第17話 世間の悪意
初舞台の鮮烈な大成功から数ヶ月。京本琴子と飯倉蘭が立ち上げた「華ノ乙女ノ歌舞劇會」の熱狂は、香川の地だけに留まらなかった。
蘭の故郷である志度町を拠点に開催される定期公演は、回を重ねるごとに観客を増やしていった。その評判は瀬戸内海を越え、大阪、さらには帝都・東京へと瞬く間に広がっていく。
「四国の港町に、女たちだけで信じられないほど美しい夢を魅せる劇団がある」
そんな噂を聞きつけたモダンガールや文士たちが、わざわざ汽船や列車を乗り継いで、四国の片田舎まで大挙して押し寄せるようになっていた。劇場周辺は連日、遠方からの見物客で膨れ上がり、劇會は爆発的な規模で拡大を続けていた。
劇會の躍進に伴い、演出家としての才覚を研ぎ澄ませていく琴子と、劇會の屋台骨として演者たちを統率する蘭。二人の絆され合うような深い愛もまた、多忙を極める日々の裏側で、密かに、しかし誰にも止められないほど激しく燃え上がっていた。
「蘭、今日も見事な舞台だったわ。お前が麗花として中央に立つだけで、劇場の空気が一瞬でお前の色に染まる」
公演が終わった深夜、志度の劇舎の片隅にある控え室。琴子はボブヘアを揺らしながら、蘭の華奢な身体を後ろから愛おしげに抱きしめた。
蘭は艶やかな黒髪を琴子の頬に寄せ、心地よさそうに目を細める。
「それは、琴子さんの紡ぐ言葉が、私の魂を動かしているからです。……ああ、心地よい。こうしてあなたに抱きしめられている時だけが、張り詰めた体をもとに戻せる唯一の時間です」
蘭は振り返り、琴子の首元に細い腕を絡ませた。誰もいない部屋に、二人の熱い吐息が交錯する。琴子は蘭の潤んだ大きな瞳を見つめ、飢えた獣のようにその柔らかな唇を塞いだ。
深い、溺れるような口づけ。互いの舌を執拗に絡ませ合い、私生活における狂おしいほどの恋慕を確かめ合う。琴子の手が蘭の着物の帯に手をかけ、その温もりを貪るように引き寄せた。劇會の成功という最高のスパイスが、二人の逢瀬をより一層甘美で情熱的なものへと変えていた。
しかし、その爆発的な熱狂の影には、確実にどす黒い悪意が潜み始めていた。
男の庇護を受けず、女たちだけで大金を稼ぎ、世間の注目を浴びる。そんな新しい時代の象徴である彼女たちの存在は、古い家父長制や保守的な価値観に執着する男たちの社会にとって、極めて不愉快で目障りな異物でしかなかったのである。
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「女同士で集まって、怪しい不純異性交遊をしているんじゃないか」
ある日、帝都の低俗な新聞にそんな邪推に満ちたゴシップ記事が掲載された。言葉は刃となって劇會を襲った。劇中での情熱的な抱擁や、寮で寝食を共にする少女たちの生活が、男たちの歪んだ好奇心によって「社会の調和を乱す破廉恥な行為」として書き立てられたのだ。
噂は瞬く間に広がり、劇會は存続の危機に直面する。昨日まで称賛の言葉を送っていた地元の名士やパトロンたちの態度は一変した。
「不純な噂のある劇団に出資などできるか」
「劇場を引き払え」
冷酷な圧力が、琴子と蘭の元へと容赦なく押し寄せた。
志度の一流料亭。重苦しい空気が立ち込める座敷に、琴子と蘭は並んで呼び出されていた。
上座に座る初老の出資者たちは、冷ややかで汚らわしいものを見るような目で二人を見下している。
「京本、飯倉。お前たちが何をしようが勝手だが、世間に顔向けできぬような醜聞を流すとは何事だ。女同士の不純な結びつきなど、言語道断。劇會を今すぐ解散させるか、さもなくばお前たち二人が全ての責任を取って身を引き、男に劇會を譲りなさい」
理不尽な偏見の言葉を浴びせられ、琴子の体は怒りで小刻みに震えた。自慢の男装の袴を握りしめる拳は、爪が皮膚に食い込んで血が滲みそうだった。
今すぐ席を立ち、この愚かな男たちの顔に泥を塗ってやりたい。そんな激しい衝動が琴子の脳裏を駆け巡る。
しかし、その時、隣に座る蘭が、畳の陰でそっと琴子の羽織の袖を引いた。
蘭の細い指先は冷たく震えていた。だが、その大きな瞳には、ここで感情に任せて破滅してはならないという、悲痛なまでの理性が宿っていた。
もし今、ここで言い返してしまえば、劇會は完全に潰される。自分たちを信じて家を飛び出し、舞台の上にようやく見つけた「自分たちの居場所」を守るために血を吐くような努力を重ねてきた仲間である少女たちの未来が、一瞬ですべて奪われてしまうのだ。
「……皆様のお言葉、重く受け止めます。劇會の潔白と調和を証明するための策を講じますゆえ、どうか、今しばらくのご猶予を」
琴子は喉の奥まで出かかった怒号を血を吐く思いで飲み込み、深く、深く畳に頭を擦り付けた。蘭もまた、悔し涙を床に落としながら、琴子と並んで深く一礼した。男社会の圧倒的な権力と偏見の前に、若き二人の天才は、ただ屈辱に耐えて平伏するしかなかった。
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料亭からの帰り道。激しい雨が降る志度の夜の町を、二人は一言も交わさずに歩き、静まり返った劇舎の奥にある準備室へと駆け込んだ。
扉を閉めた瞬間、琴子は糸が切れたように床に崩れ落ちた。
「ああ……あああ……っ!」
声を上げて男のように泣きじゃくる琴子の姿は、昼間の毅然とした演出家のものではなかった。
「悔しい……悔しいわ、蘭! なぜ私たちが、あの男たちに頭を下げなければならないの! 私たちはただ、本物の芸術を、私たちの居場所を創りたいだけなのに!」
琴子は激しく頭を振り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、自身の不甲斐なさと現実の壁の高さに絶望していた。自分たちの純粋な愛が、そして劇會を想う情熱が、結果として劇會そのものを焼き尽くす巨大な火種になってしまったという残酷な事実に、心がズタズタに引き裂かれていたのだ。
蘭はそんな琴子の前に膝をつき、震える手でその激しい肩を優しく抱きとめた。
「琴子さん、泣かないで……。あなたが血を流す姿を見るのが、私は一番辛い」
蘭の大きな瞳からも、堪えきれない大粒の涙が溢れ出し、琴子の濡れた髪を濡らしていく。だが、蘭の腕には、琴子を支えようとする確かな強さがあった。
「あの男たちの言う通り、私たちの関係が表に出れば、劇會は終わりを迎えます。夢を信じてついてきてくれたあの子たちも、また暗闇に突き落とされるでしょう。……だったら、私たちがその火種を消すしかありません」
蘭は琴子の顔を両手で包み込み、その涙を親指で拭った。
「どんな決断を下そうと、私はあなたに従います。たとえそれが、どれほど冷酷で、どれほど私たちの心を切り裂くものであっても。私はあなたと心を一にする者として、劇會を、そしてあなたの夢を命懸けで守り抜きます。だから……一人で絶望しないで、琴子さん」
蘭の包み込むような深い愛情と、一切の迷いがない力強い言葉。それは、暗闇の底にいた琴子の魂に、冷徹なまでの新たな覚悟を植え付ける絶対的な光であった。琴子は蘭の身体を壊れるほど強く抱きしめ返し、二人は絶望の夜の中で、劇會を守るためのあまりにも残酷な「防壁」を築く決意を固めるのだった。




