第75話 於安姫
1570年3月 高良山 於安姫
桜のつぼみが開くころ、大友に臣従するため夫と共に高良山を登った。
私という妻がいながら龍造寺から大友に下る決断について、夫は迷う事はなかったようだ。
こうした事態での夫の決断は素早く単純かつ明瞭で、手際が良いものだ。夫はただただ知人や領民の命が最も多く助かる選択をとる。
それぞれの立場や誇りといったものは一切に考慮に入れない。妻である私が龍造寺の娘だったとしても、それを考慮しないのだ。
夫はたぶん、そういうことを思い付きもしない。武士も百姓も、長年仕えていた人間も外から来た人間も、能力も美しさも、その全てを平らかにして考えてしまう。
そんな抱えきれないほどの大きな器をもっている夫がたまらなく好きだった。
「よく来たね、小田新九郎鎮光。僕らが肥前に入る前にこちらに来た事は称賛するよ」
「この度は臣従を御認め頂き、感謝いたしまする」
夫が隣で頭を下げている。その相手は大友親貞。隣には九万もの大軍を集めた大友宗麟がいる。
宗麟が口を開く気配はなく。全てを弟の親貞に任せているようだった。
親貞……若く幼いと思った。
まだ少年ではないか。それなのに差配していて、それを宗麟が認めている? なぜそうなっているのかは分からないが、重要人物であることは間違いなさそうだった。
「それで、そちらが龍造寺家に残った唯一の直系、そして龍造寺隆信が娘、於安だね。噂通りの美しさだ。歓迎するよ。出立前には身柄を預かるからね。傷一つ付けやしないから安心しなよ」
こちらを舐めるように見て言っている。気持ち悪い。
要は人質なのだが了承するしかなかった。どのみち戦が始まったら夫と共にはいられない。大友が用意する安全な場所で待つ他ないの。
「はい」
「新九郎も矢面に立って戦えとは言わないけど、陣は構えてもらうからね。武名を聞かないし、だけどそのくらいは出来るでしょ」
夫の名を呼び捨てにするこの少年はいったい何者なのだろうかと思う。当主宗麟の弟で、この場で暴虐にふるまっている。
もしや戦の後の肥前の支配をこの少年が担うのではないか。
ありえそうな話だと思った。大軍を率いて肥前を攻め落とせば箔も付く。反対できる人間はいなさそうだ。
だがそうなれば私は……。
会見はつつがなく終わり、高良山の敷地を夫と共に歩く。各地の国衆がこの地に集まったことで、まるで祭りのようだった。
ジロジロ見られるのは私が女だからだろう。こんな所にいる女なんて何物なんだと思われているに違いない。それは理解できるが、まったく! 色目を使う男はぶん殴ってやりたい!
「於安の身柄を預かってくれるとの事で安心した。戦が始まったらどうしようかと思っていたからな。親貞様はお若いのに気が利く方のようだ」
お優しい新九郎さま。私が人質に送られるなんて思ってさえいない。あの少年が気を利かせて身柄を保護したのだと信じている。
「そうですね。新九郎様も戦でお怪我がないようにお気を付けください。於安は心配です」
「大丈夫だ。私は荒事は苦手だから。親貞様も前には出さないと仰ってくれたではないか」
そうだといい。
だが私という女を妻にした夫は龍造寺の筆頭国衆だった。それを前線に立たせて忠誠を試すのはありえそうなことだ。
あの少年の言葉を信じて、そうならないように祈るしかない。
ふふふ、そう、本来なら筆頭国衆なのだ。そのことを夫は何とも思っていない。夫を一門に加えて借りを作ったと思っているのはあのクソ親父だけなのだ。
実に痛快だった。
実の父ではない、養父で、本家を乗っ取ったあのクソ親父が焦っていると思うと気分が良かった。
「新九郎様は刀の免許皆伝を頂いているではありませんか。御自分を卑下するようなことはお辞めください」
「そうは言っても実戦とは違うものだよ……うん? あれは親貞様ではないか?」
夫が急に変な事を言いだした。それ自体は珍しくはないが。
「そんな、さっきまで話をしていたのに、こんな所へ御出でになられるはずがないわ」
夫の視線の先を見ると、たしかに少年がいた。だが近づいていくと親貞様とは背格好が似ているものの、違う少年だ。こんな場所に年頃の少年がいるのは奇妙だった。
こんな場所にいる女の私が言うのも変ではあるけれど……。
「やぁ、私は小田新九郎鎮光という者だ。お初お目にかかる。君はどちらから来たのかな」
こういう夫のところは本当に尊敬する。政略結婚で荒れていた私の心を解きほぐしてくれたのは、まさにこうした部分だ。
少年は突然に挨拶をされて一瞬警戒の色を出したが、夫の顔を見るとその警戒が無くなるのが分かった。
初対面の夫は無警戒で、純真で、ただただ仲良くなりたいという子供の様な心で接してくる。そしてそれは顔を見るだけで分かってしまい、相手は警戒しなくなるのだった。
「お初お目にかかります。筑紫俊介広門と申します。どうぞ俊介とお呼びください」
俊介と名乗ったその少年は笑顔で夫に右手を差し出してきた。夫は無警戒でその手を掴む。すると少年は手を上下させた。
ハンドシェイクというバテレンの挨拶だったかしら。
「筑紫……博多を賜った噂の若者か。ははは、もっと凶暴な人間かと思っていたぞ」
夫の失礼な挨拶に、筑紫殿は気を悪くする感じはなかった。
「小田殿でありますか。ということは隣にいらっしゃる女性は」
「私も新九郎で良いよ。こちらは妻の於安だ。宗麟様から臣従するのであれば連れてくるように言われてね」
私も挨拶をする。
「於安と申します」
「なるほど、それは大変な事ですな」
俊介殿は私をちらりと一瞥しただけで夫に向き直った。道中の男どものようにジロジロ見られるのは問題外だが、私ほどの女に全く興味を示さないのも失礼だと思う。
「大変とは、どういう事かな?」
「この戦に勝っても負けても、新九郎殿には大変な試練が降り掛かるという事です」
「ふむ、詳しく聞かせて貰えるだろうか」
夫は俊介殿の言いたい事を分かっていないようで、素直に詳しく話を聞こうとした。
「お考え下さい。大友が勝利すれば肥前は大友領となりますが、その後の統治で混乱を起こさず平穏に治めるにはどうすれば良いでしょうか」
「権威あるお方が治めれば良いのでは? 例えば先ほどの親貞様とか」
「そうですね。しかしそれだけでは不十分です。ですから例えば、お隣の於安様を新九郎殿と離縁させて、その親貞様に嫁がせる、とか」
その話を聞いた夫の顔は真っ青になってしまった。考えたこともなかったのだろう。
私は努めてその可能性を考えないようにしていたのに、この少年は、余計な事を!
「あくまで可能性です。此度の戦で大友が龍造寺に厳しく当たり、力を見せつけ国衆の反抗する気力を削ぐという方法もあります。大軍勢で武威を示して短期間で佐嘉城を落とす事ができれば、於安様を大友の身内に取り込むような気を遣う必要は薄まりましょう」
その話を聞いて夫は安心したようだが、短期間で佐嘉城を落とす。そんなことが可能なのだろうか。
昨年も大軍を率いていたのに苦戦していたではないか。
「それよりも負けた場合です。大友が敗戦した場合、龍造寺が小田殿を許すとは思えませぬ」
「負ける? この大軍がかね」
「考えたくありませんが……考えておかねばなりますまい」
九万対五千だ。負けるはずがない。
何を言っているのだ。この少年は。夫をいたずらに不安にさせないで欲しい。
「万一にそのような事態になれば、もはや肥前に平穏の地はない。それはお分かりでしょう」
確かにその通りだが負けるはずがない。夫もこれには疑問のようだ。
「念のためです。念のため。ですが万一の際にはどうぞ筑紫にお逃げください。悪いようにはいたしませぬ」
これが大友親貞と筑紫広門。実に対照的で、印象深い二人の少年との出会いだった。




