第52話 船出
1569年12月 玄界灘 五郎太
冬の玄界灘の風は冷たい。船は博多から豊後まで順風を受けながら九州の北海岸にそって進んでいた。
「姫さん、船内に入りましょうよ。ここじゃ風邪をひいちまう」
船酔いで気分が最悪だ。
本当は口も開きたく無かったが、一番体調がマシだったのが自分だったのだ。そのせいで今だけ琴音様のお付きのような事をさせられている。
自分が周防組の中では若手で、以前は小姓だったであろう、と言われては断る事など出来るはずもない。
下っ端に押し付けようかとも思ったが粗忽なおっさんしかいない。諦めて船旅中は姫さんの近くに居ることにした。
船が揺れる中、何故だか元気な姫さんはずっと海を眺めている。
「ふふふ、五郎太さん、船室にいると船酔いが酷くなるそうですよ」
笑顔で話す姫さんの言葉に、確かにそうかもしれないと思った。目の前の女性は出航してからずっと外で風を浴びている。だから酔わないのか?
船室は酷い匂いが充満して地獄だ。たしかに外にいた方が良いのかもしれない。
「それに私はもう俊介様と祝言を済ませていますから、姫ではありませんよ?」
そんなこと言われても田舎者の五郎太にとって、十代の美しいお偉いさんの娘がいれば、例えそれが当主の妻であろうとお嬢様にしか見えない。
こんなお人形さんみたいな子を相手に奥様とか御方様って呼ぶのは変だろぉ?
そんな風に思ってしまう。
そういえば背丈は大人程伸びたとはいえ、まだ顔つきの幼い殿の事を『殿』と呼ぶことに最初から違和感はなかった。
自分の中に疑問を感じつつも、やはり姫さん……奥様には船室に移動して欲しい。
波は高くないとはいえ、海の上では何があるか分からない。万一の心配があった。
「そんなことより、やはり船室に戻りましょうや。ずっと海ばかり見ててもつまらないですぜ」
「そんなことありませんよ。例えば左に見える島は大島と呼ばれているそうです。その後ろには遠くて見えませんが、沖ノ島と呼ばれる宗像の神聖な島があるそうです」
「はぁ」
誰にそんなことを聞いたのか……なんだか嬉しそうに話されても船酔いが酷い自分には興味が全くわかなかった。
「それに右手に見える海岸には、この間まで毛利の船がたくさん来ていて、俊介様が近くまで寄ったとおっしゃっていたわ」
右手、船上からだと分かりにくいが、確かに自分にとっても印象深い風景が遠くに見えた。
こんな所まで来ていたのか。戦ではたぶん、あの辺の木の上に登って銃を構えていたはずだ。
そういや結局、金一封はいただけなかった。代わりに無くした具足と、実家の年貢が免除された。
総じて見れば金一封貰うより儲けているのだろうが、自分の手元には何の銭も残っていない。
今、姫さんの面倒をみる貧乏くじを引かされている事といい、自分には運が回ってきていない様な気がした。
「そういえば五郎太さんは、ずっと戦で俊介様と御一緒だったとか」
「はぁ、まぁはい」
「戦場での俊介様はどのようなご様子ですか?」
なんと答えればいいのだろうか。めちゃくちゃで、いつも死にそうな目にあってまっせ。なんて言えるはずもない。
「えーと勇猛果敢で……」
適当に話そうとしたが姫さんがジッとこちらを見ている。これは真剣に話さないとダメだなと思って話を止めた。
それで子供に話す感じではなく、大人の女に話す様な感じで、自分なりに丁寧に説明しようとした。
「俊介様が指揮する戦は──信じられないほど死傷者が少ないっス。それにだいたい勝っていやすし、強いと思いやす。だから安心していいんじゃないですかね」
五郎太にとって我ながら会心の説明だった。しかし姫さんは反応を示さずこちらを見つめたままだ。
俺が知っている女は、強いと言った後にだから銭を稼げるんだと見せつければ、凄い男なんだと感心して、歓声をあげ身を任せるものだった。
予想の反応と違い、ずっと見つめられ思わず気圧されてしまう。それで慌てて言葉を継ぎ足した。
「り、立派な頼れる大将ですぜっ。訓練中なんか怖ええくらいですし」
「怖い?」
「え、ええ。喧嘩とかしたことねーんですかい」
水城じゃ結果的には虐殺のような戦になった。
それを淡々と命令を下す殿は頼れると同時に怖さを感じる。
「けんか……ないわ。いつもお優しいし」
そう話すと周りをキョロキョロしだした。
「俊介様はどちらにいらっしゃるのかしら」
「さっき船倉に降りて行きやしたぜ」
教えると姫さまは、たったったと軽やかに船倉の入り口に向かってしまう。
「あぶねぇですぜ!」
旅の合間、普段よりなにやら活発な様子の姫さまがそんな注意で止まるはずもなく、開いた入り口からさっそく下に降りようとしている。
自分は上で落ちないか見ていればいいのか、それとも飛び降りて下から支えればいいのか迷っていると、姫さまはそそくさと降り始めた。
「滑るんで気を付けてくだせぇ」
と声をかけた瞬間、キャッ、と声がして、船倉の入り口に出していた小さな頭が落ちて消えてしまった。
マズイ、と思い急ぎ船倉の中を覗き込む。
落ちてしまったか。
高さは無さそうだが無事だろうか。
すると船倉に落ちた姫さまは、何故だか亭主の腕に抱かれており怪我一つないご様子で殿の首に抱きついていた。
ホッとしつつも馬鹿らしさで拍子抜けしてしまう。
怪我しないで何よりだが、釈然としない。船酔い気分の胸の内が甘ったるいものに置き換わった事を感じつつ、自分も船倉の中に降りて行った。




