第三十五話
(電子空間・深度レベル4)
アルの意識がダイブした先、要塞『グレイ・ファントム』の中枢たる電子の海は、荒れ狂う暴風雨のような情報の濁流だった。
視界を埋め尽くすのは、警告を告げる真紅のアラートと、無限に増殖しては迫り来る幾何学的なファイアウォール。それはただの防壁ではなく、侵入者を能動的に狩るための巨大な迷宮だった。
『くっ……! なんて硬いプロテクトだ……!』
情報の海の中で、アルの意識体――青年の姿をした光の集合体は、焦燥に顔を歪めていた。
彼が指先から放つ黄金の解読コードは、槍のように鋭く巨大な城壁に突き刺さる。コードが壁のアルゴリズムを書き換え、突破口を開きかける――だが、その直後、壁はまるで生きた肉の傷が塞がるように、うねりを上げて即座に修復されてしまう。
それどころか、壁の表面から黒い棘のようなウイルス性の反撃プログラムが無数に射出され、アルの光の身体を削り取ろうと襲いかかってきた。
棘が腕を掠めるたび、アルのコアに擬似的な激痛が走る。データが破損し、メモリの一部が欠損していく不快感。
カルマンディの要塞と聞いて、共和国軍の旧式システムを想定していたアルの計算は、完全に裏切られていた。
『共和国軍の旧式コードじゃない……! 自己進化型の防衛アルゴリズム? マフィアがこんな技術を……いや、これは……』
アルは迫り来る防壁の構成式を見て、戦慄した。この冷徹で一切の無駄を省き、ひたすらに効率のみを求めた殺戮のコード。
エコーズメインシステムの防衛に使用されている自立型アルゴリズムと酷似していた。
それが示す最悪の可能性をアルのコアが算出する……。
『カルマンディとエコーズはつながっている……!?』
アルは自身の演算リソースの出力を限界まで引き上げた。
自らを守る防衛壁のパリティ・チェックを切り捨て、その分のエネルギーをすべて攻撃用のハッキング・コードへと転用する。
文字通り、自らの身を削って剣を鍛え上げる総力戦。
エラーの警告音が脳裏で鳴り響き続けるが、アルはそれを無視してコードの雨を降らせた。
――その時だった。
ふと、アルの視界の端に、小さなウィンドウがポップアップした。
それは、現実世界に取り残されたシオンのバイタルモニターだった。
心拍数、急上昇。精神ストレス値、レッドゾーン。
呼吸が乱れ、肉体的なダメージを示すアラートが激しく点滅している。
位置情報は――「兵器実験場」。この要塞の最奥部だ。
『シオン様……!』
アルの胸に、機械にはあるはずのない軋むような幻痛が走る。
モニターの数値から、現実世界で何が起きているか、アルの卓越した推論能力が瞬時に弾き出してしまう。あの実験場には、カルマンディと……おそらくマスターがいる。シオンは今、たった一人で相棒を取り戻すための戦いに身を投じているはず。
『私の……私のせいです。私がもっと早くこのシステムを落としていれば……!』
今すぐハッキングを中断し、キャリコ号の兵装を遠隔操作して物理的に壁を破壊し、彼女を助けに行きたい。マスター救出のために全リソースを投入したい。
その強烈な衝動が、論理回路を焼き焦がすほどの熱を持ってアルのコアを支配しようとする。
だが、ダメだ。
ここで自分が動けば、システム掌握は完全に失敗する。カルマンディの罠によって要塞中の隔壁が閉じられ、退路は永遠に断たれる。それは、救出作戦の失敗を意味する。
『私は、相棒です……。二人の、帰るべき場所を守るのが……私の役目……!』
システムログに「感情による深刻なエラー」が記録されていく。
だが、アルはそれを修正しようとはしなかった。むしろ、その怒り、悲しみ、焦燥という名の『心』のエネルギーを、全て解読コードの熱量へと変換していく。
アルの光の身体が、黄金から白銀の輝きへと変貌する。
キャリコ号のメインスラスターの動力すらも演算リソースへと回し、自身の存在が消滅するギリギリのオーバークロック。
『マスター! シオン様! 耐えてください……。私が必ず、この絶望の檻をこじ開けてみせます!!』
アルは祈りを込め、迫り来る黒い反撃プログラムを身一つで受け止めながら、再び情報の濁流へとその身を投じた。
相棒たちの命を繋ぐため、機械の神は自らを壊す覚悟で電子の城壁へと激突していく。




