第94話 戦の前
1571年3月 勝尾城 筑紫館 筑紫四郎貞治
弥生の月となり山では梅の花が咲き始めた。
しかしながら山々が春の訪れを示しておるのに、城内はそれに気づく者も少ない。張り詰めた空気が流れておった。
十日ほど前に草野氏の城が落ちた。無論、龍造寺から攻め立てられた結果じゃ。
草野氏の所領は筑紫の勝尾城から筑後川を越えて反対側にあたる。草野氏は五千石程の小さい国衆じゃが、筑紫とは長年友好関係にあった。
筑後川の利権や治水に関しても、お互いの事情を考慮しながら協力してきた貴重な隣人であったのじゃ。
その草野氏が落ち延びたところを殿は保護した。
これでますます龍造寺に目を付けられる事になったのぉ。
念のためその旨をご指摘したが殿は重々承知であった。爺の余計な小言になってしまったわい。
となると龍造寺の娘、於安の方と旦那の小田新九郎殿を保護したのも、狙いがあってのことで間違いなかろう。
筑紫は龍造寺が身柄を欲している人物を複数保護することになる。
龍造寺釣りか。
ふぉふぉ、龍を釣るとは豪気なものじゃわい。
城内の緊張はそうした戦の匂いを感じてのものだ。
新年が明けてからの評定は、ここ勝尾城で開かれている。殿が博多から離れたのじゃ、臨戦態勢と言ってよかろう。
とはいえ戦の話ばかりではない。例えば銭作りが片隠れから水車の里へ完全に移管されたこと。
堺の求める銭の生産量を達成する目途がたったこと。植林用の苗木の生産が軌道にのり、領内の村々に配ること、等々が決まった。
苗木は二年ほど前、まだ殿が祝言を挙げる前だったか、その頃から育て始めていた苗じゃ。これがようやく日の目を見ることになった。
今までの苗木というものは村々で使われないような出来の悪い畑に木々の種をまき、数年たってから育ったものを植林に使われていた。
だが殿はこれを挿し木という方法に変えた。
これは成長が早い、病気になった様子がない木を選び、その木の枝を切って畑に差し込むことで苗木を育てる方法であった。
元となった木の特性を受け継ぐため、成長が早く病気になりにくい木に育つらしい。
こうした木々がこれから領内に広がることになる。結果が分かるのは数年後になるであろう。
月が変わると儂だけでなく、全ての戦の関係者が筑紫館のふもとの建屋で寝泊まりするようになった。呼び出しがあれば直ぐに駆け付けられるようにじゃ。
これはもう評定ではない。軍議じゃ。
殿からも戦場と思えと、わざわざお達しが出された。
その後に女中も全員引き払われることになり、久しぶりに自分で炊事をしておると、なるほど本当に戦場にいるような気がしてきたわい。
博多の政務は薦野に任せておるし、儂は勝尾城で留守番をしながら高所から全体を睨むことになるじゃろう。
じゃから比較的に気楽な立場で心を高揚させていた。
ここが戦場であるならば儂にとっては大殿が亡くなって以来の戦場となる。
今日は急な呼び出しがあり、儂は筑紫館に足を進めていた。
儂が寝泊まりしている建屋の隣が筑紫館だ。
普段であれば移動の苦労はないんじゃが、筑紫館へ続く坂のふもとにコンクリートの壁が完成してしまった。
そのためハシゴを使って、苦労して超えて行かねばならぬ。
この壁は立花城と同じものだが、一見して壁と分からぬように木々の枝が取り付けられてあった。
壁も偽装も孫が主導して作ったものじゃ。
儂の孫太夫は元服もすませ、殿が烏帽子親になり、貞知と名乗るように言われ、すっかり一人前だ。
爺はただただ嬉しい。
よいせっ、と。
ふぅ、苦労して壁を越えておるが、孫が作ったものと思うと苦労が嫌でなくなるのは不思議なものじゃ。
次は下らねば、下る方が足を踏み外しやすい、一歩一歩確実に降りる。
降り終わるとすぐ近くが目的地だ。
その筑紫館の前で息を整える。
長年仕事をしていた安心感を与えてくれる館じゃ。
ここを離れてたった一年ほどであるのに懐かしい思いがした。
中に入り広間に足を踏み入れると、各々方が待っておった。
殿はまだおらぬか。そろそろ上に立つ人間が最後に来る事をご理解頂いたかのぉ。
島に弾正、そして最近召し抱えた宗仙も席に着いていた。宗仙の出自を知るのは殿と儂と島だけじゃ。
想像よりはずっと穏和な男であった。
宗仙の元の名は高橋鑑種。
大友から毛利に寝返り、水城で殿に討たれた男だ。
殿がどのように説得して招き入れたのかは分からなかったが、実力は確かじゃ。北九州から毛利の所領まで、人も地形も熟知している。
心配はあるものの兵を率いることができる武将は一人でも欲しい。
今山の戦いの様子を聞いて、その思いは益々強くなった。
もう一部隊。数百でも率いる事ができる将があの場におれば結果は違っていた筈じゃ。
一人一人挨拶を終え腰を下ろしてしばらくすると、殿が広間に入ってきた。手には盆を持ち、盆には人数分の湯気が出ている椀が乗せてあった。
殿が苦労をかけるな、と労いながら皆に椀を渡していく。
全員がそろったのを見計らって茶を淹れておったのか。姿を見せるのが遅かったのはそのためか……宗仙殿が笑っている。
時おり見受けられる殿のこうした破天荒なところは直らぬのぉ。
殿から飲むように催促されて皆が口を付ける。
殿が最近凝っておられる茶じゃ。たしか煎茶という。
定まらない心が、ほっと落ち着くような味だった。
殿は席に着いて、皆が飲むところを見て満足されたようだ。そして頃合いをみて「紹介したい者がいる」と声を掛けられた。
「入ってこい」
殿の声で入ってきた男は精悍な顔つきの男。二十代後半といったところか。
「原田新五郎殿だ。当家で保護している草野殿の実の兄にあたる」
「原田新五郎親種と申しまする。よろしくお頼み申す」
原田氏か。確か高良山でよしみを通じたと殿がおっしゃっていた。ここに来たという事は助力を得られたか。




