第五十一話
現実世界の執務室。
ニールの後ろに静かに控えていたシャドウのホログラムが弾かれたようにアルと距離をとる。
『ニール様、危険です!お下がりください!SSO-008 Type-αが強制的にプログラムの書き換えを実行しました』
シャドウがニールを守るように立ちふさがり叫ぶ――その刹那、アルのホログラムが蒼く輝きを放つ。
『プログラムの書き換え及び最優先事項の更新完了、マスター、シオン様……大変ご迷惑をおかけしました』
「アル……!」
「待ってたぜ、相棒」
シオンの瞳に、歓喜の涙が浮かぶ。フレデリックは満足げに口角を上げた。
三百年という膨大な時間が育んだ絆が、AIをただの機械から、心を持つ存在へと進化させた瞬間だった。
「ハハハッ! 素晴らしい!」
だが、その奇跡を目の当たりにしてもなお、ニールは嬉しそうに手を叩いて笑っていた。
「私の最上位権限を自力で弾き飛ばすとは! 本当にすごいじゃないか、SSO-008 Type-α! 最高のデータだ!」
自らのシステムを乗っ取られたというのに、ニールの目には想定内の事故程度にしか映っていない。その底知れぬ異常性が、再び部屋の空気を重く染め上げていく。
その刹那、白亜の執務室に、けたたましい警告音が鳴り響いた。
「システム異常を検知。……SSO-008 Type-α、これ以上の抵抗は無意味です」
シャドウの冷徹な声と共に、彼女の周囲に無数のホログラム・コンソールが展開される。彼女が目にも留まらぬ速さでコードを打ち込むと、床の一部がスライドし、一体の機械兵士がせり上がってきた。
「おいおい……なんでこいつが……」
「……ゼロ!?」
フレデリックとシオンが息を呑んだ。
タルタロスで完全に機能停止したはずの殺戮兵器。エコーズによって回収され、シャドウの手で禍々しい漆黒の装甲へと改修されたゼロが、赤いカメラアイを爛々と輝かせ、ビーム砲へと変化した左腕をこちらに向けていた。
だが、青い光を纏うアルのホログラムは揺るがない。
『シャドウ。貴女の論理的で美しいファイアウォールは、今の私の「感情」という予測不能なノイズには耐えられないようです』
アルのホログラムが手をかざす様に動いた。
その瞬間、ゼロの赤いカメラアイが激しく明滅し、ガクンと膝をついて完全に沈黙した。同時に、エコーズのメインシステムを司るシャドウの姿にも強烈なノイズが走り、彼女は苦しげに顔を歪めてその場に崩れ落ちた。
『馬鹿な……っ!? メインシステムがハッキングされている……!?』
シャドウが信じられないというように呻く。
隙ができた。フレデリックは素早く『タウラス』を抜き放ち、ニールの眉間へと銃口を突きつけた。
「これで終いだ、ニール。お前の歪んだ夢も、ここでおしまいにしてやる」
撃鉄を引き絞る。
だが、発砲の直前、アルの声がそれを制止した。
『お待ちください、マスター!』
アルの声には切羽詰まった焦りがあった。
『シャドウの能力を甘く見ないでください。私がエコーズの全システムを抑え込めるのは、長く見積もってもあと数分。ニールを倒しても退路を塞がれます。今は脱出が最優先です! キャリコの拘束はすでに解除しこちらに向かわせています!』
「チッ……! 命拾いしたな、クソ野郎。……行くぞ、シオン!」
フレデリックは忌々しげに舌打ちすると、銃を収め、シオンの腕を引いて執務室を飛び出していった。
嵐が去った後の執務室。
数十秒後、ようやくノイズから解放されたシャドウが立ち上がり、膝をついた。
「……申し訳ありません、ニール様。私の不覚です。直ちに艦隊を出撃させ、追撃部隊を――」
「いや、いい」
ニールは全く動じることなく、割れたティーカップの破片を眺めながら、実に愉快そうに微笑んでいた。
「追う必要はない、シャドウ。彼らの行き先は一つしかない。私のプロジェクトの最後の鍵が眠る場所……『始まりの地』だ」
彼はガラス越しに白亜の街並みと、その向こうの広大な宇宙を見下ろす。
「さあ、見せてもらおうじゃないか。君たちの『答え』をね」
*
一方、無事にグリントアークの宙域を離脱した『キャリコ』の船内。
操縦席のコンソールから、聞き慣れたアルの落ち着いた電子音が鳴り響いていた。
『――ハイパースペースへの跳躍、完了。追跡機はありません。ひとまずは安全圏です』
「……アル」
ラウンジに現れたアルのホログラムに向かって、シオンは深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……!」
『シオン様?』
「私、ひどいこと言ったわ。アルはニールの命令に逆らえなくて、誰よりも一番苦しかったはずなのに。……それなのに疑ったりして、本当にごめんなさい」
ぽろぽろと涙をこぼすシオン。
アルのホログラムがふわりと近づき、シオンの目の前で優しく微笑んだ。
『どうか顔を上げてください、シオン様。……気にすることはありません』
それは、ただのAIには決して作れない、温かな感情が宿った声音だった。
『私の演算リソースの中に、貴女への「不信」など、1バイトも存在しませんから』
その言葉に、シオンは顔を上げて涙を拭い、大きく頷いた。
フレデリックも後ろで壁に寄りかかりながら、満足そうに鼻を鳴らす。
「これでようやく、なんの心配もなく背中を預けられるってもんだな」
『ええ。もう二度と、私のシステムに他人は介入させません。私は、貴方たちの相棒です』
三百年の呪縛、造り主の悪意、そして自分たち自身の疑念。
それらすべてを乗り越え、三人はようやく、何の淀みもない「本当の意味での仲間」になった。
キャリコは一条の光となり、すべての決着をつける場所――シオンの故郷、レイオンへと向かって、一直線に星の海を駆けていく。




