8.ブランのシチュー
「それじゃあ、ご飯にしながら話を聞こうかね。精霊様の食事というのは、一体どういったものがいいのかな?」
「あ、僕のことはブランって呼んで! リセがつけてくれたんだ。美味しそうで、とっても気に入ってるんだよ」
そこまで元気に言った後、ブランは急にもじもじし始めると、上目遣いで控えめにお願いした。
「ごはんは……できたら、シチューがいいなぁ……」
それまで厳しい表情を崩さなかったおじいちゃんは、食いしん坊な精霊の態度に毒気を抜かれたように苦笑し、こらえきれないように笑った。
「はっはっは、よかった。それなら期待に応えられますぞ!」
おじいちゃんが食事の準備のためにキッチンへ向かうと、リセも続いて立ち上がる。
「ミートパイも渡さないと! 私も少し手伝ってくるね」
リセの姿が見えなくなったところで、ブランは静かに部屋を見渡した。
「僕も、もう一仕事」
独り言のようにそうつぶやくと、ブランはふらふらと部屋の隅、影の濃い場所へと浮き上がった。
その小さな体から、銀色の燐光がさらさらと溢れ出し、部屋の境界線へと溶け込んでいく。
先ほど男の子を寝かせた部屋だけでなく、この家全体を包み込むように。
外の冷たい追跡者たちからリセとこの家を守るため、ブランの魔力は静かに、けれど強固な結界となって広がっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(男の子目線です)
暗闇の中で、俺は夢を見ていた。
背後から、底知れない黒い闇が迫りくるのを感じる。その「闇」に触れられた瞬間、全身の魔力を根こそぎ奪われるような恐怖が俺を襲う。
すんでのところで、俺の意志とは無関係に強力な守護魔法が発動する。
「……様! お逃げください!」
護衛騎士たちの叫び声が響く。二人の騎士のうち一人が敵を食い止め、もう一人が必死に転移魔法を唱えている。
「申し訳ありません、私の力では……お一人を転移させるのが限界です。どうか、どうか生き延びて……!」
その叫びを最後に、世界が白く弾ける。
(……ああ、なんて嫌な夢なんだ)
重い瞼の裏側で、不吉な記憶を振り払おうともがく。
だが、その時。鼻をくすぐったのは、冷たい死の気配ではなく――とろけるように温かくて、甘い、幸せな匂いだった。
「……どこだ、ここは」
震える手で自分の首筋をなぞる。そこにはまだ、「契約の印」が刻まれていた。感触を確かめ、生き延びたことに安堵する。
見回せば、そこはこぢんまりとした、けれど温かな部屋だった。壁一面を埋め尽くす古びた本。その光景に、かつて遊びに行った大好きな叔父さんの家を思い出し、胸の奥がちくりと痛んだ。
ふいに、扉の向こうから楽しげな話し声が漏れ聞こえてくる。
「ブラン、そんなに食べたらお腹を壊しちゃう!」
「大丈夫、ずーっと食べてなかったんだから! おかわり!」
(精霊様……?)
自分の首にある契約も、同じく精霊とのものだ。だが、それはもっと厳格で、冷徹なまでの威圧感を放つ存在だった。
外にいるのは、そんな「契約」とは無縁の、陽気な何かなのだろうか。
顔を顰め、意識を失う寸前に声をかけてきた、髪の長い女の子を思い出す。
あの時も、「守護魔法」が発動していたはずだ。あの子が俺に触れることができたということは、少なくとも俺に対して一切の害意がなかったという証拠だ。
……あの子は、どうやって俺をここまで運んだんだろう?
横たわったまま、俺はそっと目を閉じて自分の中の魔力を確認する。眠ったおかげか、枯渇していた魔力がわずかに底から湧き上がって来ているのを感じた。
「リセ、このミートパイ凄いね! 幸せの味がするよ。もっと無いの? あれ? こっちのシチューも食べていい?」
「あっ。ブラン、そっちのお皿はダメ。あの子の分よ」
女の子の声が聞こえた後、足音が近づいてきた。とっさに身を固くして寝返りをうつ。カチャリと小さな音を立てて、扉が開いた。
暗い部屋の中に、廊下からの温かな明かりが細く差し込んだ。
「……まだ、眠ってるわね」
小さな声がした。枕元まで近づいてきた彼女から、先ほどよりもずっと濃い、甘いシチューの湯気の匂いが漂ってきた。
今はまだ魔力の回復も完全ではない。相手の出方を探るためにも、このまま「眠ったふり」をしていようと、俺は必死に呼吸を整えていた。
――ぐうぅぅぅ……。
静まり返った部屋に、情けないほど大きな音が響き渡る。
焦ってお腹を押さえると、少し笑いを含んだ明るい声が、俺の耳をくすぐった。
「あら? もしかして、起きてるの? 体調はどう?」
図星を突かれ、瞼の裏が熱くなるのを感じる。観念してゆっくりと目を開けると、そこには湯気の立つボウルを抱えた少女が立っていた。
「精霊のブランがね、全部食べちゃう勢いだったから……あなたの分こっちに持ってきちゃった。おじいちゃんの自慢の一品よ。今日は特別、美味しいんだから!」
重い身体をゆっくりと起こすと、湯気の立つトレーをそっと差し出される。
「食べられそう? 食べたら、元気が出るわよ」
見ず知らずの家での食事に不安を覚えるが、空腹と食欲をそそる匂いに負ける。守護魔法が発動しなかった事から、彼女に害意は無いだろうと判断した。
「……危ないところを助けてもらったようで、……礼を言う。ありがとう」
差し出されたトレーに恐る恐る手を伸ばして受け取った。
「あなた、名前は?いろいろ聞きたいけど、とりあえず食べて」
まだ少しぼんやりする頭で考える。本当の名前を明かすわけにはいかない。追っ手の目を眩ますためにも、今は正体を隠すべきだ。俺は心の中で小さく首を振り、偽名を告げた。
「⋯⋯ジャンだ」
「ジャンね、覚えたわ! 私はリリスティアよ。皆からはリセって呼ばれてるの。おじいちゃんはこの街で修復師をやっていて、私はその見習い。……今日、初めて一人でスクロールを直した、すご腕の見習いなんだから」
リセは冗談めかして、えっへん、と胸を張って見せた。
(凄腕の見習いってなんだ……?)
戸惑っていると、扉の向こうから、熱に浮かされたようなブランの切実な声が響いた。
「ねぇ、リセ。まだあるんでしょ、シチュー。僕のシチュー……」
「ちょっと、ブラン! 落ち着いて!」
リセは焦った様子で扉の方へ向かうと、振り返って微笑みかけた。
「ゆっくり食べてね。もし元気があるようなら、また後で話しましょう」
リセが部屋を出ると、廊下から彼女がブランを諭す声が筒抜けに聞こえてきた。
「いい、ブラン? あれはジャンの分よ。さっきの男の子のなんだから。……ダメ! 絶対食べちゃダメだからね! いい子にしてたら、明日も美味しいご飯が食べられるように、おじいちゃんにお願いしてあげるからね。あっちのお部屋に戻りましょう」
(……何なんだ、この家は。緊張感というものがないのか)
貴族の家で叩き込まれた警戒心が、下町の妙な温かさの前に、あっけなく霧散していく。
そんな声を背に聞きながら、張り詰めていた肩の力が、信じられないほど静かに抜けていくのがわかった。
俺は一人、手元の温かなボウルを見つめ、そっとスプーンを口に運んだ。とろりと濃厚なクリームの甘みと、じっくり煮込まれたお肉の旨味が口いっぱいに広がる。胸の奥までじんわりと染み渡っていくようだった。
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