第84話 首の傷
1570年8月 肥前 今山 鍋島直茂
皆が死んだ、皆が……。
坂の下にいる筑紫の兵が三千、まさに登り始めようとしていた。
想定よりも現れるのがずっと早い。明るくなる前からついていた火は、やはり食事の火だったのだ。
奇襲が露見されていたのだろうか。
だがそれにしては対応が中途半端だ。奇襲の確信がなかったのかもしれない。それとも上役が信じなかったのか、いずれにせよ幸運はまだ残っている。
筑紫の三千の兵に混乱している様子は見られなかった。あ奴らが来るまでに決着をつけねばならぬ。
博多の兵らの落ち着きぶりとは逆に、坂の上の敵の混乱振りは想定以上だった。百武と鴨打が上手くやっているに違いない。
もしや最高の結果が得られたのかもしれない。そう思えるほどの混乱振りだ。最初の決死の一撃で、よもや大将を討ち取ったのでは? 期待の気持ちが沸き起こる。
だが戦の音が続いていた。冷静に判断せねば。
大将が討たれていたならば戦の音は止まるはずだ。想定以上の戦果を挙げてはいるが、標的を打ち取ったわけではないと分析する。であれば自分たちの出番があるという事だ。気を引き締めねば。
鉄の音、叫び声、まだまだ鎮まる気配はなかった。
筑紫の三千はまだ坂を登り始めていなかった。混乱する味方が邪魔なのだろう。ならば待つべきだ。逸る心を押さえつける。仲間も同じ気持ちで隠れて待っているに違いない。
待つ間に少しずつ逃げ出す敵の数が少なくなっていった。
そして混乱する敵がほとんど居なくなると、ポツンと一人坂に残ったままの自分が目立ち始めた。怪しまれるのは得策ではない。上へ移動すべきか。
そう悩んでいると坂の下にいた三千が動き出した。一歩一歩、ゆっくりと坂を登り始める。
まずい。胸の鼓動が早くなった。
その時だった。坂の上からいかにも要人を囲っている様子の一団が現れた。
良質な装備を持った兵が、何者かを四方を壁のようにして守りながら移動している。
標的が来た。そう思った。
戦場で危機に陥った大将はその後に二種類に分かれる。その場で踏みとどまるか、逃げるかだ。
どちらが正しいという答えはない。大将が踏みとどまることで状況が好転することもあれば、逃げていれば助かっていたという例もあるのだ。
親貞なる武将について、どちらの選択を取る武将であるかは分からなかった。
だがまだ少年だ。周囲が逃げるように説得するに違いないと睨んでいた。
どうやら賭けには勝ったようだ。
よし、今だ、いけ!
横目で隠れている味方の場所は確認していた。絶好の好機で十七名の戦士が襲い掛かった。
敵の方陣が崩れ、中の様子があらわになる。
その中には大友の家紋を付けた武将がいた。若い、少年だ、標的に違いない。
標的を目掛けて戦士たちが襲い掛かる。討て! 心の中で叫ぶ。
だが少年が何かを投げつけ、刀を振るうたびに味方が倒れていく。若さに似合わない手練れだった。
ああ、禿島、刑部、倉町……見知った顔が次々と膝をつく。頭から地面に落ちる。
最後に馬乗りにされて刺された標的は……無事であった。急所を外したのだ。
そして皆が死んだ、皆が……。
届かなかったのだ。
だが無駄死にではないぞ。
目の前には隙だらけの武将がいた。
敵は今、倒れた兵らの治療に夢中になっている。自分はじりじりと近づいていく、誰も注意を払っていない。
こうした時に指示をするべき副将にあたる人物が不在なのだろう。
皆が目の前の事しか見ていなかった。
好機だ。
標的は隙だらけなのだ。もう数歩……。
この若い大将の首を切るのだ。そのために皆が命を散らせたのだ。
自分は慎重に様子を伺いながら、まるで味方が心配をするかのように近づいた。
標的の背丈は大人と変わらないが、まだ幼さが残った顔つきだ。細めの体で、鎧を脱がされた首には大きな傷があった。
首の傷……。
首の傷、どこかで聞いたぞ。親貞の特徴ではない。
首の……そうだ、空閑言っておったではないか。
『筑紫広門、齢十四、首にある傷が特徴』
こやつ、親貞ではない! 筑紫か!!
だが大友の具足を着ていたぞ。
そうか、影武者なのだ。
本物の親貞はどこだ? 近くに居るのか!?
――近くに一人、地面にへたり込んでいる武将がいた。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。静かすぎて気配を感じなかった。不思議な空気をまとった少年。
自分は落ち着きを払い、味方を装ってゆっくりと近づいた。
「御無事でございましたか」
相手の目線に合わせて膝をつき、肩を掴んで顔を確認した。
「親貞様でございますな?」
「うん? ああ、そうだよ」
その受け答えは育ちの良い貴人のようなものを感じさせた。
だが、諸行無常。
「御免っ」
鎧の隙間に小太刀を通して心の臓を突き刺した。目から光が消え、口から一筋の血が流れ落ちる。
下で「殿」と叫ぶ声が聞こえる。もう遅いわ。
「大友親貞、討ち取っったりいぃ!!!」
立ち上がり空を向いて腹の底から大声で叫んだ。坂の上でまだ戦っているはずの百武や鴨打らに聞こえるように。地獄に行った仲間たちにも聞こえるように。
筑紫が呆然とした顔でこちらを見ていた。
高揚感と、してやったりという小気味の良さが上手い具合に混じり合う。
「鍋島孫四郎直茂である! 筑紫だな!?」
否定の声はなく、驚いたような顔で本人だと確信した。やはりそうだったか。
坂の上からは鬨の声が上がり始めていた。自分の声が聞こえたらしい。
逃走の経路は考えていなかった。だが西側からバラバラに逃げるのが良いだろう。
「筑紫広門! いつぞやの借りは返したぞ!」
そう言って坂を駆け上がった。味方の顔が見たかった。ここには自分しかいない。
百武や鴨打は無事だろうか。
怪我を負っていたら、ここで死んではもったいないと元気つけてやろう。
坂を上がると、朝日が閧の声を上げる龍造寺の兵達を照らしていた。
『えい、えい、おー! えい、えい、おぉー!!』
勝った! 勝ったのだ!




