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非エス三原則のハットを破り、フラチに恋慕るユリとユラ ~大正から令和へ受け継がれる百年の掟を打ち破らんと、二人の乙女が愛を誓う~  作者: 団田図


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第15話 大正の記憶

 百十六歳という途方もない歳月を生き抜いてきた飯倉蘭の自宅は、大正の浪漫をそのまま封じ込めたかのような静謐せいひつな空気に包まれていた。

 案内された客間には、古びたポスターや色褪せた台本、そして一葉の白黒写真が大切に飾られている。写真の中で豪快に笑っているのは、意志の強い男装の雄飛——もう一人の創設者である京本琴子だった。


「よく来てくれたな。天海ユリさんに、八千草ユラさん」


 車椅子に座る蘭は、深く刻まれた皺の奥で、穏やかながらも知性に満ちた瞳を細めた。その視線は、ユリとユラが衣服の陰で固く、まるで互いの命綱であるかのように握り合っている手に注がれていた。

 蘭の網膜に、目の前の若い二人の姿と、かつて自分が魂を焦がして共に劇會を守り抜いた琴子との記憶が鮮明に重なり合う。


「琴子はここ、琴平ことひらの生まれでな。私は海側の志度しどの出身じゃった。全く違う場所で育った二人が出会い、共に夢を見た。……あんたたちが今、どれほどの重圧と戦い、どれほど深く愛し合っているか、私には痛いほどに分かるんよ」


 蘭の温かい言葉に、ユリとユラは弾かれたように顔を見合わせた。掟に縛られ、誰にも祝福されることのない秘密の恋。それを、百年の歴史を築いた創設者自身が、慈しむように肯定してくれたのだ。


「これは、誰にも語ってこなかった本当の歴史まい。あんたたちを縛る『非エス三原則』が、なぜ生まれたんか。……私たちの、始まりの話をしまいか」


 蘭が静かに目を閉じると、客間に漂う古い紙と墨の香りが、一気に時間を巻き戻していく。

 百年の時を超え、物語は熱気と浪漫に満ちた大正時代へとさかのぼっていった。



 +++


 ++


 +



 時は一九二六年、大正十五年。


 西洋の文化と日本の伝統が入り交じり、新しい時代の息吹が帝都から全国へと波及していた頃。


 琴平町で生まれ育った十八歳の京本琴子は、女だてらにはかま穿き、ショートボブの髪を風に揺らす破天荒なカリスマ性を放っていた。一方、志度町(現さぬき市)からやってきた十六歳の飯倉蘭は、艶やかな黒髪をハーフアップに結い、和服に西洋のレースをあしらった「大正ロマン」の装いを楚々《そそ》として着こなす、聡明で美しい少女だった。

 運命に導かれるように日本最古の芝居小屋である金丸座(旧金毘羅大芝居)で出会った二人は、互いの内に秘められた尋常ではない演劇への情熱を即座に見抜き、強烈に惹かれ合った。


「女だけの劇會を創る。男が描く理想の女なんかじゃない、私たちが、私たちの足で立ち、自分たちの居場所を舞台の上に創り上げるのよ!」


 琴子のその途方もない夢物語に、蘭は生涯を懸けて付き従うことを決意した。

 しかし、夢を形にするには莫大な資金が必要だ。二人は連れ立って、地元の名士やパトロンとなり得る権力者たちの元へ直談判に赴いた。


 料亭の広い座敷。上座で紫煙をくゆらせる初老の男たちは、目の前に座る若い小娘二人を、嘲笑を浮かべて見下していた。


「女だけで芝居じゃと? しかも男の役まで女がやるというのか。おなごは大人しく良妻賢母になればよいものを、ふざけたお遊びにも程がある」


 男たちの見下すような言葉に、琴子は一切怯むことなく、バンッと扇子で畳を叩いた。


「お遊びではありません! 今の時代、女も男も関係なく、大衆は新しい夢を求めている。私たちが魅せるのは、これまでの古臭い歌舞伎や活動写真とは全く違う、誰も見たことのない圧倒的な浪漫劇です。出資していただければ、必ずや想像の十倍、いや百倍の利益をもたらしてみせましょう」


 琴子の放つ、燃え盛る炎のようなオーラに男たちが気圧けおされる。すかさず、蘭が懐から分厚い企画書を取り出し、畳の上に広げた。


「琴子さんの才覚は私が保証いたします。興行の予算立て、劇場の確保、女学生を対象とした宣伝計画。すべてここに算段がついております。先見の明がおありの皆様ならば、この『華ノ乙女ノ歌舞劇會』がどれほどの価値を生むか、お分かりになるはずです」


 情熱で男社会の偏見を正面から打ち砕く琴子と、冷徹なまでの知性と論理で逃げ道を塞ぐ蘭。二人の若き天才が放つカリスマ性は、酸いも甘いも噛み分けた大人たちをも完全に圧倒し、ついに多額の支援を勝ち取ってみせたのだった。


 +++


 資金を得た二人は、さっそく学校の古い体育館を借り受け、同志となる少女たちを集めた。

 琴子が猛烈な勢いで台本を書き上げ、蘭がその演出と演技指導を支える。連日連夜、床板が擦り切れるほどの厳しい稽古が続いた。


 初舞台を数日後に控えた、ある深夜のこと。

 他の劇會員たちが帰り、静まり返った体育館には、琴子と蘭の二人だけが残されていた。

 高い窓から差し込む青白い月光が、板張りの床をぼんやりと照らしている。台本の手直しを終えた琴子が、疲労の色を滲ませながら床に仰向けに倒れ込んだ。


「……あぁ、疲れた。でも、最高に気分がいいわ」

「お疲れ様、琴子さん。少しは休まないと、本番で倒れてしまいますよ」


 蘭は優しく微笑みながら近づき、琴子の傍らに膝をついた。琴子は首だけを動かして蘭を見上げ、その大きな手を伸ばして、蘭の滑らかな頬にそっと触れた。


「蘭がいなければ、ここまで来られなかった。……お前は、私の半身だ」

「琴子さん……」


 琴子の親指が、蘭の唇をなぞる。その瞬間、二人の間に漂っていた「共に夢を追う同志」という空気が、一気に甘く、そして危険な熱を帯びたものへと変貌した。

 当時の女学生の間で流行していた「エス」と呼ばれる、少女同士の清らかな姉妹のような友愛。そんな生ぬるい言葉では、到底表現しきれないほどの狂おしい情動が、二人の魂を焦がしていた。


 琴子が上体を起こし、蘭の華奢な肩を強く引き寄せる。蘭は抵抗するどころか、自ら琴子の首元に両腕を回し、すがりつくようにその熱い胸に飛び込んだ。

 月明かりの下、二人の影が一つに重なり合う。


「んっ……、……ぁ」


 琴子の力強い唇が、蘭の唇を貪るように塞いだ。蘭の喉の奥から、甘く艶かしい吐息が漏れる。互いの体温を確かめ合うように、深く、息継ぎすら忘れて舌を絡ませる。

 琴子の手が蘭の背中を這い、着物の布地をきつく握りしめる。蘭もまた、琴子の短い髪に指を絡ませ、さらに深い口づけをねだった。


「愛しているわ、蘭……。舞台も、お前も、私の全てだ」

「私もです……。琴子さんのためなら、この身が燃え尽きても構わない」


 二人だけの体育館に、生々しい水音と切実な吐息が響き渡る。

 袴に着くシワなど見向きもせず、互いを求め合うその熱量は、あまりにも純粋で、だからこそ恐ろしいほどの破滅的な引力を持っていた。もしこの愛に完全に溺れてしまえば、自分たちは劇會ごと全てを焼き尽くしてしまうかもしれない。

 唇を重ねながら、琴子と蘭はその危険性を心のどこかで痛いほどに自覚していた。それでもなお、決してこの手を離すことはできない。大正の夜の闇の中で、二人の天才は底知れぬ愛の渦へと真っ逆さまに落ちていくのだった。

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