第38話 無敵の二人
その日の深夜。
血を吐くような厳しい立ち稽古を終え、さぬきの劇會員たちが深い眠りについた頃。天海ユリと八千草ユラは、静かに寮を抜け出し、さぬきの海辺へと足を運んでいた。
穏やかな瀬戸内海に、満月の青白い光が長く伸びている。
東京の喧騒から遠く離れた、波の音だけが響く静寂の世界。冷たい夜風が吹き抜ける中、ユリは防波堤に腰掛け、自身の大きな両手を見つめていた。
「……ユリ。寒くない?」
隣に座るユラが、心配そうにユリの肩にカーディガンをふわりと掛けた。その温もりと、艶やかな黒髪から漂う甘い香りに、ユリは小さく首を振って微笑んだ。
「大丈夫だ。……ただ、少しだけ、不思議な感覚なんだ」
ユリは自身の胸元へそっと手を当てた。
これまで、雄飛として舞台に立つ時は、常に分厚い衣装と、胸を平らに潰すためのきついサラシで己の女性性を封じ込めてきた。しかし今は、柔らかな生地のブラウス越しに、自身の鼓動がダイレクトに掌へ伝わってくる。守るための分厚い鎧は、もうどこにもない。
「今日の稽古……俺は、ずっと足が震えていた。雄飛としてマントを羽織っていれば、震える手も、不安な顔も隠すことができた。強くて頼りがいのある、完璧な騎士を演じることができたんだ」
ユリの端正な眉が、苦しげに歪む。
麗花というひとりの女性として舞台に立ち、すべてを曝け出したことで、ユリは己の弱さを嫌というほど思い知らされていた。
「でも、雄飛という仮面を剥がされた俺は……こんなにも弱くて不器用な、いたいけな少女だった。お前を格好良く守ることもできない、ちっぽけな存在だ」
絞り出すように吐露されたユリの痛切な葛藤。
それは、絶大な人気を誇るトップスターが初めて見せた、生々しく、無防備な魂の告白だった。
ユラは何も言わず、ユリの震える両手を自身の手で優しく包み込んだ。そして、ゆっくりとユリの正面に回り込み、その大きな瞳でユリを真っ直ぐに見つめ返した。
「……格好良くなんて、なくていいの」
ユラの甘く、波音よりも深く澄んだ声が夜空に響く。
彼女は片手を伸ばし、ユリの涼しげな目元、高い鼻筋、そして少し強張った頬を、慈しむようにゆっくりと撫でた。
「鎧で隠された完璧な騎士よりも、震える足で不器用に立って、それでも私の隣にいようと必死にもがいてくれる……その不器用なあなたが、私は誰よりも愛おしいわ」
「ユラ……」
「弱くてもいい。ただの少女でいいのよ。極寒のシベリアで私たちを温めてくれるのは、見栄っ張りなマントなんかじゃない。互いの弱さを認め合い、求め合う、この素肌の熱だけなんだから」
ユラからの圧倒的な肯定と、包み込むような深い愛情。
ユリの中で張り詰めていた恐怖と羞恥心が、ユラの掌の熱によってトロリと溶かされていく。ユリの瞳から、堪えきれない涙が一筋、また一筋と溢れ落ちた。
「ああ……お前は、本当に強いな。俺なんかより、ずっと」
ユリは嗚咽を漏らしながら、ユラの細い腰に腕を回し、すがりつくようにその身体をきつく抱きしめた。
ユラもまた、ユリの背中に腕を回し、その豊かな髪に指を絡ませる。
「私だって弱いわ。ユリがいなければ、明日を生きる理由すら見失ってしまうくらいに」
ユラはユリの顔をそっと持ち上げると、涙で濡れたその頬に、そして震える唇に、自身の唇を深く重ねた。
羽虫が触れるような優しい口づけは、やがて渇きを癒やすような激しい貪りへと変わっていく。
「んっ……、……ぁ、ユリ……っ」
唇を割り、互いの舌が熱く、深く絡み合う。
そこにはもう、役者としての雄飛麗花の役割の力関係は一切存在しなかった。
対等なひとりの人間として。互いを狂おしいほどに求める、ふたりの女性として。
ユリは抱き寄せる力を強め、ユラもまた、背中を這う手に熱情を込める。波の音にかき消されるほどの生々しい水音と、甘い吐息が交錯する。
誰の目も気にすることなく、夜の海辺で深く、激しく体を重ね合わせる二人。
剥き出しの魂をぶつけ合い、互いの体温で己の弱さを埋め合わせていく。この濃密で情熱的な愛の時間こそが、彼女たちに明日の舞台へ立つための最強の武器を与えていた。
雄飛という鎧を失ったユリは、ただの弱い女になったのではない。ユラという絶対的な愛の伴侶を得て、何者にも縛られない、最も美しく無敵の「ひとりの女性」へと生まれ変わったのだった。
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そして、運命の朝がやってきた。
瀬戸内海から昇る眩い朝日が、さぬき大歌舞座の巨大な建物を黄金色に染め上げている。
劇場周辺は、早朝から尋常ではない熱気に包まれていた。
全国から押し寄せた数万人のファンたちが、劇場の外周を何重にも取り囲んでいる。保守派も熱狂派も入り乱れ、メディアのカメラが無数に立ち並ぶ中、誰もが「華ノ乙女ノ歌舞劇會百周年記念特別公演」の幕開けを、息を呑んで待ちわびていた。
バックステージの薄暗い舞台袖。
開演の五分前を知らせるアナウンスが鳴り響く中、出番を待つユリとユラは、静かに並んで立っていた。
二人の身を包んでいるのは、極寒のシベリアの収容所を模した、みすぼらしく色褪せた防寒着だ。華やかなメイクも、煌びやかな衣装もない。しかし、そこから放たれる圧倒的な存在感と美しさは、これまでのどんな舞台よりも強烈な光を帯びていた。
静寂の中、ユリがそっと手を伸ばし、ユラの白く細い指先に自身の指を絡ませた。
ユラが顔を上げ、艶やかな黒髪を揺らしてユリを見つめる。
「ユラ……行くぞ。俺たちの、全てを賭けた舞台へ」
ユリの涼しげな目元には、もう一切の迷いはない。すべてを曝け出し、ただ愛する人と共にこの命を燃やし尽くすという、強靭な覚悟だけが宿っている。
ユラは大きな瞳に熱い涙を微かに滲ませながら、これ以上ないほど美しく、誇り高い微笑みを浮かべた。
「ええ。時代が押し付けた檻は、今日、私たちで壊すわよ」
固く結ばれた二人の手に、互いの熱い脈動が伝わる。
劇場に、開演を告げる重厚なブザーが鳴り響いた。
百年の歴史の重い扉が開く音と共に、舞台を覆っていた巨大な大幕が、ゆっくりと左右に開いていく。
眩いスポットライトが射し込む舞台の中央へ、鎧を脱ぎ捨てたふたりの乙女が、確かな足取りで歩みを進めていった。




