第31話 臨時理事会
ファン投票の締め切り時刻を回った、銀座華劇場の運営事務局・特設集計室。
無数のコンピューターが発する低い駆動音だけが響く張り詰めた空気の中、メインモニターに最終集計の数字が次々と弾き出されていく。
「……信じられない」
集計スタッフの一人が、乾いた喉から掠れた声を漏らした。
画面の中央に燦然と輝くトップの文字。
『演目:歴史悲劇「凍てつく星のシベリア〜完全編〜」』
『主演:天海ユリ、八千草ユラ』
次点に位置する伝統的な保守派の組織票。それは上層部の思惑通り、鉄の結束で特定のトップペアへと一極集中していた。しかし、その強固な票の山を「わずか数十票」という薄氷を踏むような僅差で上回るという、劇會百年の歴史においてかつてない異常事態であった。
独立系ジャーナリスト・桐生塔子の放った扇情的な記事と、蓮組トップスター・石島カノンの世代交代を告げるメッセージ。それらが、普段は声を上げない無党派の休眠ファンや、新たなドラマに飢えていた新規層の心に強烈な火をつけ、これまでの常識を覆す空前の投票率を叩き出したのだ。
決して保守派の組織票が崩壊したわけではない。百年のシステムの外側から押し寄せた「真の芸術を求める熱狂」の総量が、盤石な壁を物理的に乗り越えた瞬間だった。
「本当に、歴史が変わってしまった……」
スタッフたちは息を呑み、圧倒的な数字のうねりを作り出した真の芸術を渇望するファンの凄まじい熱量に、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
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公式からの結果発表は、翌日の昼と定められていた。
運命の発表を数時間後に控えたこの日、帝都・東京の銀座華劇場と、遠く離れたさぬき大歌舞座では、それぞれ全く同じ空気が流れていた。
「ねえ、結果どうなると思う……?」
「天海さんが麗花に転向なんて、やっぱりファンが許さないんじゃ……」
劇會員たちが不安と興奮でざわめき、誰もが落ち着かない様子で廊下や楽屋を行き交っている。
しかし、その熱狂の渦の中心にいる当の二人は、まるで台風の目のように静まり返っていた。
東京の誰もいない薄暗いリハーサル室。天海ユリは、ただ一人鏡に向かい、麗花としてのしなやかな所作を反復していた。手先から足先まで、かつて纏っていた雄飛という重い鎧の癖を完全に削ぎ落とすための、ストイックで地道な基礎練習。その涼しげな目元には、発表の不安など微塵もなく、ただ隣に立つべき愛しい人だけを見据える静かな炎が宿っている。
ユリは目を閉じ、空気をそっと抱きしめるように腕を回した。目を閉じれば、さぬきにいるユラの艶やかな黒髪の香りや、すがりついてくる細い腰の感触が鮮明に蘇る。
同時刻、さぬきの稽古場。ユラもまた、周囲の喧騒をよそに入念なストレッチに打ち込んでいた。しなやかな身体を伸ばし、筋肉の隅々にまで意識を張り巡らせる。
(ユリ……あなたの覚悟に、私は最高の相手役として応えるわ)
ユラは自身の胸に手を当て、力強く波打つ心臓の鼓動を感じていた。それはまるで、ユリの分厚い胸板を通して伝わってきた、あの力強い鼓動と完全に重なり合っているかのようだった。
物理的な距離は遠く離れていても、二人の魂は密接に絡み合い、同期していた。結果がどうであれ、自分たちの愛で新しいルールを作るという決意は揺るがない。互いを信じ抜く圧倒的な共闘関係が、結果を待つだけの時間を、舞台人としての研鑽の時へと昇華させていた。
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そして、その日の午後。
銀座華劇場の最上階、重厚な扉に閉ざされた大会議室で、極秘裏に臨時理事会が招集されていた。
「……ええい、一体どういうことだ! このふざけた数字は!」
華ノ乙女ノ歌舞劇會の理事長・御子柴健造が、真っ赤な顔で集計結果のプリントを会議机に激しく叩きつけた。分厚い絨毯の敷かれた室内に、唾を飛ばすほどの怒号がビリビリと響き渡る。
周囲を取り囲む上層部役員たちも、苦々しい顔で沈黙を保っていた。
「伝統ある百周年記念公演だぞ! それを、よりによって同性愛スキャンダルという不良債権まみれの二人が主演など、断じて認められるわけがなかろう!」
御子柴にとって、ファンの熱意や芸術の真の価値などどうでもよかった。彼が最優先すべきは、劇會の百年の格式と、何よりも親会社である「さぬきホールディングス」をはじめとするスポンサーの機嫌である。
「天海が雄飛の誇りを捨て、八千草と舞台に立つだと? そんな破廉恥な舞台を上演すれば、長年劇會を支えてきた上得意の保守層が離れ、スポンサーの顔に泥を塗ることになる。ビジネスとして完全な自殺行為だ!」
御子柴の言葉に、役員たちも次々と同調する。
「左様でございます。桐生とかいう三流ジャーナリストに踊らされた一部の熱狂派が、一時的に暴走しているだけです」
「このような無法な結果を公式に発表すれば、劇會の秩序は完全に崩壊しますぞ」
彼らの脳内には、ファンがどれほどの熱量で新しい時代の幕開けを望んでいるかという事実は届かない。ただ、自分たちが守り抜いてきた「古き良き伝統」という体裁が崩されることへの恐怖と保身だけがあった。
壁際に立ち、一切の感情を排して沈黙を貫く氷室の冷ややかな視線に気づく者すら、この場にはいなかった。
「……決まりだな」
御子柴は忌々しげに集計結果の紙を睨みつけ、冷酷な宣告を下した。
「この投票結果は、一切無かったことにする」
圧倒的なファンの声を、権力という名の大鉈で無慈悲に握り潰す。重厚な理事長室で、彼女たちの希望を永遠の暗闇へ葬り去るための、どす黒い隠蔽工作が静かに始まろうとしていた。




