第30話 極秘の指示
重厚なマホガニーの扉が閉まると、氷室弘樹の執務室は、まるですい星のような無機質な静寂に包まれた。
銀縁眼鏡の奥で冷徹な光を放つ氷室の前に、天海ユリと八千草ユラは並んで立っていた。氷室が二人を呼び出し、記事の事実確認を行う。
「単刀直入に聞こう。桐生塔子の記事にあった『幻の台本』と『非エス三原則撤廃の推薦状』……あれは事実か」
氷室の抑揚のない問いかけに対し、ユリは一切怯むことなく一歩前へ出た。
「すべて事実です。原本はここにあります」
ユリは持参した紙袋から、大切に保管していた色褪せた和紙の束を取り出し、氷室のデスクの上に静かに置いた。
「創設者である京本琴子様が書き残した『凍てつく星のシベリア』の真の結末、そして飯倉蘭様から託された推薦状の原本です。筆跡を見ていただければ本物だとわかるはずです。それと氷室マネージャー、私たちの覚悟はすでに記事の通りです」
隣に立つユラもまた、大きな瞳に揺るぎない闘志を宿して氷室を真っ直ぐに見据えた。二人は幻の台本が本物であることを告げ、ダブル主演をやらせてほしいと氷室に直訴する。
「ファン投票の結果、私たちが首位を獲得した暁には……必ずこの『幻の台本』を用いて、私たち二人のダブル主演をやらせていただきます」
その強烈な宣言に、氷室は鼻で笑うように冷笑を浮かべた。
「……勘違いするな。劇會は巨大なビジネスであり、君たちは商品に過ぎない。君たちの青臭い私情や自己満足の芸術など、私にとっては一文の価値もない。ファンという巨大な顧客がそれを望み、最大の利益を生むと証明されない限り、このような不良債権の火種は容赦なく握り潰すまでだ」
極限の合理性に基づく氷室の言葉は、まるで氷の刃のように冷たかった。しかし、ユリとユラの間に流れる熱い確信を断ち切ることはできなかった。
「ええ、分かっています。ですから、私たちは舞台という結果で証明してみせます。この百年の檻を壊すのは、他の誰でもない、私たち自身の愛と、ファンの熱狂だと」
ユラの艷やかで力強い言葉を前に、氷室は小さく息を吐き、机の上の和紙の束へ視線を落とした。
「……よかろう。一旦台本だけは預からせてもらう。ファンの投票結果を楽しみに待とうじゃないか」
氷室が冷たく退出を促すと、二人は深く一礼し、堂々とした足取りで執務室を後にした。
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バタン、と扉が閉まる音が響き、執務室で一人になった氷室。
彼は自身のデスクチェアに深くもたれかかり、ゆっくりと銀縁眼鏡を外した。先ほどまでの、人を寄せ付けない冷徹なビジネスパーソンの仮面が、少し緩んだ。
誰もいない部屋で、氷室は机の上に残された『幻の台本』にそっと手を伸ばした。
百年の時を超えて現れた、色褪せた原稿用紙。
ページをめくる指先が、微かに震えていた。
そこに綴られていたのは、極寒のシベリアという極限状態において、二人は性別による役割のない「ひとりの人間(女性)」として過酷な運命に立ち向かう姿だった。すべてを奪われた絶望の淵で、互いの存在だけを頼りに命を繋ぎ、シベリアから奇跡的に生還した二人の女性が再会し、万感の思いを込めて強く抱きしめ合うという真の結末。
氷室は、ただ利益だけを追求する冷血漢ではない。彼もまた舞台人の一人であった。
過去に彼が同性愛スキャンダルを冷徹に処理し、非情な防波堤となってきたのも、すべては「劇會」という美しき芸術の居場所を守るための、彼なりの血を吐くような自己犠牲の形だった。ルールを破り、夢半ばで散っていった若き才能たちを無慈悲に切り捨てるたび、彼の心もまた人知れず削り取られていたのだ。
だからこそ、創設者・琴子が蘭へ宛てた、このむき出しの魂の言葉と極限の愛の美しさが、痛いほどに理解できてしまった。
「……なんて無垢な者たちだ。愛に溺れ、こんなにも愚かで……恐ろしいほど美しいものを遺し、それを掘り起こすとは」
誰もいない執務室の空気に、掠れた独り言が溶けていく。
台本を握りしめる氷室の視界が、不意に歪んだ。彼の冷徹な瞳から、堰を切ったように熱い雫が溢れ出し、原稿の端にポツリと落ちる。台本の素晴らしさに目頭が熱くなる。
数分間、氷室は目を閉じ、創設者たちが残した狂おしいほどの愛の熱量に静かに浸った。
やがて、彼はハンカチで乱暴に目元を拭い、再び銀縁眼鏡を掛け直した。
目を開けた時、その瞳には再び、極限の計算を弾き出す鋭い鷹の光が戻っていた。
(もし、あの二人が本当にファン投票で保守派の組織票を打ち破り、首位を獲ったとしたら……)
氷室の脳内で、冷酷なまでに緻密な数式が組み上げられていく。
百年の封印、禁断の愛、そして次期トップスターがキャリアを捨てて挑むダブル主演。この『幻の台本』を舞台に乗せれば、間違いなく劇會史上最高の伝説となり、空前絶後の利益を叩き出すことになる。
氷室は手元の内線電話を手に取り、最も信頼の置ける劇會の秘密裏のスタッフへとダイヤルを回した。
「……私だ。極秘で進めてほしい案件がある」
氷室は声を潜め、冷徹なトーンで指示を下す。
「今からそちらへ、特別な台本のデータを送る。……どこに転んでもいいように、万が一のために、至急で製本作業へ取り掛かってくれ」
電話を切った氷室は、分厚いブラインドの隙間から、帝都の街を見下ろした。
彼が冷酷な罠を仕掛けたのは事実だ。しかし今、氷室は心の奥底で、自分が仕掛けた強固なシステムを、ユリとユラの愛が打ち壊してくれることを僅かに期待している自分に気づいていた。
「見せてみろ、天海、八千草。お前たちの愛が、この私の計算を凌駕できるというのならな」
窓ガラスに映る冷徹なマネージャーの顔には、微かな、しかし確かな挑戦的な笑みが浮かんでいた。劇會の命運を懸けたファン投票の行方は、いよいよ誰にも予測できない熱狂の渦へと突入していくのだった。




