第36話 さぬきへの出発
同じ頃、帝都・東京。銀座華劇場の奥深くにある、薄暗いリハーサル室。
喧騒から遠く離れたその静寂な空間で、天海ユリは一人、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。
『天海ユリ(麗花)、八千草ユラ(麗花)』
その文字列をなぞるユリの涼しげな目元が、ゆっくりと熱を帯び、透明な雫が頬を伝って落ちた。
絶大な人気を誇る次期トップスター。舞台を牽引し、麗花を守り抜く強き「雄飛」。その輝かしいキャリアと重い鎧を、ユリは自らの意志で完全に脱ぎ捨てたのだ。
雄飛としての庇護者ではなく、対等なひとりの女性として、ただ愛するユラと共に立ちたい。退路を断ったその恐ろしいほどの覚悟が、ファンという巨大な熱狂の渦を巻き起こし、ついに理不尽なシステムを打ち破った。
「ユリ……っ!やった、本当にやったわね!」
「天海先輩!おめでとうございます!」
バタンと勢いよく扉が開き、同期の親友である岡村マキと、後輩の長谷部リコが泣き顔で飛び込んできた。
偽装稽古に協力し、誰よりも近くで二人の苦しみを見てきたマキは、堪えきれずにユリの胸に飛び込んで号泣した。純粋な憧れを抱き続けていたリコも、ユリの背中にすがりついてしゃくり上げている。
ユリは自身の大きな手で、二人の背中を優しく撫でた。掟の恐怖に怯え、息を潜めていたあの日々が、今、確かな光へと変わっていくのを感じていた。
「……随分と騒がしいわね。主役の座を掻っ攫っていった泥棒猫の顔を見に来てみれば、とんだお涙頂戴の場面じゃない」
不意に、リハーサル室の入り口から、ゆっくりとした拍手の音が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、蓮組のトップスターであり、華會の酸いも甘いも噛み分けてきた大先輩、石島カノンだった。
洗練された大人の色香と、圧倒的な包容力を漂わせる彼女は、壁に背を預け、腕を組んでユリを見つめていた。
「石島先輩……」
ユリが居住まいを正すと、カノンはふっと息を吐き、自嘲気味に、だがどこか嬉しそうに口角を上げた。
「私の抱える保守的なファンたちも、今回ばかりは完全にあなたたちの熱情に呑み込まれてしまったみたいね。……長年トップを張ってきた身としては、可愛い後輩にこうも鮮やかに負かされると、正直言って腹立たしいし、たまらなく悔しいわ」
「申し訳ありません。ですが、私は……」
「謝るんじゃないわよ」
弁解しようとしたユリの言葉を、カノンがピシャリと制した。彼女はゆっくりと歩み寄り、ユリの涼しげな目元を真っ直ぐに射抜いた。
「……でもね、それ以上に、私は今、猛烈にワクワクしているの」
「え……?」
「あなた、自分がどれだけ途方もないことをしでかしたか分かっている? 絶対的な雄飛の立場を捨ててまで、退路を断って一人の女として愛を証明するなんて。……ルールに縛られて息も絶え絶えだった不器用な子が、まさか百年の檻を自らの手で壊すまでに成長するなんてね」
カノンの瞳の奥に、舞台人としての深い敬意と、燃え盛るような好奇心の光が宿っていた。
本当の愛も、嘘の愛も、最後に舞台を輝かせるならそれでいい。そう達観していたはずのカノン自身が、ユリとユラの放つ「本物」の熱量に完全に魅了されていたのだ。
「私に見せてちょうだい。百年続いたあの冷たい原則を超えた先……あなたたちが二人で創り上げる、むき出しの愛の演技を。それがどんなに美しく、狂おしい光を放つのか、一演劇好きとして楽しみで仕方ないわ」
それは、劇會の頂点に立つ大先輩からの、これ以上ない最大限のねぎらいと祝福の言葉だった。
ユリは深く息を吸い込み、決意に満ちた表情でカノンに向かって深々と頭を下げた。
「はい。私の魂のすべてを懸けて、必ず成功させてみせます」
顔を上げたユリの立ち姿には、もうかつてのような迷いや葛藤は一切なかった。ひとりの舞台人として、そしてひとりの愛に生きる女性としての、気高く揺るぎないオーラがそこには満ちていた。
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運命の発表から数日後。熱狂冷めやらぬ銀座華劇場に、上層部から一枚の内示が正式に下りた。
『天海ユリ。百周年記念特別公演の準備および合同稽古のため、さぬき大歌舞座への移動を命ず』
それは、氷室マネージャーの冷徹な采配によって物理的に引き裂かれていた二人の距離が、ついにゼロになることを意味していた。
雲一つない青空が広がる、帝都・東京駅。
行き交う大勢の人々の中、ユリは片手にトランクを引き、新幹線のホームに立っていた。
かつて、左遷されるユラを見送ったのと同じ場所。
あの日のユリは、自身の無力さとどうしようもない絶望に打ちのめされ、歓声に沸く輪から離れた柱の陰に隠れて、遠ざかる列車をただ見つめることしかできなかった。血が滲むほど唇を噛み締め、分厚いガラスの向こうで涙を流す愛しい人を、奪い返す勇気すら持てなかった。
しかし、今のユリは違う。
誰の目も恐れず、隠れることもなく、堂々とホームの最前列に立っている。その足取りは驚くほど軽く、胸の中にはこれから始まる「二人だけの本当の舞台」への熱い希望が満ち溢れていた。
(俺たちは戦い抜いた。離れ離れになったあの日々が、俺たちの魂を鋼のように強く結びつけてくれたんだ)
深夜の非常階段で、監視の目を盗んで交わした切実な声。
画面越しにしか触れられなかった、もどかしくも狂おしいほどの愛の熱。
時代遅れのシステムも、大人の理不尽な権力も、もう二度と自分たちを引き裂くことはできない。
プシュー、という音と共に、西へ向かう新幹線のドアが開く。
ユリは迷うことなく、その車両へと足を踏み入れた。
(待っていてくれ、ユラ。もう二度と、暗闇でお前の手を離したりしない。これからは日の当たる場所で、お前の隣に立ち続ける)
ゆっくりと滑り出した列車が、心地よいモーター音を響かせて加速していく。
車窓から見える帝都の景色が後ろへと飛び去り、百年の歴史が眠る四国・さぬきの地へと、ユリの思いを乗せた列車が真っ直ぐに進んでいく。
雄飛という重い鎧を脱ぎ捨て、ひとりの女性として真実の愛を証明する、二人だけの美しい舞台の幕が、今、高らかに上がろうとしていた。




