10.修復師工房の朝
修復師の工房の朝は早い。
リセの朝は、顔を洗い、身なりを整えてから、朝食を作ることから始まる。パチパチと薪がはぜる音とともに、キッチンからはスープの湯気と、パンが焼ける香ばしい匂いが漂い始める。
その間、おじいちゃんは1階の作業室に降り、今日の仕事の段取りを確認するのが常だ。届いた依頼品を一つずつ吟味し、修復の優先順位をつけ、必要な魔導素材を棚から揃えていく。素材によっては、使う前に朝の柔らかな光に当てたり、前夜から月の光に晒したりして、魔力を整える必要があるものもあるのだ。
ジャンは、この家に来て初めての朝、緊張のせいか誰よりも早く目を覚ました。
昨日、着替えがない彼にリセが貸してくれたのは、彼女が修復作業の時に着るという作業着だった。
それは丈夫なキャンバス地でできた、深緑色のつなぎのような服だ。リセとは同い年だと聞いていたが、袖が少しだけ余るのが……正直に言えば、少しだけ悔しい。彼はシャツの袖を一度だけ折り返して、自分なりに整えた。
最初は「女の子の服を貸す」と言われてどうなることかと驚いたが、実用的で無骨なこの作業着を見て、ジャンは心から安心したのだった。
何をすればいいか分からず戸惑ったものの、まずは目についた竹箒を手に取ると、静まり返った裏庭を丁寧に掃き清めた。
ひと通り掃除を終えると、彼は自分の腕を確かめるように、真っ直ぐな木の枝を手に取る。
朝露に濡れた空気の中で、シュッ、シュッと鋭い風切り音が響く。それは、あの『契約の印』を刻むことが決まった日から、彼が一日たりとも欠かしたことのない日課だった。
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「ふぅ……」
朝露を含んだ冷たい空気を切り裂き、木の枝を振り抜く。
その時、背後で工房の重い扉が開く音がした。振り返ると、両手に大きなトレーを乗せた師匠が姿を現した。トレーの上には、ねじれた不思議な形の角がいくつも並んでいる。
僕はすぐに素振りを止め、枝を下ろして師匠に向き直った。
「おはようございます、師匠。……そちら、手伝いましょうか?」
「いや、今日は大丈夫だよ」
師匠は穏やかに笑い、僕が手にしている枝に視線を落とした。
「早起きだね。君は剣を振るのか。……どこかに君に合う剣がないか、後で探してみようかね」
師匠の言葉に、僕は少し驚いた。剣は可能なら続けたかった。自分を守る術を失うわけにはいかない。
自分の手のひらをそっと握りしめる。かつて握っていた剣の感触、その重み。それを取り戻せるのなら、今の僕には何よりも心強いはずだ。
「……ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
僕は深く一礼し、それからじっとしていられず問いかけた。
「何か、僕に手伝えることはありますか?」
師匠はトレーの上の角に目をやる。
「今日は、この『魔鹿』の角だけなんだよ。ずっとしまい込んでいたからね。こうして朝の光と風に当てて、朝露を吸わせると、魔力の馴染みが良くなって使いやすくなるんだ。」
師匠は角を一つずつ、日の当たる切り株の上に丁寧に並べた。並べられた角が、朝露を吸い込んでぼんやりと淡く発光し始める。その幻想的な光景を、僕は不思議な気持ちで見つめていた。
「ああ、いい匂いがしてきたね。そろそろ朝ご飯の時間だよ。一緒に行こうか?」
師匠に促され、僕たちは2階へと向かった。
階段を上がると、1階の工房まで漂っていた匂いがさらに濃くなり、食欲をそそる。テーブルの上には、こんがりと焼けたパンと、湯気を立てる具だくさんのスープがすでに4人分並んでいた。パンの横には、琥珀色の光を湛えた蜂蜜の瓶が置かれている。
「あっ、二人ともいいタイミング! ちょうど呼びに行こうと思ってたの。さあ、ご飯食べよ!」
リセがエプロンで手を拭きながら、弾んだ声で僕たちを迎えてくれた。
僕の家では、朝食の席にこれほど賑やかな声が響くことはなかった。戸惑いながらも、僕は促されるまま、用意された席へと腰を下ろした。
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「ねぇ、まだ? もう食べていい?」
ブランが私の周りをパタパタと飛び回りながら、何度も繰り返す。さっき勝手に手を出そうとして「これ以上つまみ食いしたら、もうあげないからね!」って本気で怒ったから、一応我慢はしているみたい。……でも、正直ちょっと鬱陶しい。
準備が整ったところで、ちょうどおじいちゃんとジャンが戻ってきた。
「それじゃあ、世界中の精霊様に感謝して。いただきます」
おじいちゃんがいつもの挨拶を口にする。
隣を見ると、ブランがキラキラした期待の眼差しで私を見つめていた。
「……いただきます。ブラン、お待たせ!」
言い終わるか終わらないかのうちに、ブランはスープの器にかじりついた。
「リセ! 僕のパン、蜂蜜いっぱいにして!!」
そう叫ぶ一瞬すらもったいないと言わんばかりに、またスープをゴクゴクと飲み始める。自分の体ほどもある大きなマグカップを魔法で浮かせて、必死に食らいつく姿は、何度見ても不思議で目が離せない。
ふと横を見ると、ジャンがそんなブランの様子に、目を丸くして驚いていた。
「実はね、ブランとは昨日会ったばかりなの。本の中に閉じ込められちゃってて、すごくお腹が空いてたんだって。……それにしても凄いよね、精霊がこんなに食べるなんて知らなかったわ」
私の言葉に、ジャンは不思議そうに首を捻った。
「うーん。僕の知っている精霊は、契約者の魔力を好んで糧にするものだと思っていましたが……。人間の食事をここまで欲しがるというのは、聞いたことがありませんね」
ジャンのもっともな指摘に、ブランは蜂蜜まみれの口元を拭いもせず、自慢げに胸を逸らした。
「そりゃそうだよ! 僕は特別なんだから。普通の精霊は人間のご飯は食べないよ。こんなに美味しいのに!」
「…………」
特別な精霊……ねぇ。
ただ食い意地が張っているだけに見えるブランを、私は半眼で見つめた。横を見ると、ジャンも「どう反応していいか分からない」という顔で固まっている。
「リセ!パンおかわり!」とブランが元気よく声を上げ、食卓の空気がいっそう賑やかになったところで、おじいちゃんが私たちを真っ直ぐに見た。
「今日の予定だが、まず、ジャンに必要なものを準備しようと思う」
その言葉に、ジャンが居住まいを正して背筋を伸ばした。おじいちゃんは指を折りながら、これからの計画を話して聞かせる。
「着替えと剣があれば、とりあえずは良いかな。以前ここにいたゲラルトが置いていった物も、何か使えるかもしれない。服はジャンには少し大きいだろうが……。そうだ、エレナさんに直してもらったら着られるかね?」
おじいちゃんは、いたずらっぽく片目を細めた。
「エレナさんは、昨日うちで直したスクロールの修理代を気にしていたようだからね。直し代と相殺ということにすれば、お互い様で丁度いいだろう」
それは、ジャンがこの家に負担をかけることをひどく気にしていたようだったので、おじいちゃんなりの配慮だった。
「あとは、古着屋へ行ってこようかね。新品の服はかえって目立つ。……それでいいかい、ジャン?」
突然の申し出に、ジャンは一瞬呆然とした。
「……はい。何から何まで、本当に……ありがとうございます」
ジャンは胸がいっぱいになったのか、言葉を詰まらせながらも、深く頭を下げた。
「よし。じゃあ、決まりだ」
おじいちゃんは満足そうに頷くと、リセを振り返った。
「リセ、朝の片付けが終わったら、エレナさんのところへ行って今日、家に来られそうか聞いておいで。洋服のお直しを何着かお願いしたい、とな」
「わかった! 任せて、おじいちゃん!」
リセは元気に答えると、さっそく手際よく食卓を片付け、出かける準備を始めた。
その様子を、ジャンは手伝うべきか迷うように所在なく見守っていた……。おじいちゃんはそんな彼を見透かしたように、穏やかな声で語りかける。
「ジャン、君はしばらく家からは出ない方が良いだろう。ブラン様が結界を張ってくれているから、ここにいれば安全だ」
その言葉に、ジャンは自分の置かれた危うい立場を思い出したように、わずかに肩を強張らせた。
「名目上は修復師の見習いとしてここにいてもらうが、何かしたいことがあれば遠慮せずに言ってくれ。リセは君と一緒に勉強したがっていたようだがね。君の部屋にある本は、何でも読んで構わないよ。修復師の専門書だけでなく、地理や語学、冒険譚なんかもあったはずだ」
ジャンは真っ直ぐに師匠を見つめ返し、はっきりとした声で応えた。
「いえ……。せっかくですから、僕に修復師の勉強をさせてください」
居候として時間を潰すのではなく、自らの手で何かを成し遂げたい。その強い瞳を見て、おじいちゃんは満足そうに口角を上げた。
早起きが得意な人って尊敬です。
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