第32話 完成した台本
その醜悪な密室劇を、壁際に立つマネージャーの氷室弘樹は、一切の表情を変えることなく静かに見つめていた。
(……愚かな)
銀縁眼鏡の奥で、冷徹な瞳が微かに細められる。
この臨時理事会において、一介の社員に過ぎない氷室に発言権はない。上層部の決定には絶対服従を強いられる立場であり、表面上はこの無慈悲な決定を受け入れるしかなかった。
しかし、彼の脳内では、極限のビジネス的計算が高速で駆け巡っていた。
あの歴史的な投票結果。それはすなわち、劇會がこれまで見たこともないような莫大な利益を生み出す「究極の需要」に他ならない。スキャンダルという不良債権を恐れるあまり、目の前にある劇會史上最高の利益をドブに捨てる上層部の判断は、氷室の極めて合理的なビジネスの数式から見れば、ただの「無能」であった。
それに、熱狂したファンたちを浅はかな嘘で誤魔化し切れるはずがない。暴動によるチケットの大量キャンセル、ひいては親会社の株価下落。リスク管理の観点からも、この隠蔽は最悪の悪手だ。
(伝統という名の腐った体面を守るために、会社そのものを傾かせる気か)
氷室は心の内で冷たく吐き捨て、ただ静かに理事会が閉会するのを待った。
+++
深夜。銀座華劇場の奥深くにある、窓のない氷室の執務室。
重厚なデスクに向かう氷室の元へ、控えめなノックと共に、彼が最も信頼を置く秘密裏のスタッフがやってきた。
「氷室マネージャー。ご指示通り、極秘で進めていたものが仕上がりました」
スタッフが恭しく差し出したのは、厳重に梱包された例の台本だった。
「ご苦労。……誰にも見られていないな」
「はい。印刷所にも厳重な箝口令を敷いております」
スタッフを下がらせ、氷室は一人きりの冷え切った部屋でその包みを解いた。
中から現れたのは、美しく製本された真新しい台本。表紙には『凍てつく星のシベリア完全編』という文字が、漆黒のインクで誇り高く印字されていた。
それは、ファン投票でユリとユラが首位を獲得した場合に備え、氷室が万が一の保険として水面下で製本所へ手配していた「幻の台本」の完成品であった。
氷室は、真新しい紙の匂いが漂うその台本の表紙を、白く長い指でゆっくりと撫でた。
上層部によって上演中止と隠蔽が決定された、まさにその日の夜に、最高品質の「商品」が完成して自身の手元に届く。そのあまりにも皮肉な状況に、氷室は自嘲気味に口角を上げた。
表紙をめくり、ページに目を落とす。
そこには、百年前に創設者・京本琴子が飯倉蘭へ宛てて血を吐くように書き上げた、女性同士のむき出しの魂の結びつきが、活字となって美しく蘇っていた。
極寒の収容所での地獄を耐え、性別も役割も関係なく、ただひとりの人間として互いを求め、過酷な冬を越えて強く抱きしめ合う真実の結末。
ただの活字の羅列であるはずなのに、そこから放たれる圧倒的な愛の熱量と、芸術作品としての隙のない完成度は、冷徹なビジネスパーソンである氷室の魂をも深く揺さぶるものだった。
(これを上演すれば、間違いなく劇會は伝説となる。天海ユリと八千草ユラ……あの二人ならば、この極限の愛を完璧に体現し、空前絶後の利益を叩き出すはずなのに)
氷室は台本を閉じ、深く、重い息を吐き出した。
劇會を守るための防波堤として、無能な上層部の冷徹なシステムに従い続けるべきか。それとも、目の前にある至高の芸術と、劇會を次なるステージへ押し上げる最大の利益を取るべきか。
脳裏に、雄飛としての輝かしいキャリアを捨て、退路を断って麗花への転向を宣言したユリと、圧倒的な実力でさぬきの舞台を支配し、決して屈することのないユラの艷やかな姿がよぎる。
「……『商品』が『芸術家』に化ける瞬間を、この私が待ち望んでしまうとはな」
誰にも聞こえない低い呟きが、無機質な執務室に溶けていく。
氷室は銀縁眼鏡を外し、目頭を指で強く揉んだ。彼の内側で、氷のように冷たいビジネスの論理と、かつて封じ込めた舞台人としての熱い血が、静かに、しかし激しく軋み合い始めていた。
机の上に置かれた『幻の台本』は、まるで確かな意志を持っているかのように、暗い部屋の中で静かな存在感を放ち続けている。
理不尽な権力によって一度は完全に握り潰されたかに見えた乙女たちの希望の火種は、皮肉にも劇會で最も冷徹な男の手の中で、次なる反逆の時をじっと待ちわびていた。




