8.ブランのシチュー
「それじゃあ、ご飯にしながら話を聞こうかね。精霊様の食事というのは、一体どういったものがいいのかな?」
「あ、僕のことはブランって呼んで! リセがつけてくれたんだ。美味しそうで、とっても気に入ってるんだよ」
そこまで元気に言った後、ブランは急にもじもじし始めると、上目遣いで控えめにお願いした。
「ごはんは……できたら、シチューがいいなぁ……」
「はっはっは、よかった。それなら期待に応えられますぞ!」
おじいちゃんは快活に笑って胸を張った。どうやらポトフを作りかけていたようだが、おじいちゃんの腕にかかれば、メニューの変更など造作もないことのようだった。
おじいちゃんが食事の仕上げのためにキッチンへ向かうと、リセも続いて立ち上がる。
「ミートパイも渡さないと!私も少し手伝ってくるね」
リセの姿が見えなくなったところで、ブランは静かに部屋を見渡した。
「僕も、もう一仕事。」
独り言のようにそうつぶやくと、ブランはふらふらと部屋の隅、影の濃い場所へと浮き上がった。
その小さな体から、銀色の燐光がさらさらと溢れ出し、部屋の境界線へと溶け込んでいく。
先ほど男の子を寝かせた部屋だけでなく、この家全体を包み込むように。
外の冷たい追跡者たちからリセとこの家を守るため、ブランの魔力は静かに、けれど強固な結界となって広がっていった。
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男の子目線になります。
夢を見ていた。
背後から、底知れない黒い闇が迫りくるのを感じる。その「闇」に触れられた瞬間、全身の魔力を根こそぎ奪われるような恐怖に襲われた。
すんでのところで、僕の意志とは無関係に強力な守護魔法が発動する。
「……様! お逃げください!」
護衛騎士たちの叫び声が響く。二人の騎士のうち一人が敵を食い止め、もう一人が必死に転移魔法を唱えていた。
「申し訳ありません、私の力では……お一人を転移させるのが限界です。どうか、どうか生き延びて……!」
その叫びを最後に、世界が白く弾けた。
(……ああ、なんて嫌な夢なんだ)
重い瞼の裏側で、不吉な記憶を振り払おうともがく。
だが、その時。鼻をくすぐったのは、冷たい死の気配ではなく――とろけるように温かくて、甘い、幸せな匂いだった。
「……どこだ、ここは」
震える手で自分の首筋をなぞる。そこにはまだ、「契約の印」が刻まれていた。感触を確かめ、生き延びたことに安堵する。
見回せば、そこはこぢんまりとした、けれど温かな部屋だった。壁一面を埋め尽くす古びた本。その光景に、かつて遊びに行った大好きな叔父さんの家を思い出し、胸の奥がちくりと痛んだ。
ふいに、扉の向こうから楽しげな話し声が漏れ聞こえてくる。
「精霊様、そんなに食べたらお腹を壊しますよ!」
「大丈夫、ずーっと食べてなかったんだから! おかわり!」
(精霊様……?)
自分の首にある契約も、同じく精霊とのものだ。だが、それはもっと厳格で、冷徹なまでの威圧感を放つ存在だった。外にいるのは、そんな「契約」とは無縁の、陽気な何かなのだろうか。
顔を顰め、意識を失う寸前に声をかけてきた、あの赤毛の女の子を思い出す。
あの時、転移直後でも「守護魔法」が発動していたはずだ。あの子が僕に触れられたということは、少なくとも僕に対して一切の害意がなかったという証拠だ。
……あの子は、どうやって僕をここまで運んだんだろう?
横たわったまま、僕はそっと目を閉じて自分の中の魔力を確認する。眠ったおかげか、枯渇していた魔力がわずかに底から湧き上がって来ているのを感じた。
「リセ、このミートパイ凄いね!幸せの味がするよ。もっと無いの?あれ?こっちのシチューも食べていい?」
「あっ。ブラン、そっちのお皿はダメ。あの子の分よ」
女の子の声が聞こえた後、足音が近づいてきた。とっさに身を固くして寝返りをうつ。カチャリと小さな音を立てて、扉が開いた。
暗い部屋の中に、廊下からの温かな明かりが細く差し込んだ。
「……まだ、眠ってるわね」
小さな、独り言のような声。
枕元まで近づいてきた彼女から、先ほどよりもずっと濃い、甘いシチューの湯気の匂いが漂ってきた。
今はまだ魔力の回復も完全ではない。相手の出方を探るためにも、このまま「眠ったふり」をしていようと、僕は必死に呼吸を整えていた。
――ぐうぅぅぅ……。
静まり返った部屋に、情けないほど大きな音が響き渡る。
すると、少し笑いを含んだ明るい声が、僕の耳をくすぐった。
「あら? もしかして、起きてるの?体調はどう?」
図星を突かれ、瞼の裏が熱くなるのを感じる。観念してゆっくりと目を開けると、そこには湯気の立つボウルを抱えた少女が立っていた。
「精霊のブランがね、全部食べちゃう勢いだったから……あなたの分を確保しておいたの。おじいちゃんの自慢の一品よ。今日は特別、美味しいんだから!」
重い身体をゆっくりと起こすと、湯気の立つトレーをそっと手渡された。
「食べられそう?食べられるなら、食べて。元気が出るわよ」
「……ありがとう。危ないところを助けてもらったようで、……礼を言う。ありがとう」
震える手でスプーンを握り、真っ直ぐに彼女を見つめた。本名を明かすべきか一瞬迷ったが、今はまだ正体を隠すべきだと判断し、短く偽名を告げる。
「僕は、ジャンだ」
「ジャンね、覚えたわ! 私はリリスティアよ。皆からはリセって呼ばれてるの。おじいちゃんはこの街で修復師をやっていて、私はその見習い。……今日、初めて一人でスクロールを直した、すご腕の見習いなんだから。」
リセは冗談めかして、えっへん、と胸を張って見せた。
その時、扉の向こうから、熱に浮かされたようなブランの切実な声が響いた。
「ねぇ、リセ。まだあるんでしょ、シチュー。僕のシチュー……」
「ちょっと、ブラン! 落ち着いて!」
リセは焦った様子で扉の方へ向かうと、振り返ってジャンに微笑みかけた。
「ゆっくり食べてね。もし元気があるようなら、また後で話しましょう」
リセが部屋を出ると、廊下から彼女がブランを諭す声が筒抜けに聞こえてきた。
「いい、ブラン? あれはジャンの分よ。さっきの男の子のなんだから。……ダメ!絶対食べちゃダメだからね! いい子にしてたら、明日も美味しいご飯が食べられるように、おじいちゃんにお願いしてあげるからね。あっちのお部屋に戻りましょう。」
そんな声を背に聞きながら、ジャンは一人、手元の温かなボウルを見つめた。
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リセの視点に戻ります。
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