと、先輩麗花が演じる華族の令嬢。身分違いの二人がシベリア鉄道に乗って海外へ駆け落ちを企てるが、出発の夜、令嬢の家族が放った追手が迫るという悲劇的な場面だ。


「行くんだ! 君だけでも、自由な世界へ!」


 サックス吹きは自らの身を挺して追手たちを食い止め、令嬢を無理やり列車のデッキへと押し込んだ。


「嫌よ! あなたを置いていくなんてできない!」


 令嬢が悲痛な声を上げる中、無情にも汽車の発車ベルが鳴り響く。重い車輪が軋む音と共に、列車がゆっくりと動き出した。

 舞台の袖へと遠ざかっていく列車の窓越しに、令嬢が手を伸ばす。サックス吹きは追手たちに痛めつけられながらも必死に立ち上がり、自身の分身であるサックスを構えた。そして、遠ざかる愛しい人へ向けて、二人の思い出の曲を涙を堪えて吹き続ける——。


 その瞬間、ユリの脳裏に、数週間前の東京駅のホームの光景が鮮明にフラッシュバックした。

 分厚いガラスの向こう側で、絶望に満ちた瞳で自分を見つめていたユラ。ゆっくりと滑り出した新幹線が、彼女を自分から永遠に引き剥がしていくかのように遠ざかっていった、あの残酷な瞬間が。


(ユラ……行かないでくれ……っ!)


 先輩麗花から「感情のボルテージを落として、歩調を合わせなさい」と注意されたことは、頭の片隅では理解していた。雄飛として、周囲との調和を重んじ、計算された美しさを提供しなければならない。だが、ユラのいない世界に置き去りにされたユリの心は、すでに理性の制御を完全に失っていた。


 サックスを構えるユリの指先は反射した黄金色の光を纏い、激しく震えていた。顔を歪め、ボロボロと止めどなく本物の涙を流すその姿は、演技などという生易しいものではなかった。狂おしいほどに愛する者を理不尽に奪われ、二度と手が届かない暗闇の底に突き落とされた人間の、血を吐くような魂の絶唱だった。


 舞台上の先輩麗花は、ユリから放たれる凄まじい熱量と狂気に呑み込まれ、一瞬、芝居を忘れて息を呑んだ。客席もまた、水を打ったような静寂に包まれ、やがてすすり泣く声があちこちから漏れ始めた。

 しかし、どれほど観客を感動させようとも、ユリにとってこの舞台は「魂の共鳴」ではなかった。ただ自身の引き裂かれた傷口をえぐり、そこから滴る血を観客に見せ物にしているだけの、底知れぬ惨劇に過ぎなかった。


 +++


 幕が下り、終演後の銀座華劇場。

 喧騒が去った後、ユリは誰よりも遅く一人で楽屋に残っていた。鏡前の椅子に深く沈み込み、まだ衣装も脱がないまま、天井を仰いで荒い息を吐いていた。


 舞台上で全ての感情を使い果たした体は、鉛のように重い。だが、胸の奥底に空いた巨大な穴が満たされることはない。どんなに熱演しても、どんなに万雷の拍手を浴びても、それを受け止め、同じ熱で返してくれるユラがいない以上、ユリの心には冷たい虚無の風が吹き荒れるだけだった。


「……俺は、何をやっているんだ」


 掠れた声が、静寂の楽屋に落ちる。

 ユリは自身の大きな両手を顔の前にかざした。舞台の上では、ヒロインを守り抜く強き雄飛として、この手で幾度となく麗花を抱きしめ、愛を誓ってきた。だが、現実の自分はどうだ。最も愛するたった一人の女性が、理不尽な掟と冷徹な権力によって目の前で引き裂かれたというのに、ただ柱の陰に隠れて無様に立ち尽くすことしかできなかった。


 同じ頃。遠く離れたさぬき市の、海風が吹き込む劇會員寮の窓辺。

 ユラは薄いカーディガンを羽織り、暗い海の上に浮かぶ冷たい月を一人で見上げていた。

 手元には、いくら待っても既読のつかないスマートフォンの画面が淡く光っている。新しい環境、新しい演目の稽古。昼間は笑顔で新しい組の麗花を演じていても、夜になれば押し寄せるのはユリの不在という圧倒的な現実だった。

 ユラはスマートフォンを胸に抱きしめ、ユリと過ごした薄暗い衣装部屋の熱や、骨が軋むほど強く抱きしめられた腕の感触を必死に思い出そうとする。だが、思い出せば出すほど、今の孤独がより鋭く胸を刺し、大きな瞳からとめどなく大粒の涙が溢れ出した。


 東京の空にも、同じ月が冷ややかな光を放っていた。

 楽屋の小さな窓からその月を見上げたユリは、力なく自嘲の笑みをこぼした。


(俺が雄飛として、お前をずっと守り抜く、か……)


 かつて自分が口にした誓いの言葉が、これほどまでに滑稽で、虚しく響くとは思わなかった。

 絶大な人気を集める「雄飛」という名を与えられ、舞台上でどれほど華麗に振る舞おうとも、その実態は、劇會という巨大な籠の中で飼い殺されているだけの非力な鳥に過ぎない。掟を破って上層部に歯向かう勇気も、ユラの手を引いて全てを捨て去る覚悟も持てない、不器用で臆病な自分。


 同じ月を見上げながら、どうしようもない絶対的な距離と、何もできない自身の底知れぬ惨めさに打ちのめされ、ユリは暗い楽屋の片隅で、ただ一人静かに膝を抱えることしかできなかった。

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