2.古書店へのお使い
扉を開けると、微かに海の匂いがした。
この街の中心から、しばらく歩くと美しい海がある。
海とは逆の方を見ると遠くに緑の山々が見え、そのまた遥か遠くに白い頂が連なる南アルクトス連峰が見えていた。
午後の柔らかな光が差し込む表通りを抜けて、人気の食堂を右にまがる。
二つ目の角を左に曲がり、左側をよく見ながら進む。
よく見ていないと見逃してしまいそうな、古めかしい木のドアで、ドアの上の方には、見慣れない風変わりな文字で《カスパル古書店》という店の名前が刻まれている。
リセはドアの前で一度立ち止まると、コートについた見えないホコリを払うように、両手でパン、パンとリズミカルに叩いた。
深呼吸をして、背筋を伸ばし、重い真鍮のドアノブを回す。
カラン……。静まり返った店内に、控えめなベルの音が低く響いた。
建物の中は、古い紙とインクの匂いが満ち、入り口の慎ましさを裏切って、かなりの広さを持っていた。
所狭しと重厚な本棚が並び、二階まで吹き抜けになっている。
見上げれば、壁際は天井の際までびっしりと背表紙が並び、まるで本の山に抱かれているような錯覚に陥るほどだ。
高い天窓から差し込む午後の光が、宙に舞う細かな埃を宝石のようにきらめかせ、静まり返った空気の中でゆっくりと躍らせていた。
「……こんにちは。修復師ヴァルカン・ベルテのお使いできました」
リセは声をかけながら一階の奥のカウンターへと歩を進めた。
すると、一階の奥、カウンターを兼ねた大きな机の向こう側から、ガサリと紙が擦れる音が聞こえてきた。
「……あぁヴァルカンのとこの。よく来てくれた」
本の山―それも、リセの背丈ほどもある古い本の塔の向こう側から、銀縁の眼鏡を光らせたカスパルさんが顔を出した。
「目録のスクロールが壊れちまったせいで、新しく来た本をしまえないし。こんな時に限って、フォルテス教授は、『事件解決のため、至急届けてくれ』とか言ってくるし。はぁ、何でこんな事に……」
カスパルさんは、山積みの古書に囲まれて、本当に心底困り果てた様子で額を押さえた。
彼にとって、目録が使えないことは、暗闇で地図を失くしたのと同じことなのだ。
「で。本当に直ったのかい?見せてくれ」
ブツブツと文句を言いながら近づいてきて、手を差し出した。
リセは急いでスクロールをカスパルさんへ渡した。
カスパルさんは受け取ったスクロールを、カウンターのわずかな隙間にそっと広げた。
銀縁の眼鏡を指で押し上げ、食い入るように修復された回路を覗き込む。
「……ほう」
彼の喉から、低い感嘆の音が漏れた。
薄暗い店内の中で、おじいちゃんの銀のペンが残した繊細なラインが確かな存在感を放っている。
カスパルさんが指先にわずかな魔力を込め、スクロールの端に触れた。
その瞬間、眠っていた魔法の回路が一気に解放される。
パッとスクロールがまばゆい光を放ったかと思うと、その中から数え切れないほどの小さな光の蝶が溢れ出し、縦横無尽に飛び回り始めた。
「わぁ……っ!」
リセは思わず声を上げ、光の群れを見上げた。
金色の粉を振りまく蝶たちは、迷うことなく巨大な本棚のあちこちへと吸い込まれていく。
吹き抜けの二階、手の届かないような高い棚の背表紙に止まるものもあれば、カウンターに積み上げられた未整理の本の山にそっと羽を休めるものもいる。
カスパルさんは、もう一度スクロールに手を触れて、静かに魔力を流した。
「『魔法陣の偽装と見分け方』」
その声に応えるように、ひときわ大きな、虹色に輝く蝶がスクロールから飛び出してきた。
蝶は吹き抜けの上の方へ、キラキラと虹色の光を撒き散らしながら軽やかに舞い上がっていく。
リセが息を呑んで見上げる中、蝶は天井に近い本棚の一角でくるりと円を描いた。すると、一冊の古い本が本棚からひとりでに滑り出し、まるで蝶を追いかけるようにして宙を泳ぎ始めた。
蝶は本を一冊、後ろに従えるようにして悠々と戻ってくる。
最後には、リセの目の前にあるスクロールの上へ、その本を静かに着地させた。
役割を終えたことを知らせるように蝶が一度だけ羽を震わせると、光の粒子となってふわりと空気の中に溶けていった。
「流石ヴァルカン・ベルテだな。すぐに直って助かったよ」
カスパルさんは、届いたばかりの本の表紙をそっと撫でて、満足げに目を細めた。
カラン。そこへ若い男が飛び込んできた。
「カスパルさん! 教授が『ここに書いてある資料もあの店ならあるはずだ追加で持ってこい、一刻を争う』とおっしゃいまして。すみません。至急対応をお願いできますか?」
若い男は、カスパルさんが手に持っていた『魔法陣の偽装と見分け方』を見て驚いた顔をした。
「あっ、見つかったんですね。いや~助かります。今朝、探したときは全然見つからなかったからないのかと思いましたよ。これ、すぐ持っていっちゃいますね。また、すぐ戻りますので、探しておいてください」
若い男は、本を受け取り、代わりに本の名前を書いたメモをカスパルさんに押し付けて嵐のように去っていった。
カスパルさんはうんざりした顔をしてメモを見つめた。
「まただよ。あのじいさん」
カスパルさんはリセをじっと見つめ、何かを考え込むように少しだけ眉をひそめた。
「君、名前はリリスティアだったな? 前に、ヴァルカンの所で店番をしていた事があるね?」
「えっ、あっ、はい」
リセはおじいちゃんが出かけたい時に1時間ぐらいの工房の留守番は良くしているのだ。カスパルさんが来た記憶は無いから、おじいちゃんから聞いたのかもしれない。
カスパルさんは、棚から古い羽根ペンを取り出し、手早く何かのメモを書き留めた。それから、カウンターの引き出しにある売上箱にガシャリと頑丈な鍵をかけ、その鍵をポケットへと放り込む。
「リリスティア。すまないが、 私が奥の書庫から資料を探し出す間だけ、このカウンターに座っていてくれ! 誰か来たら『今奥で作業中だ』と伝えてくれればいい! なるべく早く戻る」
カスパルさんは店の奥のドアの前で一度立ち止まり、振り返ってニヤリと笑った。
「……ああ、そうだ。その辺の本は読んでいいぞ。おしゃべりな本の精霊が出て来たら話を聞いてやってくれ。しっかり店番出来たら、カウンターの中にある修理待ちの箱の中から1冊本をやろう。修復の練習にちょうど良いだろう。……じゃあ、頼んだよ。」
バタン、とドアがしまり、カスパルさんの大きな背中が扉の奥に消えていった。
一人残された静かな店内で、リセはパチパチと瞬きをした。
「えっえっ、ほんとに?行っちゃったの?おしゃべりな、本の精霊って何……?」
リセは恐る恐るカウンターの中に入り、カスパルさんが指差した「修理待ち」と書かれた木箱を覗き込んだ。
そこには、表紙の擦り切れた古い本が数冊、無造作に重ねられている。
すると――その箱の奥から、小さく奇妙な声が聞こえてきた。
「……ぐぅぅ。シチュー食べたい……」
リセは思わず耳を疑った。(え……? 今、シチューって言った……?)
それに混じって、すやすやと小さな寝息のような音が、確かに木箱の奥から聞こえてくる。
――リセと「食いしん坊な精霊」の、不思議な出会いの幕が上がろうとしていた。
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