第37話 迎えの車
瀬戸内の穏やかな海風が吹き抜ける、さぬき市の志度駅。
改札を抜けた天海ユリは、片手にトランクを引きながら、小さく息を吐き出した。抜けるような青空と、帝都とは違うゆったりとした時間の流れが、彼女を包み込んでいる。
百周年記念特別公演の準備および合同稽古のため、さぬき大歌舞座への出張という名目で、ついにユリはこの地に降り立ったのだ。
改札口には、八千草ユラが迎えに来てくれているはずだった。しかし、駅前のロータリーを見渡しても、艶やかな黒髪を揺らす愛しい人の姿はない。
(おかしいな……稽古は午後からのはずだが)
ユリがスマートフォンを取り出そうとした、その時だった。
ロータリーに一台の車が静かに滑り込んできた。運転席の窓がスッと下がり、サングラスを額に押し上げたユラが、花が咲くような笑みを向けて手を振っていた。
「ユリ!こっちよ!」
東京では劇會の移動バスばかりだったため、ユラがハンドルを握っている姿を見るのはひどく新鮮だった。ユリは安堵と共に駐車スペースに収まった車へ駆け寄る。
ユリがトランクを後部座席に押し込み、助手席のドアを開けて乗り込んだ、まさにその直後だった。
バタン、とドアが閉まり、車内が完全な密室になった瞬間。
ユラが弾かれたように身を乗り出し、助手席のレバーを力強く引いた。ガコンッという音と共に、ユリの座る背もたれが限界まで一気に後ろへと倒れ込む。
「えっ、ユラ……っ!?」
驚いて声を上げる間もなく、ユラが運転席から覆いかぶさるようにして、ユリの身体の上にのしかかってきた。ユラの艶やかな黒髪がカーテンのように降り注ぎ、車外の視界を完全に遮断する。
そして、獲物を捕らえるような貪欲さで、ユリの唇を激しく塞いだ。
「んっ……、……ぁ」
甘く、そして狂おしいほどの熱を帯びた口づけだった。ユラの舌が躊躇うことなくユリの唇を割り、深く、執拗に絡みついてくる。物理的に引き離され、画面越しでしか触れ合えなかった数ヶ月間の渇望が、この密室の中で一気に爆発していた。
「……待っていたわ。ユリがさぬきに来るのを、ずっと……っ」
息継ぎの隙間に、ユラが潤んだ大きな瞳から涙をこぼしながら囁く。その涙がユリの頬を濡らし、ユリの胸の奥をギュッと締め付けた。
ユリは倒れたシートの上で、自身の大きな両手をユラの華奢な背中に回し、折れそうなほど強く抱きしめ返した。
「俺もだ……。もう二度と、お前を一人にしない」
ユリが低く熱い声で応えると、ユラは嬉しそうに喉の奥で甘い声を鳴らし、再び深く唇を重ねてきた。
百年の掟に縛られていた偽りの日々を越え、ようやく手に入れた二人だけの時間。車内には、互いを貪る生々しい水音と、重なり合う切実な吐息だけが、一時濃密に響き続けた。
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さぬきの地で二人が奇跡の再会と激しい愛の交歓を果たしていた頃。
帝都・東京の銀座華劇場では、氷室弘樹が一人、猛烈な嵐の矢面に立たされていた。
冷え切った執務室の電話は、朝から鳴り止むことがなかった。ファン投票の「ダブル主演」という結果を公式に発表して以来、保守派のファンからのクレームはもちろん、親会社である『さぬきホールディングス』の重役や、古参理事からの怒号がひっきりなしに飛び込んでくるのだ。
『氷室! 今回の件はあまりにスキャンダラスすぎる! 今すぐ発表を撤回しろ!』
受話器越しに喚き散らす上役の声に対し、氷室は銀縁眼鏡の奥で冷徹な瞳を細め、一切の感情を排した声で応じた。
「ご案じなく。すべては私の責任において処理いたします。発表の撤回は、それこそ劇會の信用を地に落とす最悪の悪手です」
『だが、スポンサーが黙っていない!』
「商品の真の価値は、初日の幕が上がれば自ずと証明されます。あの二人が舞台に乗せるものは、劇會百年の歴史上、最大の利益を生み出す至高の芸術です。……それまでは、いかなる圧力からも私がこの身を挺して防波堤となります」
ガチャン、と氷室は一方的に電話を切った。
極限の合理性を追求する冷徹なマネージャーが、自らのキャリアと進退を懸けて、異端の乙女たちを守り抜く。その氷のように冷たい横顔の裏には、舞台人としての熱い血と、彼女たちが創り出す奇跡を誰よりも見届けたいという強烈な渇望が隠されていた。
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「東京の牡丹組から参りました、天海ユリです。……本日から、麗花としてよろしくお願いいたします」
さぬき大歌舞座の広大な稽古場。
ユリが深く頭を下げると、さぬき華組の劇會員たちからどよめきと拍手が巻き起こった。絶大な人気を誇る雄飛が、その輝かしいキャリアを捨てて、娘役として自分たちの中に加わる。その歴史的な瞬間に、誰もが息を呑んでいた。
しかし、覚悟を決めてさぬきへやってきたユリ自身は、かつてないほどの激しい羞恥と葛藤に苛まれていた。
彼女の身を包んでいるのは、精進五年目にして初めて着用する、麗花のためのひらひらとしたフレアスカートの稽古着だった。高身長でスラリとした手足を持つユリだが、これまで徹底的に男役としての威風堂々とした所作を叩き込まれてきたため、スカートの裾が脚に触れる感触だけで酷く落ち着かないのだ。
「そこ、天海さん!ステップの歩幅が広すぎます。もっとしなやかに、膝を寄せて!」
「は、はいっ!」
振付師の厳しい声が飛ぶ。無意識のうちに雄飛の癖が出てしまい、力強く床を蹴ってしまうのだ。発声練習でも、娘役特有の高く澄んだ声を出すのに喉が強張り、うまく息が続かない。
「……駄目だ。俺は、こんなにも不器用だったのか」
休憩時間、稽古場の隅で肩で息をしながら、ユリは悔しさに唇を噛んだ。雄飛という鎧を脱ぎ捨て、「ひとりの女性」としてユラの隣に立つと宣言したものの、現実の壁は厚かった。
「ユリ」
そこへ、艶やかな稽古着姿のユラが小走りで駆け寄ってきた。彼女はユリの隣に座ると、汗ばんだユリの大きな手を、自身の両手で優しく包み込んだ。
「無理して自分を小さな枠に押し込めようとしなくていいのよ」
「でも、俺がきちんとした麗花にならなければ、お前の足を引っ張る……」
焦るユリに、ユラは慈しむように微笑み、その首元にスッと細い腕を回した。
「私を守る完璧な騎士にならなくていいの。あなたはあなたのまま、不器用で真っ直ぐで熱い魂を持ったひとりの女性として、私の隣で咲いてくれればいい。……さあ、私に身を委ねて」
攻め好きのユラが、舞台の上でもユリを優しく、そして力強くリードする。
ユラに手を引かれ、再び舞台の中央に立つユリ。二人が向き合うと、そこにはもはや「雄飛や麗花」という劇會の役割は存在しなかった。ただ、互いを深く愛し、魂を共鳴させ合う、ひとりの人間としての美しいアンサンブルが立ち上がり始めていた。
この日から、『凍てつく星のシベリア〜完全編〜』の本格的な立ち稽古が始まった。
極寒の収容所という極限状態において、二人の女性が物資も薬もない絶望の中で命を繋ぎ止めようと抗う物語。
創設者・京本琴子が描いた過酷な運命に引き裂かれる二人の人間の数奇な物語を、自身の人生と照らし合わせて創られた自伝とも思われる魂のこもった作品である。
「行かないで……!あなたがいなければ、私は明日を生きられない!」
「生きるのよ……!どんなに冷たい風が吹こうとも、私の魂はいつもあなたの傍にいるから!」
別離の悲壮感を漂わせ、互いにすがりついて泣き叫ぶ二人。
しかし、結末を知っているからこそ、その引き裂かれる演技には、これまでの華會の悲劇にはない「底知れぬ愛の執念」が宿っていた。
雄飛としてのオーラを完全に消し去り、ひとりのか弱くも美しい女性としてユラと共鳴するユリ。そして、すべてを受け止め、炎のような命を燃やすユラ。
擬似的な恋愛ではない、女性同士のむき出しの魂の結びつき。その生々しくも圧倒的な熱量に、稽古場で見守るさぬきの劇會員たちやスタッフは息を呑み、気づけば全員が声を殺して涙を流していたのだった。




