第22話 託された武器
蘭は、二人の固く結ばれた手と、その瞳に宿る決して揺るがない決意を見つめ、静かに、そして深く頷いた。
「……そうやね。もう、十分に待ったんよ。時代は、とうに変わっとるまい」
蘭は車椅子の車輪を回し、客間の奥に鎮座する重厚な鉄の金庫の前に進み出た。そして、傍らの古い文机の引き出しを開け、桐箱の中から一本の黒ずんだ鉄の鍵を取り出した。
百年前、昭和の冷たい闇の中で、愛する琴子が血を吐くような思いで自らの愛を封じ込めた金庫。ガチャリ、と重い音を立てて鍵が回り、分厚い扉がゆっくりと開かれる。
中から取り出されたのは、色褪せ、端が黄ばんだ原稿用紙の束と、何通もの古い封筒だった。
「これは……」
息を呑むユリとユラを前に、蘭はその束を愛おしげに胸に抱いた。
蘭は震える手で、一番上にあった封筒の糊付けをそっと剥がした。百年の間、誰の目にも触れることのなかった便箋が、カサリと乾いた音を立てて開かれる。
「……琴子さんはね、普段は男勝りで破天荒じゃったけど、私に宛てた手紙では、まるで自由に空を飛び回る小鳥みたいに可愛らしかったまい」
蘭は愛おしそうに目を細め、かすれた声でその一節をゆっくりと読み上げた。
『今日もあなたの演舞をどんなに嬉しく拝見したか解りませんわ。眞實に夢のやうですわ。
私共で定めたあの冷たい掟をすり抜けて、蘭の香りがふはりと届いた時……羞かしさと、嬉しさの爲めに胸がワクワクして、顔が眞赤になりましたわ。
舞台の上で貴女を力強く抱きしめる度、本当はそのまま誰の目もない世界へ連れ去つてしまひたいと願つてしまふの――あゝ愛する蘭へ』
読み終えた蘭の瞳から、ポロリとひと雫の涙がこぼれ、古い便箋に小さな染みを作った。
「百年間、この日を待っとった。私たちが本当に残したかった愛の証を、託せる時を。琴子さんが、私への究極のラブレターとして書き上げてくれた『幻の台本』の後半部分。そして、あの人が私に宛ててくれた、たくさんの恋文よ」
蘭の震える指先が、変色した紙片に綴られた文字を優しくなぞる。そこには、女同士のむき出しの魂の結びつきと、現実世界では決して口にできなかった琴子からの狂おしいほどの愛が、百年の時を超えて鮮明に息づいていた。
『お前だけは生き延びろ。生き延びて、いつかこの鍵を開ける時代を見届けてくれ』
かつて別れ際にもらった琴子の祈りが、蘭の脳裏に蘇る。琴子からの変わらぬ愛の熱量を手のひらに感じ、蘭の深く刻まれた皺の奥から、静かに涙が滲んだ。
「……百年間、この日を待っとった。私たちが本当に残したかった愛の証を、託せる時を」
蘭は涙を拭うと、車椅子を文机へと戻し、筆と硯を引き寄せた。
迷いのない手つきで墨をすり、真新しい和紙に向かって一気に筆を走らせる。その背中には、かつて華ノ乙女ノ歌舞劇會を束ねていた、創設者としての気高い威厳が満ちていた。
ユリとユラは、和紙に踊るように綴られていく墨文字を見て、ハッと息を呑んだ。
「この字……」
「汐留寮の談話室に飾られている、『非エス三原則』の額縁の書と……全く同じ筆跡」
驚愕する二人に、蘭はふっと微笑んだ。
彼女が書き上げたのは、時代に合わない「非エス三原則」の撤廃を推奨し、劇會の新たな未来を若き乙女たちに託すという内容の書状だった。この達筆な文字こそが、間違いなく創設者の現在の考えであるという、何よりも強力な証明となる。
蘭は、墨が乾いたその撤廃推奨の書状と、幻の台本、そして琴子とのラブレターの束を一つにまとめ、ユリとユラへ向けて力強く差し出した。
「さあ、持っていきまい」
ユリが両手で恭しくそれを受け取ると、蘭は先ほどの厳かな雰囲気から一転して、悪戯っぽく、お茶目な笑顔を浮かべた。
「百年前の時代遅れのルールなんて、あんたたちの愛でぶっ壊してしまいなさい。この台本も、私の恋文も、あんたたちが有利になるように、自由に、好き勝手に使えばいいまい」
「蘭様……」
ユリとユラは、蘭のその底抜けの優しさと圧倒的な後押しに、深く、深く頭を下げた。手の中にある百年の歴史の重みが、これから劇會という巨大な組織に反逆するための、最強の武器へと変わった瞬間だった。
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ユリとユラが去った後の、静まり返った客間。
西日が差し込み、古い畳をオレンジ色に染め上げている。
蘭は一人、文机の前に車椅子を止め、壁に飾られた若き日の京本琴子の白黒写真を見上げていた。
袴姿で豪快に笑う琴子の瞳は、百年前と何も変わらない情熱を帯びたまま、蘭を真っ直ぐに見つめ返している。
蘭はそっと手を伸ばし、写真の入った額縁の縁を、愛おしむように撫でた。
「琴子さん。私たちが本当に望んだ未来がやって来たまい」
誰にも聞こえない、柔らかな呟きが部屋に溶けていく。
「あの子たちの目は、あの頃の私たちと同じように、純粋で、恐れを知らなくて……お互いのことを、心の底から愛しとった。私たちが血を流して築いたあの冷たい盾を、あの子たちの愛が、きっと美しい炎で燃やし尽くしてくれるんまい」
蘭の大きな瞳から、今日何度目か分からない涙がひと雫、静かに零れ落ちた。だが、その涙に悲しみや未練は一切なかった。
「あなたから託された呪いの鍵を、ようやく開けることができた。……もう少しだけ、待っていてね。あの子たちが新しい舞台で、私たちの愛を証明してくれる、その最高の瞬間を見届けるまで」
蘭は写真の琴子に向けて、少女の頃のような、純真で可憐な微笑みを向けた。
百十六年の長きにわたり、たった一人で背負い続けてきた歴史の重圧が、今、確かな希望へと変わり、蘭の心を温かく満たしていた。
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夕暮れの高松空港。
茜色に染まる空の下、出発ロビーの隅にある人目のつかない太い柱の陰で、天海ユリと八千草ユラは向かい合って立っていた。
ユリが東京へと帰るための搭乗時間が、すぐそこまで迫っている。
かつて東京の駅で引き裂かれた時は、絶望と悲壮感に満ちた別れだった。しかし、今の二人の表情は全く違っていた。蘭から託された百年の真実と、反逆のための強力な武器を胸に抱いた二人の間には、これから始まる戦いへの熱い闘志と、希望の光が満ち溢れている。
「今日は来てくれてありがとう。それに、貴重な体験もできた」
ユラが、弾むような声で明るく微笑んだ。その艶やかな黒髪が、夕暮れの光を受けて美しく輝いている。物理的な引き離しという最大の試練を乗り越え、彼女の瞳には恋に貪欲で主導権を握る気高さが完全に戻っていた。
「ああ。ホテルで過ごすより、よりユラと一つになれた気がする」
ユリもまた、涼しげな目元を優しく和ませ、力強く頷いた。雄飛としての不器用な葛藤は消え去り、愛するユラと共に新しい時代を切り拓くという、確固たる自信がその立ち姿に表れていた。
周囲の監視の目を警戒しつつも、二人の距離は磁石のように引き寄せられる。
ユラが一歩踏み出し、ユリの分厚いコートの胸元にそっと顔を埋めた。ユリもまた、周囲から死角になる位置で、大きな手でユラの華奢な背中を包み込み、力強く抱きしめ返す。
言葉はいらない。胸を重ね合わせ、互いの鼓動を確かめ合うだけで、二人の魂は完全に溶け合っていた。
そこに、別れの涙はない。
物理的な距離が再び二人を隔てようとも、百年の歴史を味方につけた今の二人にとって、それはもはや何の障害でもなかった。必ずこの手で劇會のルールを打ち破り、堂々と舞台の中央で愛を誓い合う。その希望の強さが、別れの寂しさを完全に凌駕していた。
「じゃあ、行ってくる。……東京で、反逆ののろしを上げる」
「ええ。私もさぬきで、次期トップスターの座を掴むために戦うわ。……愛してるわ、ユリ」
「俺もだ、ユラ」
体を離し、二人は清々しいほどの笑顔で視線を交わした。
搭乗ゲートへと向かうユリの背中を、ユラは誇らしげに見送る。
時代遅れの檻を壊し、真実の愛を証明するための命懸けの反逆劇が、ついに幕を開けようとしていた。




