第19話 究極のラブレター
時は流れ、時代は昭和初期へと突入していた。
華ノ乙女ノ歌舞劇會はかつての逆風を完全に跳ね返し、誰もが知る巨大な大衆演劇の頂点へと登り詰めていた。帝都の劇場は連日満員となり、日本中の少女たちが華會の舞台に立つことを夢見て、付属の藝塾の門を叩くようになっていた。
その盤石な成功の裏には、創設者である京本琴子と飯倉蘭が血を吐く思いで定めた「非エス三原則」の徹底があった。
契らず、溺れず、持ち込ませず。
この厳格な冷たい掟により、劇會内から私的な感情の持ち込みは徹底的に排除され、世間の邪推や悪意は完全に消え去っていた。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
琴子と蘭は、毎日同じ劇舎にいて、同じ空気を吸い、同じ舞台を作り上げているにもかかわらず、私生活において指先一つ触れ合うことすら許されなかった。廊下ですれ違う時でさえ、業務上の短い言葉を交わすだけで、無機質な視線を向けることしかできない。
愛する者に触れられない極限の抑圧。それがかえって、互いへの狂おしいほどの執着と恋慕を限界まで肥大化させていた。舞台上で雄飛と麗花という「役柄」の仮面を被った瞬間にだけ爆発させる凄まじい愛の交歓は、観客を圧倒し熱狂させたが、幕が下りた後の現実の孤独をより一層深める残酷な麻薬でもあった。
華やかな大正の熱気から一転、昭和の重い足音が聞こえるにつれ、二人の精神は静かに、しかし確実に限界へと近づいていた。
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ある凍てつくような冬の夜。
消灯時間を過ぎ、深い静寂に包まれた寮の廊下に、かすかな足音が響いた。
蘭の自室の扉が音もなく開き、暗闇の中に琴子が滑り込んできた。
「……琴子さん!?」
寝間着姿の蘭が息を呑み、目を見開いた。掟を破り、夜間に特定の者の部屋を訪れるなど、自らが定めた規律を根底から覆す行為である。
しかし、月の光に照らされた琴子の顔はひどく青ざめ、その大きな瞳には行き場のない渇望と絶望が渦巻いていた。
「蘭……もう、限界だ」
琴子は掠れた声で呟き、ふらつくような足取りで蘭へと歩み寄った。雄飛としての気高い威厳も、劇會を率いる創設者としての完璧な仮面も、そこにはなかった。ただ、愛する人のぬくもりを求めて彷徨う、一人の傷ついた女性の姿だった。
「私に、触れてくれ……。お前がいない世界が、こんなにも息苦しいなんて……」
琴子が両腕を伸ばし、蘭の華奢な身体を強く抱きしめようとした。
しかし、その瞬間。
「……いけませんっ!」
蘭は悲痛な叫び声を上げ、すんでのところで琴子の胸を両手で力強く押し返した。
突き放された琴子は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「蘭……?」
蘭の大きな瞳からは、止めどなく大粒の涙が溢れ出していた。蘭とて、琴子を狂おしいほどに求めている。今すぐその腕の中に飛び込み、互いの孤独を溶かし尽くしたい。しかし、彼女は震える唇を固く噛み締め、首を横に振った。
「私たちがここで結ばれてしまえば、すべてが終わります。掟は崩壊し、劇會を捨てるしかなくなってしまう。……あなたが見た夢を、私たちが自らの手で壊すことになるんです!」
その言葉は、鋭い刃となって琴子の胸を貫いた。
あの「非エス三原則」は、世間の悪意から劇會を守るための分厚い盾であった。しかしそれと同時に、お互いを好きになりすぎて破滅への道を突き進んでしまう自分たちの人生を狂わせないための、彼女たち自身への冷酷な「防波堤」でもあったのだ。
「私たちは、もう二度と、私生活で愛を囁き合ってはいけないのです。……お願いですから、お戻りください」
蘭は顔を覆い、嗚咽を漏らしながら琴子に背を向けた。
琴子は伸ばしかけた手を虚空で力なく握りしめ、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めた。
「……すまなかった」
琴子は血を吐くような思いでそれだけを告げ、部屋を後にした。
重い扉が閉まる。冷たい木の板を隔てて、琴子は廊下の壁に背を預け、蘭は扉にすがりつくようにして崩れ落ちた。分厚いストッパーに阻まれ、決して重なることのない二つの魂は、暗闇の中で声なき血の涙を流し続けるしかなかった。
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行き場のない愛と、自ら課した掟の呪縛。その息詰まるような苦しみを昇華させるため、琴子は狂ったように筆を走らせた。
食事も睡眠も削り、演出室にこもりきりになって原稿用紙に向かう。インクで汚れ、震える指先が紡ぎ出すのは、劇會がこれまで上演してきたような、雄飛と麗花による華やかなロマン劇ではなかった。
擬似的な男女の恋愛でもなく、守る側と守られる側という役割すらない。
ただの「ひとりの人間」として、女性同士のむき出しの魂の結びつきを描いた、極限の物語であった。
タイトルは『凍てつく星のシベリア~白樺の森の誓い~』。
極寒の収容所という、何もかもが奪われた過酷な環境が舞台。そこに収容された従軍看護婦と電話交換手という二人の女性が、物資も薬もない絶望の中で、互いの存在だけを頼りに命を繋ぎ止めようと抗う姿が描かれていた。
性別による役割など存在しない。ただ、凍えるような暗闇の中で、微かな希望の言葉を送り合い、魂の奥底で深く共鳴し合う。それはまさに、非エス三原則という冷たい掟の檻に閉じ込められながらも、決して心だけは離さないと誓い合った、琴子と蘭の姿そのものであった。
「私たちには、この舞台の上でしか真実の愛を証明できない……」
琴子は涙で原稿用紙を滲ませながら、結末に向けて一気に筆を走らせる。
シベリアから奇跡的に生還した二人の女性が、過酷な冬を越えて再会を果たし、誰の目も気にすることなく、万感の思いを込めて強く抱きしめ合うという結末。
それは、現実世界では永遠に叶うことのない願いを込め、自身の身を削って書き上げた、琴子から蘭への究極のラブレターでもあった。




