6.布革再生屋のエレナさん
「日が暮れちゃいそう。ちょっと急ぐね。……ブラン、そこにいるの?」
返事がない。と思ったら、「僕は基本的に気に入った人の前にしか姿を現さない事にしてるからよろしくね。」と凄くちっちゃな声で聞こえた。その後に「ふわぁぁ〜」と大きなあくびが聞こえた……。
リセの髪は腰まで届くほど長く、柔らかなウェーブがかかっている。その豊かな毛量は、小さなブランが身を潜めるにはあつらえ向きの場所だった。
(確かに精霊がうろうろしていたら街の人がびっくりしちゃうかな?)
もう一度話しかけてみるけれど、今度は返事がなくて、急に一人になったような気がして、リセは少し不安になる。
「寝ちゃったのかな……」
リセは独り言をつぶやきながら、エレナさんの布革再生屋へと、影の伸びる石畳の道を駆けて行った。
エレナさんは、おじいちゃんと2人暮らしのリセの事をいつも気にかけてくれている。リセのお気に入りのチョコレート色のこのコートもエレナさんの娘さんのお下がりだ。
2年前に、おじいちゃんの工房へ来たばかりのリセが寒さに震えているのを見かねて、エレナさんが「もううちの子には小さいから」と持たせてくれたものだ。
当時のリセには、指先が隠れてしまうほど袖が長く、裾も膝の下まで届く「大きなコート」だった。
おじいちゃんはそれを見て、「服に着られているな」と笑ったけれど。エレナさんは笑いながら、長すぎる袖を邪魔にならないよう内側に折り込み、琥珀色の大きなボタンを二つ、しっかりと縫い付けてくれた。
そして、袖の長さを調節するための細い布の帯を付け、それをボタンで留めて、まるで最初からそうだったかのように、しっくりと馴染む形に整えてくれた。
「リセちゃん、今は一番手前のボタンで留めてね。もう少し大きくなったら、奥のボタン。どんなに寒い日でも、歩けばすぐにポカポカしてくるいいコートよ。」
今のリセには、肩幅も丈も、少しだけ「ゆとりがある」程度までぴったりになってきた。ボタンの位置も、今は奥のボタンだ。
それでも、大きめのポケットの奥に手を入れると、まだ少しだけエレナさんの娘のセシリアさんが使っていた頃の、布革再生屋特有のオイルの香りがするような気がする。
厚手の生地は、冷たい北風をしっかりとはね返してくれた。
リセはこのコートの、ずっしりとした重みが好きだ。まるでおばさんや、おじいちゃんの優しさに守られているような、安心感があるから。
リセはツルリとしたコートのボタンをひと撫でして、本とスクロールを胸に抱え直した。
角を曲がると、大きな寸胴鍋から立ち上る真っ白な湯気が、街灯の光に照らされてゆらゆらと揺れていた。
いつもなら、今日の分の仕事を終えて、工房の中の後片付けをしたり、明日返す予定の綺麗になった預かり品を並べたりして穏やかな時間が流れているはずなのに、中からはまだ、焦ったような声と液体がパシャパシャ跳ねる音が聞こえてくる。
「エレナさーん! 直ったよ、これ!」
リセが勢いよく飛び込むと、そこには、むわっとした獣の血の匂いが漂い、戦場のような光景が広がっていた。
「……あぁ、リセちゃん。ごめんね、今ちょっと手が離せなくて……大急ぎで、魔物の血の染みを落とさないといけないんだよ。血液に触れると爛れちゃう系の毒でさ。もう明日にはこの街をたたなきゃいけないらしくて急いでいてね。血の毒性抜きの処理まで、やっと終わったところだよ。」
大きな洗濯桶の向こうで、エレナさんが額の汗を拭いながら顔を上げた。
洗濯桶の中には、布革再生屋秘伝の革の汚れ落とし液と冒険者のものらしき分厚い革の外套が入っている。
彼女の隣には、二人の若い従業員が疲れ切った様子で立ち、洗濯桶の中に魔力を流し込んでいた。普通なら捨ててしまうような状態なのだそうだが、中々高価な外套のようだ。
「予備のスクロールで今日はやってたんだけどさ、そっちも調子が悪くってさ。スクロール屋に行ったらね、新品は小金貨20枚もするって言われちまって。しかも、注文してから届くまでに一ヶ月もかかるんだってさ。そんなの待ってたら、うちが干上がっちまうよ」
エレナさんは、棚の隅に置かれた、色あせてボロボロの「古いスクロール」を指差した。
「家中の物置をひっくり返して見つけてきた代物だけど、効果が弱まっててね。汚れ落ちは悪いし、時間はかかるしさ……。スクロールで落ちきらなかった汚れは、みんなで秘伝の液に直接魔力を注いで無理やり落とすんだけど……。時間も魔力もかかるんだよねぇ。何とかこれだけでも早く終わらせたいんだけどねぇ。3人がかりでも時間かかってしまってねぇ⋯⋯。明日からは革製品は受け入れる量を減らして、他の布革再生屋を探してもらわないとダメかね⋯⋯」
従業員の一人が、ふらふらと椅子に座り込み、ため息をついた。
普段ならスクロール一つで「あっと言う間」に終わる仕事が、手作業のせいで何倍もの重労働になってしまったのだ。
「そんなに大変だったんだ……。でも、もう大丈夫だよ!」
リセは胸を張って、修復し終えたばかりのスクロールを差し出した。
「おじいちゃんにも確認してもらったし、さっきテストもしたんだから!」
リセが自信満々に胸を張ると、エレナさんの目が大きく見開かれた。
「……あのおじいさんが認めたのかい? 買い替えなきゃいけないって、半分諦めてたのに!」
エレナさんは半信半疑のまま、濡れた手をエプロンで拭き、リセからスクロールを受け取った。
「まずは、確認だよ。お客さんので確かめるわけにはいかないからね。」
テスト用なのか革の切れ端を桶に放り込むと、祈るように魔力を流した。
桶の中の液体がキラキラと霧のように浮き上がる。金色の粒子が革の切れ端に吸い込まれて、汚れが押し出されてポロポロと落ちた。光が静かに、収まると革の切れ端は見違えるほど汚れは落ち艶が出ていた。
綺麗になった、革の切れ端を見て、エレナさんは息を呑んだ。
「……新品みたい!汚れもないし、ツヤツヤよ!」
確信を持ったエレナさんは、先程まで3人で洗っていた血が染み込んでしまっている外套に向き直り、スクロールに魔力を通した。
金色の粒子が革の外套に吸い込まれていく。すると、繊維の奥に入り込んでいた魔物の血が浮かび上がり、光に浄化されるように消えていった。
「……まぁ! ホントに直ってる!」
従業員たちも「おおっ!」と歓声を上げ、桶を覗き込んだ。
そこには、完璧な仕上がりの革の外套が浮かんでいた。
「乾燥のスクロール持ってきて!」
従業員の1人が大急ぎで乾燥のスクロールを持ってきてエレナさんに渡す。
エレナさんがこれに魔力を通すと、外套の中の水分が、みるみるうちに抜けていき、あたり一面におひさまの匂いが立ち込める。
「はぁーーっ!リセちゃん、ありがとう。なんてお礼を言っていいか。これで、お客さんに迷惑かけないで済むよ。」
エレナさんは涙ぐみながら、リセの肩を抱き寄せた。リセは、誇らしさで胸がいっぱいになった。
「リセちゃん、修理代、少なくて悪いんだけど。これ受け取っておくれ」
エレナさんは銀貨2枚を差し出した。
「修理でも最低このぐらいはかかるって言われたんだよ。状態によってはもっとかかるし、それこそ。直せない場合もあるって。」
けれど、リセはそっと首を振った。
「ううん、エレナさん。これは受け取れない。練習させてもらったんだもん。……失敗して使えなくしちゃうかもしれないのに貸してくれてありがとうございました。」
リセは真っ直ぐな目でそう言った。
エレナさんは目を丸くして、呆れたように、けれど愛おしそうに溜息をついた。
「そう言う訳にもいかないわよねぇ……。わかったよ、この件は今度おじさんと直接お話させてもらうわ。」
エレナさんは少しの間考え込むと、
「ちょっと待ってな」
と言い残して店舗の奥のキッチンへと消えた。
数分後、彼女は温かな湯気が立ち上る、ずっしりと重みのある小さな紙包みを持って戻ってきた。
「これを持っていきな。残業用になりそうだったからね朝から準備してたんだ、たくさん焼いたから。ミートパイ好きだっただろ?2人で食べね。」
包みからは、香ばしいバターの香りと、お肉の焼けた、いい匂いが漂ってくる。
エレナさんのミートパイはリセの大好物だ。香ばしく焼き上がった生地と肉の匂いを嗅いだだけで、思わず涎が垂れてしまいそうな気がする。
「……ありがとう、エレナさん!」
リセは、ずっしりと重くて温かいその紙包みを、宝物のように大切に受け取った。
エレナさんたちの賑やかな見送りを受けながら、リセは布革再生屋を後にした。
外へ出ると、街は燃えるような夕焼けの残光に包まれていた。
空の端が茜色から深い群青へと溶け合っていく中、胸元の蜂蜜色のボタンが、夕陽の名残を拾って誇らしげにキラリと光を反射していた。
リセは、ミートパイの温もりを抱えながら、少し急ぎ足で家へと向かっていた。
すると突然、髪の中から「リセっ、リセ!」と、焦ったようなブランの小さな声が響いた。
「どうしたの、ブラン?」
リセが足を止めると、ブランは髪からひょっこりと顔を出し、細い路地の奥を指差した。
「あそこの道を見て! 男の子が倒れてるよ!」
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