第三十六話
ギラリと光る刃が、シオンの胸元数センチまで迫っていた。
フレデリックの腕が痙攣し、抗いがたいシステム命令によって、相棒の心臓を貫こうとしている。
(どうすればいいの……!?)
シオンの思考が極限まで加速する。
腰のリボルバーを抜けば、彼を撃つことはできる。
だが、それではダメなのだ。
ただ動きを止めるために彼を傷つけるなんて嫌だ。
それに、あの頭部の機械を物理的に破壊したとしても、焼き切られかけた彼の精神まで元に戻る保証はない。むしろ、ショックで完全に廃人になってしまうかもしれない。
(破壊じゃ……ダメなのよ)
シオンは歯を食いしばった。口の中に鉄の味が広がる。
私が欲しいのは、敵を排除する力じゃない。
自分の命を守るための盾でもない。
(助けたい……!)
ただ、それだけ。
無理やり書き換えられようとしている彼の心を、あるべき形に戻したい。
あの優しくて不器用な、私の大切な相棒を、この悪夢から救い出したい。
その純粋で強烈な「願い」が、シオンの心臓を激しく鼓動させた。
ドクンッ!!
熱い奔流が全身を駆け巡る。
それは、レイオン崩壊の時や、タルタロス監獄でゼロを一時停止に追い込んだ時に見せた、猛々しい「破壊の力」とは違う。
もっと澄み切った、深く、静かな蒼い光。
レイオン王家の血脈――シオンの中に眠る本当の力が、主の意思に応えて覚醒した。
「……離れてッ!!」
シオンは渾身の力でフレデリックを振りほどき距離をとる。
それと同時にシオンは右手を腰へ走らせた。
抜く。黒いリボルバーを。
だが、その銃身はもはや冷たい鉄塊ではなかった。
キィィィィィン……
銃身に刻まれた溝から、蒼白い光が溢れ出す。
幾何学的な文様が銃全体に浮かび上がり、回転式弾倉がひとりでに回転を始めた。
カチリ、カチリと、物理法則を超えた装填音が響く。
「な、なんだその光は!?」
ラウンジからカルマンディが身を乗り出した。
実験観測用のモニターに見たこともないエネルギー波形が表示されているのだ。破壊エネルギーではない。物質の構成そのものに干渉する、未知の波動。
フレデリックがよろめきながら体勢を立て直し剣を振り上げ、獣のように飛び込んでくる。
シオンは逃げない。避けもしない。
ただ真っ直ぐに、相棒を見据え、その銃口を向けた。
狙うのは心臓ではない。眉間でもない。
彼の魂を縛り付ける、その呪わしい運命そのものだ。
(破壊じゃない……なおして!)
シオンは祈りを込めて、トリガーに指をかけた。
涙で滲む視界の向こう、フレデリックの虚ろな瞳が見える。
ターンッ!!
放たれたのは、鉛の弾丸ではなかった。
蒼い流星。
美しい光の軌跡が、実験場の闇を切り裂いた。
弾丸は正確無比にフレデリックの額――ヘッドギアの中央に吸い込まれた。
だが、衝撃音はない。
代わりに、着弾した瞬間、空間に美しい波紋が広がった。
キィィィィィン……。
透き通った鈴の音のような響きと共に、フレデリックの頭上に巨大な術式が展開される。
複雑怪奇な数式と幾何学模様で構成された、蒼い光の円環。
それが回転し、フレデリックの全身を光の繭のように包み込んだ。
「こ、これは……!? どうなっている!?」
カルマンディが叫ぶ。
光の中で、奇跡が起きていた。
フレデリックの脳を蝕んでいた強制命令コードが、蒼い光によって浄化され、正常な神経パルスへと「再構築」されていく。
度重なる人体実験で傷つけられた皮膚が塞がり、やつれた筋肉に活力が戻る。
パリーンッ!!
澄んだ音が響き、フレデリックの頭部を覆っていたヘッドギアが、ガラス細工のように砕け散った。
同時に、円環術式が収束し、光が消えた。
フレデリックはその場に崩れ落ちそうになったが、膝をついて踏みとどまった。
刀が手から滑り落ち、カランと音を立てる。
彼は荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳。
先ほどまでの濁った灰色ではない。
理知と、意志の光を宿した、シオンがよく知る「彼」の瞳だった。
「……シオン……?」
フレデリックが、夢から覚めたように呟いた。
自分の手が震えている。
視線を上げると、そこには銃を下ろしたシオンが立っていた。
肩で息をしている。
そして、その体は――
「あ……」
フレデリックの顔色が変わった。
シオンの左腕、太もも、脇腹。
衣服が裂け、白い肌に赤い鮮血が滲んでいる。
痛々しい傷跡。
そのすべてが、自分の剣によって刻まれたものだという記憶が、鮮明に蘇ってきた。
「お、俺は……」
守ると誓った人を、この手で切り刻もうとした事実。
守れなかった過去のトラウマと、今犯しかけた罪の重さが、彼の心を押し潰す。
「すまない……シオン……」
彼は震える声で、懺悔のように言った。
「俺は……お前を……こんなに、傷つけて……」
言葉が続かない。
合わせる顔がない。
歴戦の剣士としての矜持も、相棒としての資格も、すべて失ってしまった。
フレデリックは絶望に顔を歪め、うつむこうとした。
だが。
その頭を、温かいものが包み込んだ。
「……!」
フレデリックが目を見開く。
シオンが駆け寄り、膝をついている彼の頭を、胸に抱き寄せていたのだ。
血の匂いがした。
けれど、それ以上に、彼女の温もりと、小刻みに震える体の感触が伝わってくる。
生きていてくれた。
こんな自分を命がけで助けてくれた。
その事実が、凍りついていたフレデリックの心を溶かしていく。
「シ、シオン……離れろ、俺は……」
「黙って」
シオンは彼の髪を優しく撫で、その頭をしっかりと抱きしめた。
腕の中に感じる彼の体温。
戻ってきてくれた。
それだけで、傷の痛みなど吹き飛んでしまうほどに嬉しかった。
シオンは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった笑顔で、彼を優しく母のように見つめた。
そして、アビスマーケットで自分を逃がすためにボロボロになった彼が言ってくれた言葉を、今度は自分が彼に贈った。
「私は大丈夫、だから気にしないで」
その言葉を聞いた瞬間、フレデリックの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
剣士の仮面も、大人の余裕も、すべてが崩れ去った。
彼は子供のように顔を歪め、シオンの腰に腕を回し、すがりつくように泣いた。
「……う、あぁぁぁ……っ!」
男の慟哭が実験場に響く。
それは悲鳴ではない。
長い悪夢から解放され、許された魂が上げる、再生の産声だった。
シオンは彼を抱きしめ続け、その震える背中を優しく撫でた。
もう、私は守られるだけの少女じゃない。
貴方が私を守ってくれたように、今度は私が貴方を守る。
傷だらけの二人が分け合った体温は、どんな宝物よりも温かく、二人の絆を鋼のように強く結び直していた。




