第33話 最後の一票
ファン投票の結果発表を昼に控えた、帝都・東京の朝。
銀座華劇場の静まり返った重役フロアの廊下を、マネージャーの氷室弘樹は規則正しい足音を響かせて歩いていた。
彼のタイトなスーツの内ポケットには、昨夜、印刷所に極秘で手配した真新しい台本が収められている。ずしりと胸にのしかかるその重みは、創設者が百年前に書き残した『凍てつく星のシベリア完全編』の重厚な魂そのものだった。
極限の合理性をもって劇會という巨大なビジネスを管理し、冷徹な計算で幾つもの火種を揉み消してきた氷室。しかし今、彼の完璧な数式は、たった二人の役者によって完全に魅せられ狂わされていた。
天海ユリ、八千草ユラ。
掟に縛られた偽りのシステムの中で、彼女たちが放った光はあまりにも異常だった。
絶大な人気を誇る雄飛としての輝かしいキャリアをあっさりと捨て、退路を断ってひとりの女性として愛を証明しようとするユリの恐ろしいほどの覚悟。
左遷という最悪の逆境を完全に支配し、遠く離れたさぬきの地で圧倒的なカリスマ性を見せつけ、次期トップスターの座を自らの手でもぎ取ったユラの狂おしいまでの執着。
彼女たちは、氷室がこれまで管理してきたような「計算可能な商品」ではなかった。自らの血を流して運命を切り拓き、熱狂という巨大な竜巻を引き起こす、正真正銘の「本物」だった。
「……私の計算式に、私情を挟む日が来るとはな」
氷室は立ち止まり、銀縁眼鏡を静かに押し上げながら自嘲気味に呟いた。
劇會の利益を守る冷徹な番犬であったはずの彼自身が、誰よりも彼女たちの放つ芸術としての圧倒的な「格の違い」と、むき出しの愛の熱量に完全に虜にされていたのだ。
あの二人が、この完全な台本を舞台で演じ切った時、一体どれほどの奇跡が起こるのか。それを見届けたいという、舞台人としての純粋な渇望が氷室の胸の奥で激しく燃え盛っていた。
(あの無能な上層部に、この至高の芸術を握り潰させるわけにはいかない)
氷室は胸元の台本越しに、己の心臓の鼓動を確かめた。この歴史的な舞台の幕を強引に開けるため、彼は自身の進退というすべてを賭け、ユリとユラを守る「最強の防波堤」へと反転する覚悟を静かに固めたのだった。
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一方、銀座華劇場の最上階。
豪奢な調度品に囲まれた理事長室では、御子柴健造がふかふかの革張りチェアに深く腰掛け、最高級の葉巻を燻らせていた。
「ふんっ、下賤なファンどもがどれだけ騒ごうと、劇會を統べるのはこの私だ」
御子柴は紫煙を吐き出しながら、醜悪な優越感に浸っていた。
昨日の臨時理事会で下した決定。同性愛スキャンダルという劇會最大の不良債権を抱えた二人の主演案を、「外部からのハッキングによる不正な票の混入」という体裁で完全に無効化し、握り潰そうとしている。
今日の昼には、無難な演目と保守的なトップスターの名前が公式から発表される。スポンサーである「さぬきホールディングス」の顔に泥を塗ることもなく、劇會の古き良き伝統という体裁も完璧に守られる。自身の鮮やかな隠蔽工作に、御子柴は満面の笑みを浮かべていた。
その時だった。
静かな理事長室に、不釣り合いな電子音が鳴り響いた。
御子柴は眉をひそめ、デスクの引き出しを開けた。音の出どころは、仕事関係者には絶対に教えていないはずの「プライベート用」の携帯電話だった。
画面には見知らぬ番号が表示されている。訝しみながらも、御子柴は通話ボタンを押して耳に当てた。
「……はい、御子柴ですが」
『ケンちゃん。元気しまいか?』
電話の向こうから聞こえてきた、穏やかで年老いた女性の声。
その響きに、御子柴の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
ケンちゃん。そんな幼名で自分を呼ぶ人間など、この数十年、一人もいなかったはずだ。
「ど、どちらさんでしょう……?」
『私よ。蘭ねえさんよ』
瞬間、御子柴の全身の毛穴が開き、冷や汗がどっと噴き出した。
蘭。飯倉蘭。
大正時代に華ノ乙女ノ歌舞劇會を立ち上げた、生ける伝説にして創設者。
先代の父から二十年前にこの組織を任された御子柴にとって、彼女は幼い頃から遊んでもらい世話になった、四十歳以上も歳の離れた絶対的な大恩人であった。
「ら、蘭、様……!?」
御子柴は弾かれたように椅子から立ち上がり、誰もいない部屋で直立不動の姿勢をとった。葉巻が手から滑り落ち、高級な絨毯を焦がすが、それに構う余裕すらなかった。
『一〇〇周年おめでとう。それもこれもケンちゃんがしっかり守ってきてくれたお陰けんね……あぁ、それから、何やら投票ちゅうのやってるらしいのう』
電話越しの蘭の言葉は、酷く穏やかだった。御子柴は週刊誌の記事で蘭が、ユリとユラに『完全編』の台本や推薦状を託したと報じられていることは知っていた。だが、外界から隠居しているはずの彼女が、まさか本気でこのクーデターの糸を引いていたというのか。
御子柴の喉がカラカラに干上がる。
『インターネットっちゅうんはわからんから、電話で私にも一票入れさせてくれんまい?』
すでに隠蔽工作によって結末は別のものに書き換えている。だが、あの記事が真実であり、生ける創設者本人が直々に口を出してきたとなれば話は別だ。大恩人の頼みを無下にすることなど絶対にできない。
「して、何を選ばれますか……?」
引き攣った声で問い返す御子柴に対し、蘭は静かに、しかし有無を言わさぬ確固たる声で告げた。
『演目は、「凍てつく星のシベリア完全編」。そして主演は、天海ユリと八千草ユラじゃ』
ガツン、と後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に、御子柴は目の前が真っ暗になった。
週刊誌の記事の内容は、まぎれもない事実だった。いや、それだけではない。蘭がわざわざこのタイミングで電話をかけてきてその名を出したということは、彼女はファン投票の「真の結果」が隠蔽されようとしていることを知っており、あえて釘を刺してきたのだ。
『それとね、ケンちゃん。さぬきでの一〇〇周年の記念公演、私もぜひ直接出向いて、舞台を観劇させてもらおうと思っとるけん。何が選ばれるかわからんが、楽しみしてるまい。……これからも先代から守っとる劇會を、恥じんように運営してな』
一方的にそう告げると、電話はプツンと切れた。
ツー、ツー、という無機質な電子音だけが、御子柴の耳に虚しく響く。
御子柴は携帯電話を持ったまま、へたり込むように椅子に崩れ落ちた。額から流れる滝のような冷や汗が、高級なスーツの襟を濡らしていく。
隠蔽を強行すれば、記念公演にやってくる創設者の逆鱗に触れる。かといって、二人の主演を公式発表すれば、今度はスポンサーの反発とスキャンダルの炎上を食らう。
完璧だったはずの御子柴の優越感は、たった一本の電話によって粉々に打ち砕かれ、彼は底知れぬ絶望の淵へと真っ逆さまに突き落とされたのだった。




