第76話 鍋島直茂
1570年4月 肥前佐嘉城 鍋島直茂
「来たぞ、来たぞ、来たぞ」
目の前で中将様(龍造寺隆信のこと)が大きな体でしきりと部屋を右へ左へと動いている。ここ最近で何度も見た光景だった。
「落ち着きくだされ、中将様」
「これが落ち着いていられるか! 大友め、九万の大軍だぞ! もはや毛利の援護もないのだ。どうしろと言うのだ!」
「落ち着きくだされ。死中に活を求めれば道も開きましょう」
不思議なほどに自分の心は落ち着いていた。
上に立つものが狼狽えてはならない、そのような必要性に迫られて落ち着いているのではなかった。
ただ自然体で、敵に囲まれた城にいることを静かに受け入れていた。不思議な心持ちであった。
諦めているのかと言えばそうではない。現に万に一つの勝ちを収めるためにも、中将様に強い御心が戻って欲しいと心底考えていた。
だが少なくとも今はその時ではない様だ。
中将様はようやく立ち止まると、今度は両手の爪を噛み始めた。
「へ、兵はいかほどに集まったか?」
「五千でありまする」
「少ないではないか! 周囲の国衆らが集まれば二万は集まるはずだ。う、裏切ったのか!?」
そう裏切ったのだ。中将様の娘で直系である、於安姫を嫁がせた小田でさえ裏切った。力で押さえつけていただけの他の国衆らはもっと容易に裏切った。
奴らは大友軍に合流し、高良山での決起集会に席を並べたらしい。
龍造寺の全軍二万のうち四分之三が裏切ったのだ。そして今は肩を並べてこの佐嘉城を囲んでいる。
「こ、降伏勧告は来ていないのか」
そんなものは来ていない。臼杵に出した降伏の口添えは握りつぶされた。
「中将様、籠城の準備があるので某はこれで」
部屋を出ようとする自分に投げられた盃を軽く避けて、早足で廊下を進んでいく。すると部屋から出るのを待っていた空閑がすぐさま近寄ってきた。
中将様が指揮を御取りにならなくなったため、自分が部屋から出るところを見計らい報告に来たに違いない。
空閑は龍造寺の忍びの棟梁である。今や最も重要な人物と言っても過言ではない。
今まで付き合いは薄かったが大変に頼りになる。中将様は今までこれほどの忍びをお使いになっていたのか。
昨年、大友に人質を出した人物を救出したのは空閑の手の者らしい。
「敵の大将の名が分かり申した」
「誰だ?」
死中に活を求めるとは言ったが、当主の宗麟は高良山に居座っている。寝首をかくことは出来ぬ。だが代わりとなる前線の大将がいるはずだった。
大将は誰だ?
「大友親貞、との名であるそうです」
親貞? 知らんぞ。道雪ではないのか。
「その者について詳しく調べ上げるのだ」
「はっ、それと今までのところで判明した敵の陣構えとなりまする」
「見よう」
近頃はそのまま廊下に居ながらにして指示を出すことが増えてきた。
渡されたのは少しばかり大きい紙である。広げるのが難儀であった。
ええい、このような場であるが四の五の言う時ではない。
廊下で座り込み、地図が書かれた紙を広げた。そこには何とも壮観な陣構えが描かれていた。臼杵、吉弘、馬場、高木、犬塚、有馬、大村……。
ふふふ、これが味方の軍であればな。
だが自分たちは攻められる側だ。
きらびやかに並ぶ武将たちの名前。この佐嘉城を囲むように北九州の勢力がずらりと並んでいる。
「神代も裏切ったか」
神代勝利、肥前では知らぬものがいない猛将だった。龍造寺と長きにわたり覇権を争い、ようやく打ち倒し、息子の代にあって臣従させたがやはり裏切ったか。
父親の勝利は数百人の弟子を抱える剣術の天才であり、一騎打ちで敵を打ち倒したこともある。
城内に侵入した暗殺者と酒を酌み交わし、五体無事で帰したという話はあまりにも有名だ。
なるほど、奴の息子が裏切ったならば、周辺の国衆が裏切るのに躊躇するはずがない。
敵陣には中将様の娘が嫁いだ小田の名前もあった。
「はっはっは」
どうしようもなく、思わず笑う自分を部下が驚いた顔で見ている。
「敵将の大友親貞は今山に布陣したか」
今山は東西の間の中央にあって味方への連絡が行き届きやすく、それでいて高さがあり遠くを俯瞰できる場所だ。
だがその今山の西には誰も布陣していなかった。
あの辺りは湿田で、水が引くことがない沼の様な場所だ。そんなところに布陣する武将がいないことは理解できない事ではない。
だがそれでも大将の隣を空けておくとは……空閑からの報告通り油断していると思った。
文字通り泥を被ってでもここに布陣して大将を守ろうと言う気概がある武将がいないのだ。あるいは大将と信頼関係がない。
だから大将も湿田の上に布陣しろと沙汰をくだせない。
ここは明確な穴だな。
今回も空閑は良い知らせを持ってきてくれたようだ。
今山の東側は陣が置かれていた。西に誰もいないのであれば東は最重要だ。
最も信頼している兵を置くであろう。でその親貞の東側を見ると、そこには筑紫の名があった。
「筑紫め、やはり来たか。前回の雪辱は果たさせてもらうぞ」
力が入って、手が握りこぶしになる。
筑紫は昨年の龍造寺と大友の戦から台頭を表してきた勢力だ。もう無名だった前回とは違う。
今回は例によって空閑を使って十分に調べている。
父親から所領を引き継ぎ四年目。齢は十四。鉄砲を多く取り揃え、夜襲と奇襲に秀でており寡兵で猛将の高橋を討ち取っている。
元就が死んだのも病ではなく、戦場で筑紫に撃たれたのではという真偽定からぬ報告もあった。
それによる功なのか分からぬが、今年に入って博多を治めている。
昨年は騎馬を操って佐嘉城の門を突破してきた。自分はこやつに追い立てられたのだ。忘れぬぞ。
外見は少し細い、背丈があって首に深い傷があるのが特徴だと報告を受けていた。
「直茂様、籠城の備えが締まり申した」
廊下で布陣図を見ながら考え込んでいると、次の部下が数字が書かれた紙を渡してきた。
素早く目を通す。
そこには兵糧が一年、矢玉と油は十ヵ月は戦えるだけの数字が書かれていた。
「よくぞ集めた」
これは近隣の国衆から限界以上に集めたものだ。どうせ裏切るのだ。遠慮なくかき集めた。文句を言う輩には裏切るつもりなのかと詰め寄ると、後ろめたいところがある彼らは強く出ることはなかった。
これで味方の兵糧を十分に集めただけでなく、敵の兵糧も削ることが出来ただろう。
敵は九万もの大軍勢だ。兵糧が一年も持つとは思えない。
肥前近隣の国衆の性格はよく分かっている。秋になれば抜け出す輩が出てくる。冬には一人も残らないはずだ。
大友が力で押さえつけようとも、密かにいなくなる百姓まで止めようがないのだ。
敵の兵糧が無くなるまで籠城する。これは数字の上では現実的な策となった。
ただ籠城は兵の心を強く保たねばならない。そのためには中将様に強い御心を取り戻して欲しかったが……。
敵の布陣が完成したならば、すぐにでも攻めかかってこよう。中将様に頼るのではなく、自ら味方を鼓舞しなければならぬな。
「皆を大広間に集めよ。戦じゃあ! 九万もの大軍の前に、恐れを知らぬ肥前の勇者たちへ激をとばすぞ」




