第18話 「非エス三原則」の誕生
数日後の深い夜。志度の劇舎の一室には、冷たく重い静寂が降り積もっていた。
机の上に広げられた大きな半紙に向かい、琴子は青ざめた顔で墨をすっていた。筆を握る彼女の大きな手は、かつてないほど激しく震えている。これから自分が書き記そうとしているものが、愛する者たちの心を縛り付ける残酷な呪いであることを、誰よりも理解していたからだ。
「……琴子さん」
背後から静かな声が響き、蘭の白く細い腕が、琴子の肩越しにそっと伸びてきた。蘭は、震える琴子の右手を、自身の両手で温かく、そして力強く包み込んだ。
「私に、半分背負わせてください。これは、私たちが私たちの世界を守るための、誇り高き盾なのですから」
蘭の囁きに、琴子は堪えきれずに嗚咽を漏らした。琴子の目から落ちた涙が、半紙に黒い染みを作る。二人は重なり合った手で筆を握り直し、ひと筆、ひと筆、自らの魂を切り刻むような思いで、その冷徹な文字を書き連ねていった。
『非エス三原則』
一、契らず。
二、溺れず。
三、持ち込ませず。
書き終えた凄惨な墨文字を見つめながら、二人は最後の口づけを交わした。それは、もはや二度と私生活で触れ合うことは許されないという、絶望と覚悟に満ちた別れの儀式でもあった。
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翌朝。全劇會員が、重苦しい空気の漂う講堂に集められていた。
演壇に立った琴子の顔には、いつもの破天荒で情熱的な笑みは一切ない。まるで能面のように感情を排した冷徹な声で、琴子は自ら書き上げた額縁を掲げ、新たな規律「非エス三原則」の制定を無慈悲に宣告した。
「女同士の不純な関係は、劇會の調和を乱す毒だ。今後、私生活において特定の者と恋愛関係になること、一対一の感情に溺れること、そして舞台の疑似恋愛を寮に持ち込むことを、固く禁ずる」
突然の残酷な掟の発表に、講堂は騒然となった。少女たちの間から悲鳴や戸惑いの声が上がる。純粋に互いを慕い合っていた下級生たちは、顔を見合わせてすすり泣きを始めた。
「静まりなさい!」
その悲痛な空気を一刀両断したのは、他でもない蘭の鋭い声だった。
蘭は琴子の隣に進み出ると、かつて見せたことのない氷のような視線で少女たちを射抜いた。
「私たちは、世間の邪推と偏見という嵐の中に立っているのです。この掟を守り、自らを律することのできない者に、神聖な舞台に立つ資格はありません。不満がある者は、今すぐこの劇會から去りなさい」
琴子の心がどれほど血を流しているかを誰よりも知っているからこそ、蘭は自ら進んで冷酷な執行人となり、覇道を突き進む修羅の片割れとしての役割を全うした。誰一人として反論を許さない、絶対的な「盾」が、劇會を完全に覆い尽くした瞬間だった。
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講堂での発表が終わった日の午後。
人気のない薄暗い渡り廊下の両端から、琴子と蘭が偶然歩み寄ってきた。
周囲には誰もいない。昨日までであれば、すれ違いざまに当然のように手を握り合い、視線を絡ませ、互いの体温を確かめ合っていた距離だ。
二人の距離が徐々に縮まる。琴子の手が、無意識のうちに蘭の華奢な指先を求めて微かに持ち上がった。蘭の大きな瞳もまた、切実な愛と渇望を帯びて琴子を見つめ返している。指と指が触れ合うまで、あとほんの数寸。
しかし、その手が結ばれることはなかった。
二人の脳裏に、講堂で泣き崩れていた少女たちの姿と、自分たちが書き殴ったあの真っ黒な墨文字がよぎる。
琴子は持ち上がりかけた手をギリッと強く握りしめ、自らの意志で強引に引き剥がした。蘭もまた、すっと視線を伏せ、着物の袖を固く握り込んで歩みを早める。
無言のまま、冷たい廊下ですれ違う二人。
大正の浪漫と情熱の裏で、社会の悪意から少女たちを守るための分厚い盾が完成し、それと同時に、琴子と蘭が生涯背負うことになる「呪われた檻」が、ここに重く、冷たく施錠されたのである。
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非エス三原則が制定されてから数週間後。新たに進出した帝都の劇場で、劇會の新たな公演の幕が上がった。
私生活において一切の接触を絶ち、厳しい監視の目をかいくぐることすら自らに禁じた琴子と蘭。彼女たちの精神は、愛する者に触れられない極限の飢餓状態にまで追い詰められていた。
しかし、それが劇會における「狂気」の始まりであった。
舞台の上で、琴子演じる雄飛と、蘭演じる麗花が対峙する。「役柄」という仮面を被った瞬間、私生活で何重にも押さえつけられていた二人の感情の堰が、轟音を立てて決壊した。
「お前を愛している……!この命が尽き果てようとも、絶対にお前を離しはしない!」
舞台の中央で、琴子が蘭の身体を骨が軋むほど強く抱きすくめる。
それは決して演技などではなかった。私生活で触れることの許されない最愛の肉体を、舞台という正当な理由のもとで貪り、狂おしいまでの執着を爆発させているのだ。
「私もです……!あなたと共に、この身が燃え尽きるまで!」
蘭もまた、琴子の背中に爪を立てるほどの力でしがみつき、激しい涙を流しながら絶叫した。
二人の全身から放たれる、恐ろしいほどの愛憎と熱量。それは観客に恐怖すら抱かせるほどの凄まじい迫力であった。客席は水を打ったような静寂に包まれ、やがて、誰かが発作的に立ち上がって拍手を送り始めたのを皮切りに、劇場全体が狂乱の渦へと叩き込まれた。
これこそが、華ノ乙女ノ歌舞劇會における「異常なまでの舞台の熱」の起源であった。
私生活を分厚い檻で縛り付けられた乙女たちが、舞台の上でのみ魂の解放を許され、本物の愛を燃焼させる。その血を吐くような悲壮なカタルシスが、これから百年もの長きにわたり、観客を熱狂させ続けることとなる。
舞台のまばゆい照明の下、誰にも咎められることなく、堂々と互いの顔に涙を擦り付け合いながら抱きしめ合う創設者の二人。
その姿は、痛ましいほどの美しさを放ちながら後世へと、確かに繋がっていくのであった。




