第12話 画面越しの愛
深夜三時。冷え切った風が容赦なく吹き抜ける汐留寮の非常階段。
天海ユリは分厚いコートの襟を立て、周囲の暗闇に鋭い目を配りながら、手元のスマートフォンを祈るように握りしめていた。
鷹の目を持つ厳格な寮母、重村静江の夜間見回りの足音が完全に遠ざかり、安全が確保されたほんの数分間。それだけが、今の二人に許された奇跡の逢瀬の時間だった。
着信を知らせる微かな光が、ユリの掌の中で点滅する。震える指で通話ボタンを押すと、暗い画面がパッと明るくなり、愛してやまないその人の顔が鮮明に映し出された。
「ユリ……」
画面越しに響く、甘く艶やかな八千草ユラの声。背後の景色から察するに、彼女もまた監視の目を盗んで、さぬき寮の屋上にいるのだろう。冷たい夜風に揺れる艶やかな黒髪と、画面の向こうから真っ直ぐにユリを見つめる強い光を宿した眼差しがそこにあった。
「ユラ……っ」
顔を見た瞬間、ユリの喉の奥がキュッと鳴った。どんなに暗号で励まされ、生気を取り戻していたとしても、やはり生身で動く彼女の姿を見る破壊力は凄まじかった。
触れたい。その長い髪を撫で、細い腰を引き寄せ、今すぐきつく抱きしめたい。叶わない渇望が痛いほどに胸を締め付け、ユリの涼しげな目元が微かに歪む。
「ふふ、そんな泣きそうな顔しないで。……でも、私の前でだけ見せてくれるその不器用なところも、たまらなく愛おしいわ」
無理にでも笑顔でいなければ泣き出してしまいそうなユラは、画面越しにスッと白く細い指を伸ばした。カメラのレンズを愛おしげに撫でるその艶めかしい動きは、まるでユリの頬に直接触れているかのようだった。
ユラから放たれる圧倒的な愛の引力に抗えず、ユリもまた吸い寄せられるように画面へ顔を近づけ、冷たいガラス越しに、そっと自身の唇を寄せた。
「……すまない。俺は、お前がいないと本当に惨めで、駄目になりそうだった」
「いいえ、ユリは強いわ。舞台の上で誰よりも格好良く輝くあなたが、私は世界で一番好きよ。離れていても、私の魂はいつもあなたの隣で踊っている。だから、一人で絶望なんてしないで」
ユラの包み込むような深い愛情と、一切の迷いがない力強い言葉。それは、ユリを縛り付けていた無力感という鎖を完全に断ち切る絶対的な光だった。
「……ああ。もう二度と絶望しない。お前が帰ってくるその日まで、俺は最高の雄飛として、この舞台を守り抜いてみせる」
ユリが熱を帯びた声で誓うと、ユラは満足げに目を細め、最高に美しい微笑みを浮かべた。
画面越しの、触れることすら叶わない数分間の逢瀬。しかし、その短い時間に交わした視線と熱情は、どんな直接的な抱擁よりも深く、二人の魂を強固に結びつけたのだった。
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そして迎えた、現代劇『シークレット・コード~画面越しの君へ~』の千秋楽。
銀座華劇場の舞台上は、炎上騒動によって全てを失いかけ、深い絶望の淵に立たされるストリートダンサーの痛切な孤独に支配されていた。
冷たいブルーのピンスポットライトが、舞台の中央で崩れ落ちるように膝をつくユリを照らし出す。そこへ、静かな足音と共に一人の人物が現れる。ネット空間の暗号だけで深く共鳴し合ってきた、厳格な音楽一家のピアニストだ。
「……お前が、あのコードの主なのか」
ユリがゆっくりと顔を上げる。目の前に立つのは、麗花を務める先輩だ。しかし、ユリの瞳には、遥か遠くのさぬきで戦い続けるユラの幻影が鮮明に重なっていた。
ピアニストが静かにグランドピアノの前に座り、最初の和音を響かせる。
それは、言葉を奪われた二人が交わす、魂のセッションの始まりだった。
台詞は一切ない。ピアノの旋律に合わせて、ユリ演じるダンサーがゆっくりと立ち上がり、踊り始める。最初は戸惑い、傷を庇うようなステップが、やがて相手の音色に導かれるように、激しく、情熱的な躍動へと変わっていく。
(俺はお前を感じている。この指先から、ステップの裏側から、お前の声が聞こえる)
ユリのしなやかな手足が空を切り、舞台空間を完全に支配していく。前回の演目で見せたような、自身を引き裂く絶望の暴走ではない。顔を隠して生きてきたダンサーが、初めて素顔を晒して現れたピアニストに魂を救済されるという胸を打つクライマックス。
ユリの踊りは、離れ離れになっても決して切れることのない「二人だけの秘密のコード」の強さを、全身全霊で証明していた。
ステップを踏むたびに、深夜の非常階段で画面越しに交わした、ユラからの圧倒的な愛がユリの身体中を駆け巡る。冷たい監視社会の目も、理不尽な非エス三原則の掟も、巨大なビジネスの論理も、今のユリの放つ光を奪うことは決してできない。
二人のセッションが最高潮に達し、ダンサーとピアニストが舞台の中央で力強く見つめ合い、ピタリと動きを止める。
互いの魂が完全に溶け合い、究極の救済を果たしたその瞬間、客席からは割れんばかりの拍手と、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
喝采の渦の中で、ユリは分厚い衣装の胸元に手を当て、そっと目を閉じた。
まぶたの裏には、さぬきで同じように喝采を浴びているであろうユラの誇り高い笑顔が浮かんでいる。物理的な距離という最大の壁を逆手にとり、精神的な結びつきをより一層深くした二人の絆は、もはや誰にも壊せない鋼のような強さを持って、次なる反逆の時を静かに待ち受けていた。




