第116話 前世、病院にて
20xx年某月 xx病院
病院の窓から見える景色というのは、どうしてこうも殺風景に見えるのか。
労災と保険が下りるので、高校時代の友人の病院で少し広い個室を取ってもらえたのだが、体が動かなければ広い部屋も意味がない。
部屋の中が夕焼けに照らされて、そろそろ面会不可の時間帯に差し掛かろうとした頃、ノックの音がして部屋に人が入ってきた。
すっきりとまとめた黒髪に、仕立ての良いグレーのパンツスタイルを着こなして、いかにも会社帰りという服装。
急いできたのか少しだけ汗ばんでいる。
久しぶりに見た妻の顔だった。少し髪が伸びたようだ。
荷物を胸の高さまで掲げて、私を見つけて声をかけてくる。
「久しぶりね。着替え、持ってきたわよ」
「ありがとう。仕事は大丈夫だったのか?」
「帰ったら続きをやるわよ。それにしても船のマストから落ちるなんてね。電話で聞いた時は叩きつけられて死んじゃったのかと思ったわ」
妻はそう言ってハンドバッグをベッドの上に放り投げると、部屋に備え付けられている花瓶に水を入れて、持ってきた花をテキパキと生けてくれた。
「ハーネスを付けていて助かった。ただ風が強くてな。落ちた時にマストの柱に叩きつけられてしまった」
「体は動くの?」
「肋骨と内臓がやられてめちゃくちゃ痛い。痛み止めの点滴を打ってもらっているけど、効いてる気がしないんだよな。まぁ我慢すれば動けるよ」
俺は肩をすくめながら、どうしようもないという風に答えた。利き腕を使うと肋骨が痛い。歩けば響く。
ただ我慢すれば何とかなる。
花を生け終わると、妻は部屋に置いてあった椅子をベッドに寄せて俺の隣に座った。足を組んだ様子が様になっており、昔から変わりがない。誰が見ても敏腕のキャリアウーマンだ。
「……私ね、いい人を見つけたの」
「そうか」
とうとうこの話が出たか。時間の問題ではあった。今まで話題に上がらなかったのは単に会う機会が無かったからだ。妻としてはもっと早く話したかったに違いない。
「別にあなたの事が嫌いになった訳じゃないのよ。ただね、私は子供が欲しいのよ。仕事的にもキャリアを傷つけずに作るには、もうこのタイミングしかないし。はぁ……ほんとうに、なのにあなたったら」
抑えていた感情が爆発したのか。ガタッと椅子から勢いよく立ち上がるとまくし立てられた。
「もう信じられない! 私たち顔を合わせたの半年ぶりよ!? 何でそれが病院のベッドの上なの? あなたが忙しいのは知っていたけど、私より家にいないとは思わなかったわ」
ずいぶんと会っていないと思っていたが、半年ぶりだったか。ずっと研究室か出先で寝泊まりしていた。離婚はしかたないだろう。逆にすまないという気持ちが強かった。
「はぁ……。はい、これ」
言いたいことを言い終えたのか、髪をかきあげると、紙束をばさっとベッドの上に置いた。
そして今度は乱暴に椅子に座りなおす。
流石に話しづらいのか視線を窓に移していた。唇が遠慮がちにゆっくりと動く。
「それは離婚届と、私の弁護士の連絡先と、あとマンションの査定。高く売れるみたいよ。離婚届は私のサインはしてあるから、退院までに必ず出してね。そうじゃないと彼のご両親へ挨拶もいけないから」
「分かった。必ず出すよ」
痛みを我慢しながら手を伸ばして書類を取った。
マンションは結構な値段で売れるようだ。売らないで欲しいとも思わなかったが……。
中身に目を通しながら、沈黙に耐え切れずどうでもいいことを聞いて雰囲気を誤魔化す。
「彼ってどんな人だ?」
「あなたと違って家庭に入ってくれそうな人。反省したの。わたしたち似た者同士で上手くやれると思ってたのに、こんなになっちゃったし……。ああそうだ、これはあげる」
コロンと置かれたのは結婚指輪だった。外して来ていたのか。
「家に全然あなたの私物がないけど、どこに送ればいい?」
「大学の研究室宛てに送ってくれ」
「そう。研究室の子たち、来てたのね」
ベッドの脇に置かれた、何やら学生からのメッセージが添えられたバスケットを見ながらそう呟いた。他にもノートPCやらスマホといった道具も持ってきてもらっている。
「こういう学生に人気があるとこも惚れた理由ではあるけれど、駄目ね。私より学生を見てるんだもの」
そういうとバッグを手にして立ち上がり、帰るそぶりを見せる。最後かもしれない。
「すまなかったな」
「ほんとうにね! 財産半分ずつにするんだから感謝しなさい。わたしの方が稼ぎが多かったんだから。別居状態みたいになっていたんだから半々にはならないのよ? でも私は早く次の結婚がしたいの。あなたと争いたくないわ」
付き合い始めの頃の話し方を聞いているようで、深刻な話であるのに笑みを浮かべてしまった。
妻は変わっていない。自分も変われなかった。それでこうなった。それだけだ。
「なに笑っているのよ。あなたもね、もし次に結婚するならよく考えた方がいいわよ。あなた船乗りみたいに家に帰ってこないじゃないの。私みたいのは無理だし、家で待っている子も無理よ。もうずっと船までついてくれるような子を探した方がいいわよ。それじゃあね。さようなら」
扉が閉まり彼女がいなくなると、心の隙間を埋めるように次の事を考えだした。
思いがけない二カ月ほどの時間だ。メールや電話を片付けても時間だけはある。
動くと痛いが……根性の見せ所だな。
本気で勉強すれば来年受けようと思っていた資格試験に今年間に合うかもしれない。余計な事を考えずに何かに打ち込んでいた方がいい気もした。
教材は研究室に置いてあったな。面倒だ。心機一転で新しいものを買い直してしまえ。インターネットで購入画面を開いてクリックする。
怪我のせいで小型船舶の試験は次回までお預けだ。こちらの筆記試験は自信があるので後に回してしまおう。
「動画でも勉強しないといけないからイヤホンも買わないとな」
医者の友人の名前を使って病院宛てに必要な物の購入が終わると、病院の廊下をバタバタと走る元気な子供の声が聞こえてきた。
夕陽がビルの隙間に隠れ始め、面会時間が終わって帰るのだろう。つまらない病院での用事が終わって子供は嬉しいのかもしれない。
……妻は子供を欲しがっていた。それに気づいてもやれなかった。子供がいれば違ったんだろうか。
だが俺みたいのは難しいに違いない。結婚して別れて、やっと互いにその事に気づいたのだ。お笑いだな。
自分のこと、彼女のこと、真剣に想えば気づいたはずだ。
つまるところ俺という人間は家庭というものを真面目に考えられない人間なのだろう。世話をしている学生のことは考えられたので、勝手に家庭的な人間だと自分のことを思っていた。馬鹿みたいだ。
夕陽が落ちて部屋が暗くなり、心がどうしようもなく沈んでいく。
他の事を考えるべきか? いや、どうせ教材が届いたらそちらに集中できてしまうんだ。それまでくらいは暗い気持ちで過ごそう。
そんなものが贖罪になるとは思えないけれど……。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回から3章です。
4章までなんとか頑張りたいと思います。
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