第14話 奇跡の再会
さぬき市の海岸線にひっそりと佇む、小さな喫茶店。窓の外には、優しくきらめく瀬戸内海が広がっていた。東京の喧騒とは程遠い、穏やかで、だからこそどこか寂しさを誘う海の青。
八千草ユラは、窓際の席で一人、冷めかけた紅茶のカップを見つめていた。今日は待ちに待った劇會の休日。東京とさぬきに物理的に引き裂かれてからというもの、ユラの心を掻き乱していたのは、天海ユリへの狂おしいほどの恋慕と、触れ合えないことへの強い飢餓感だった。スマートフォンの画面を見つめる大きな瞳に、切ない影が落ちる。
その時、手元で端末が小さく震え、待ち望んだ名前が表示された。ユラは弾かれたように通話ボタンを押し、耳に当てる。
「ユリ……!」
『ユラ、俺だ。わるい、遅くなった』
受話器の向こうから聞こえる、愛おしいユリの低い声。その響きだけで、ユラの胸の奥がキュッと締め付けられた。
「いいのよ。でも、ずっと待ってたわ。……ユリ、そっちはどう?東京の舞台、無理してない?」
『ああ、大丈夫だ。それより、ユラのほうこそ、さぬきでの生活はどうだ?』
ユリの不器用で優しい問いかけに、ユラは張り詰めていた気丈な仮面が、自らの中で静かに剥がれ落ちていくのを感じた。深い愛情と大胆な行動力を持ち、普段はどんな逆境にも折れずに戦っているユラだったが、最愛の人の声を前にして、胸の奥に溜め込んでいた寂しさが堰を切ったように溢れ出した。
「寂しいわ……すごく寂しい。毎日、新しい組で麗花として笑っていても、隣にユリがいないだけで、世界が歪んで見えてしまうの。画面越しに顔を見るだけじゃ、声を聞くだけじゃ、全然足りない。ユリのあの大きな手に触れたい、私を壊れるくらい強く抱きしめてくれた、あの腕の熱を感じたいの……」
受話器を握る指先に力がこもる。涙で潤んだユラの瞳から、一筋の雫が頬を伝って落ちた。私生活において特定の団員と恋愛関係にならないという冷たい檻の中にいながらも、溺れるように互いを求め合ったあの衣装部屋やベランダでの記憶が、ユラの身体を内側から激しく焦がしていく。
『ユラ……』
ユリの声が、心なしか近く、優しく響いた。
『今、どこにいる?』
「海が見える、いつもの喫茶店よ。……どうしたの、急に」
『そうか。じゃあ、ゆっくり振り返ってみてくれないか』
「え……?」
ユラは耳を疑った。何を言われているのか分からず、弾かれたように顔を上げ、ゆっくりと椅子の背もたれ越しに振り返る。
喫茶店の入り口、カランカランと静かな鈴の音を響かせてそこに立っていたのは、目深に帽子を被り、息を微かに弾ませた天海ユリ、その人だった。
「ユリ……っ!?」
ユラは驚きのあまり、薄化粧であったことを忘れてサングラスを外して立ち上がった。いるはずのない、東京にいるはずの恋人が、目の前に立っている。ユリは帽子を少し上げ、涼しげな目元に万感の愛おしさを湛えて、優しく微笑んでいた。
「黙って来るなんてひどいわ! ユリのくせに!」
ユラは感情を爆発させるように叫んだ。その言葉は、勝手にサプライズを仕掛けた不器用な恋人への、愛に満ちた精一杯の抗議だった。しかし、紡がれた刺々しい言葉とは裏腹に、ユラの身体は本能のままに動いていた。椅子を蹴立てるような勢いで駆け寄り、ユリの広い胸の中へと躊躇うことなく飛び込んだのだ。
「ユラ……!」
ユラは両腕をユリの首筋にきつく巻き付け、折れそうなほど強くその身体を抱きしめた。言葉にならない愛の衝動が、ユラの全身から放たれる。ユリもまた、実直で真面目な顔を僅かに赤らめながらも、周囲の目も忘れてユラの細い腰を力強く引き寄せ、その華奢な肉体を自身の腕の中に完全に閉じ込めた。
数週間ぶりの、本物のぬくもり。画面越しでは決して伝わらなかった、お互いの生々しい体温と心臓の鼓動が、重なり合った胸を通して激しく響き合う。
「本当にひどい人……。でも、お仕置きは後でたっぷりしてあげる」
ユラはユリの胸に顔を埋めたまま、熱い吐息と共に囁いた。その大きな瞳からは、嬉しさと愛おしさの混じった涙が次々と溢れ、ユリの上着の生地を濡らしていく。
「すまない、驚かせたくて……。お前から聞いていたお気に入りの喫茶店にいるだろうと。……俺もお前に会いたくて、もう限界だった」
ユリはユラの艶やかな黒髪にそっと触れ、その愛おしい頭を優しく撫でた。雄飛としての重い鎧を今は少しだけ脱ぎ捨て、ただ一人の女性として最愛の者を抱きしめるユリの瞳には、二度とこの手を離さないという強い決意が宿っていた。喫茶店の片隅で、二人は互いの存在を貪るように確かめ合い、深く、濃密な愛の時間を紡ぎ直すのだった。
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奇跡の再会を果たし、互いのぬくもりで胸を満たした二人は、さぬき市から少し離れた琴平町へと向かっていた。
電車を乗り継ぎ、並んで歩く道すがら、ユリとユラの手は、誰の目にも触れないよう衣服の陰で固く結ばれていた。指の隙間を埋めるように深く絡み合う恋人たちの指先からは、離れていた時間を埋めるかのような強い執着が伝わってくる。
「まさか、重村先生がそんな提案をしてくれるなんてね」
ユラが隣を歩くユリを見上げ、嬉しそうに微笑んだ。厳格な寮母である静江が、ユリの類まれな才能を見かねて、創設者である飯倉蘭への紹介状を託してくれたという事実は、ユラにとっても大きな希望の光だった。
「ああ。先生も、かつてルールを破って去っていった若手たちの悲劇を、俺たちに繰り返させたくないと思ってくれてのことだ。だからこそ、創設者の話を聞くべきだと」
ユリが真剣な表情で頷く。この百年の掟の裏にある真実。それが、自分たちの未来を切り拓くための鍵になるかもしれない。
やがて二人は、琴平町の静かな住宅街の奥に佇む、古風で上品な民家の前に辿り着いた。ここは、すでにこの世を去ったもう一人の創設者、京本琴子が眠る地でもある。生い茂る緑の合間に建つ家屋は、大正の浪漫をどこか残したような、厳かで温かみのある雰囲気を纏っていた。
ユリが緊張で微かに震える手で門扉を押し、二人は玄関へと進む。重厚な木製の扉をノックしようとしたその時、内側から静かに扉が開いた。
そこに佇んでいたのは、車椅子に乗った一人の老婦人だった。飯倉蘭。百十六歳という長い歳月を生きてきた劇會の創設者の片割れ。その顔には深く無数の皺が刻まれていたが、衣服は上品に整えられ、背筋はすっと伸びていた。そして何よりも、眼鏡の奥にある瞳は、濁るどころか、今も知性と瑞々《みずみず》しいまでの情熱の輝きを失ってはいなかった。
蘭の視線が、真っ直ぐにユリとユラを捉える。その刹那、蘭の瞳に、かつて激動の時代を共に駆け抜け、魂を燃やし尽くした最愛の親友であり恋人であった琴子の面影が重なったかのように、微かな揺らぎが生じた。
「おいでまい」
蘭の声は、百十六歳とは思えないほど穏やかで、しかし凛とした強さを持っていた。彼女は二人の固く結ばれた手や、互いを守ろうとするかのように寄り添う立ち姿を優しく見つめ、すべてを察したように細い目をさらに細めた。
「静江ちゃんから話は聞いてるけん。さぁ、こっちへきまい」
蘭は車椅子を少し引き、二人を温かく家の中へと招き入れた。開かれた扉の向こうからは、古い紙や墨の香りと共に、百年の歴史が紡いできた重厚な空気の波が漂ってくる。
ユリとユラは、互いの手のひらに込める力をさらに強めながら、蘭の自宅へと踏み入るのだった。




