第34話 悪魔の取引
同時刻、香川県琴平町。
静かな日本家屋の客間で、飯倉蘭は黒電話の受話器をカチャリと置いた。
百十六歳の刻まれた皺の奥で、知性に満ちた瞳が悪戯っぽく細められる。
彼女の視線の先には、壁に飾られた若き日の京本琴子の遺影があった。袴姿で豪快に笑う最愛の人の写真に向かって、蘭は車椅子の上でふふっと小さく笑い声を漏らした。
「ケンちゃんを、少し脅かしてしもうたわ」
柔らかな呟きが、古びた和室に溶けていく。
かつて大正の時代、自分たちが劇會を立ち上げるために、立ちはだかる大人たちの権力や偏見と死に物狂いで戦ったように。
百年が経った今、今度は自分が、愛する二人の若き乙女たちのために、巨大な大人の壁を内側から崩してやる番なのだ。
「さあ、見物じゃね。……あの子たちが、どんな顔をして新しい時代の幕を開けるか」
蘭は琴子の写真に向かって、少女の頃のような無邪気な微笑みを向けた。
百年の時を超えた創設者からの強烈な「最後の一票」。それは、権力者たちの思惑を根底から粉砕し、運命の歯車を劇的に回す最強の一撃となったのである。
+++
ツー、ツー、という無機質な電子音が響く中、御子柴は携帯電話を取り落とし、頭を抱えた。
なぜ、外界から完全に隔離されているはずの蘭が、昨夜決定したばかりの「隠蔽工作」の進行を知っていたのか。
御子柴の脳裏に、昨夜の臨時理事会で沈黙を保っていた古参の役員たちの顔がフラッシュバックする。
「……あの、タヌキジジイども……!」
すーっと血の気が引いていく。古株の役員数人は、今でも創設者である琴子と蘭を神のように崇拝している。彼らが裏で蘭と通じ、御子柴の強引な隠蔽工作をリークしていたのだ。
御子柴のワンマン経営など、所詮は砂上の楼閣だった。蘭の電話は単なる「お願い」ではない。「私の意向を無視すれば、古株たちを動かしてあなたの理事長の椅子を脅かしますよ」という、創設者からの冷酷な警告であった。
蘭の指示に従えば、親会社であるスポンサーが「スキャンダル女優を主演にした」と激怒し、自身のクビが飛ぶ。だが従わなければ、劇會内部の反乱によって即座に失脚する。
完全に逃げ道を塞がれ、絶望の淵で御子柴が惨めなうめき声を上げたその時だった。
コンコンコン、とノックの音が鳴り、重厚なマホガニーの扉が開かれた。
そこに立っていたのは、マネージャーの氷室弘樹だった。しかし、いつもの冷徹なビジネスパーソンとしての機械的な佇まいではない。銀縁眼鏡の奥の瞳には、静かで、恐ろしいほどの熱が宿っていた。
「氷室……! お、お前、どうにかしろ! 蘭様が、あの投票の真の結果を知っていた! このままでは私の……いや、劇會が終わってしまう!」
すがりつくような御子柴を一瞥し、氷室は無言のままデスクの前へと進み出た。
そして、内ポケットから二つのものを取り出し、御子柴の目の前に静かに置いた。
一つは、漆黒の表紙に包まれた真新しい『凍てつく星のシベリア完全編』の台本。
そしてもう一つは――『退職願』と記された、純白の封筒であった。
「ひ、氷室……? お前、それは……」
「文字通りの意味です、理事長。私は、この『完全編』の天海と八千草のダブル主演を、予定通り公式に発表します」
「馬鹿なことを言うな!スポンサーが黙っていない!そんな不良債権を舞台に上げれば、大炎上して暴動が起きるぞ!」
泡を食って叫ぶ御子柴に対し、氷室は極めて冷静に、しかし圧倒的な威圧感を持って告げた。
「逆です。あのファンの圧倒的な熱狂のやりとり……あれを無かったことにして隠蔽工作を行えば、それこそ取り返しのつかない暴動が起き、劇會の信用と親会社の株価は地に落ちます」
氷室はトン、と指先で真新しい台本の表紙を叩いた。
「しかし、この百年の封印を解かれた至高の芸術を舞台に乗せれば、一時的な炎上など消し飛ぶほどの空前絶後の利益を劇會にもたらすことができる。……これは、私の計算です」
「だが、責任は誰が取る!上が納得せん!」
「ですから、これを置いています」
氷室は退職願を指差し、御子柴の目を真っ直ぐに射抜いた。
「スポンサーの反発も、メディアからの追及も、すべて私が引き受けます。私が全責任を負い、劇會とあの二人を守る『最強の防波堤』となる。……理事長はただ、創設者・蘭様の意向に従ったという大義名分のもと、座して最高の利益を享受すればいい」
それは、保身に走る御子柴にとって、これ以上ない「悪魔の取引」であった。
すべてを氷室に押し付ければ、自分は蘭の怒りもスポンサーの怒りも回避できる。御子柴は脂汗を拭いながら、力なく椅子に深く沈み込み、震える手でシッシッと「勝手にしろ」と追い払うような仕草を見せた。
「……承知いたしました。では、これより公式発表の準備に移ります」
氷室は深く一礼し、踵を返した。
理事長室を出て、重厚な扉を閉めた瞬間、氷室は小さく息を吐き出した。
冷徹なシステムを管理する番犬は、ついに自らの意志で首輪を食いちぎったのだ。劇會の利益を守るという建前の裏で、彼自身が誰よりも天海ユリと八千草ユラという「本物の芸術」に魅せられ、彼女たちの愛の舞台を実現させるための最大の支援者となった瞬間であった。




