第26話 転向宣言
古びた和紙から漂う、圧倒的な時間の重みとただならぬ気配。
塔子は怪訝な顔をしながらも、テーブルに置かれた原稿の束を手に取った。
表紙に記されたタイトルを見て、彼女の細い眉がピクリと動く。
「『凍てつく星のシベリア~白樺の森の誓い~』……。華會を代表する悲劇の傑作ね。でも、これがどうかしたの?」
塔子はこの演目を過去に何度も観劇していた。極寒の地で引き裂かれる女性たちの悲恋。確かに名作だが、塔子の鋭い審美眼は、結末にいつも「拭いきれない靄」のような不完全さを感じていた。美しく纏まりすぎている。まるで、最も重要な芯の部分を意図的に隠しているかのような違和感だった。
「これはその続きです、読んでみてください。それが、創設者が本当に描きたかった……封印された真の結末です」
ユリの言葉に促され、塔子は原稿のページをめくった。
活字ではなく、震えるような筆致で書き殴られた生の原稿。そこには、塔子の知る悲劇の結末はなかった。過酷な冬を越え、奇跡的に生還した二人の女性が再会し、誰の目も気にせずに強く抱きしめ合う。性別による役割も、劇會での「雄飛」と「麗花」という立場すらも脱ぎ捨てた、むき出しの魂の結びつき。
塔子の目が文字を追うごとに、その顔からシニカルな余裕が完全に消え去っていった。
(……なんてこと。これほどの圧倒的な熱量、生々しい魂の叫びが、あの物語の裏に隠されていたというの……?)
続けて、蘭に宛てられたラブレターと、非エス三原則の撤廃推薦文に目を通す。塔子のジャーナリストとしての血が、そして元劇作家志望としての芸術を愛する魂が、激しく沸騰し始めていた。
「……創設者たちは、自分たちの狂おしいほどの愛を封印し、それを掟という名の盾にして劇會を守った。でも、それが百年経った今、あなたたちを縛る時代遅れの檻になっているということね」
塔子は震える手で原稿を置き、ユリを見つめた。
「はい。私は雄飛として、ユラを守り抜きたい。でも、今の古びたシステムの中では、彼女の本当の笑顔を守ることはできない。私たちの本当の芸術は表現できない……私たちは、自分たちの愛で、この檻を壊します」
ユリの鋭い目元に宿る、一切の逃げ場を断った強烈な覚悟。
塔子は静かにタバコの火を消すと、ふふっ、と低く笑い声を漏らし、やがてそれは大きな笑いへと変わった。
「あははっ! 傑作ね。上層部の操り人形だと思っていた看板役者が、まさか劇會の根幹を揺るがす特大の爆弾を抱えてやって来るなんて!」
塔子の瞳が、獲物を見つけた肉食獣のようにギラリと光る。
「いいわ。この本物の芸術と、あなたたちの命懸けの反逆……私が最強の共犯者として、世間に解き放ってあげる」
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純喫茶の奥の席で、二人の密議は熱を帯びていった。
「相手はあの氷室よ。生半可な出し方じゃ、印刷所ごと止められかねない。……上層部が絶対に手出しできないほどの、巨大なムーブメントを巻き起こすの」
塔子は手帳を広げ、猛烈な勢いでペンを走らせる。
「記事の柱は三つ。『創設者の幻の台本発見』『百年封印されていた時を超えたラブレター』、そして『創設者直筆の非エス三原則撤廃推薦文』。これを私の持っている全てのコネクションを使って、各メディアから一斉に爆撃するわ。保守派のファンは激怒して猛抗議するでしょうけど、ドラマを求める熱狂的なファンは『歴史的瞬間』として必ず食いつく。劇會の電話回線がパンクするほどの騒ぎになるわよ」
完璧な布陣だった。ジャーナリストとしての塔子の腕は、ユリの想像を遥かに超えて的確で恐ろしい。
だが、ユリはそこで真っ直ぐに塔子を見据え、静かに、しかし力強く首を振った。
「……いえ。それだけでは足りません。もう一つ、私自身の『最大の爆弾』を記事に付け加えてください」
「最大の爆弾?」
怪訝な顔をする塔子に、ユリは一言一句、噛み締めるように宣言した。
「『絶大な人気を誇る雄飛・天海ユリが、キャリアで初めて麗花に挑戦し、八千草ユラとのダブル主演を熱望している』……そう書いてください」
「なっ……!?」
百戦錬磨の塔子でさえ、その言葉には息を呑み、絶句した。
華會において、雄飛から麗花への転向は極めて異例だ。ましてや、絶大な人気を誇る次期トップスター候補のユリがそれを宣言するなど、劇會の伝統を真っ向から否定する自殺行為に等しい。
「本気なの……? そんなことを発表すれば、あなたの『雄飛』としてのキャリアは完全に終わる。ファンも劇會も、あなたを裏切り者として袋叩きにするわよ」
「構いません」
ユリの答えに、一切の迷いはなかった。
「幻の台本に描かれているのは、性別や役割のない『ひとりの人間』としての過酷な運命と愛です。私が雄飛という鎧を着たままでは、ユラとの真実の愛を、この台本の本当の価値を証明することはできない。……私は退路を断ちます。ひとりの女性として、ユラの隣に立つために」
その言葉を聞いた瞬間、塔子の全身に強烈な鳥肌が立った。
保身を捨て、自身のキャリアのすべてを懸けて愛を証明しようとする、この若き役者の恐ろしいほどの覚悟。これこそが、塔子が長年探し求めていた、何よりも美しく、何よりも熱い「本物の演劇」の幕開けだった。
「……ふふっ、あはははっ! 最高よ、天海ユリ! あんた、本当に深い愛を持つ役者バカね。狂ってるわ!」
塔子は歓喜に打ち震えながら、ユリに向けて不敵な笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「約束するわ。この記事を、華會の歴史を永遠に変える『最高の一撃』にしてやるってね」
ユリもまた、その手を力強く握り返した。
古い純喫茶の片隅で結ばれた、一人のジャーナリストと一人の役者の密約。
それは、百年の眠りについていた劇會の重い扉をこじ開け、新しい時代の熱狂と混沌を呼び覚ます、歴史的な共犯関係が成立した瞬間であった。




