#12 彼女は答えを手に入れる
遥野署の前で公用バンを降りたときにも、明日香はまだ混乱する頭を抱えていた。
「どうして気付かなかったんですか」
「どうして、って、ぼくに言われてもなあ」
「いくらなんでも、男って。一緒に暮らしててそれはないでしょう」
「わかんないよ。あそこってたしか、一時は〝手術〟で有名だった国だろ?」
下腹部を払うような君塚の仕草で、それが性転換手術のことだと気付く。
「それはそうかもしれないけど、でも……〝それ〟だけで……」
署内では、慌ただしく人の出入りが行われていた。
国見美由紀の件にそれほどの人員が割かれるがとは思えなかったが、いつもとは違う雰囲気に明日香は君塚と顔を見合わせる。
「よぉ、こっち」
入り口奥にある喫煙スペースの前で、山下が手を上げた。いつもと同じ穏やかな表情だが、肌と笑いにどこか力がない。
「山下さん、お疲れのようですが」
「ああ……今朝がたの土砂崩れで、ちょっとね」
明け方に遥野市の北部に位置する山地で大規模な崩落が発生しており、そのニュースは明日香も耳にしていた。幸いにも人的被害は無かったが山岳部に抜ける県道は完全に塞がれ、現在も車両通行止めになっている。流通業者などはかなりの迂回を強いられ、一部では少なくない経済被害が出ているらしい。晴天にも関わらず発生した自然災害に、市の管理責任を問う声も上がっていた。
「警察でも復旧支援を?」
「それもある。それに、まあウチ向けのトコもちょっとね」
山下は言葉を濁した。職務として口外できない部分なのであれば、明日香たちが口を挟むことではない。山下が言外に示したのはつまり、事件性も考えられるということだ。
――もしかして、崩落が人為的なものだった可能性もある……?
明日香はその言葉を呑む。武生たちがなにを考えているにせよ、そこまで大掛かりな行動を起こすとは思えなかった。
「狭いとこで悪いんだけど、ここしか空いてなくてね」
刑事課の端にある応接スペースに二人を座らせ、山下は自分の席からファイルを抱えて戻る。佐藤の指紋は、実家近くの警察署に保存されていた。中学時代に起こした傷害事件のときのものだったという。
「中学生で傷害」
「というほど大袈裟なもんじゃない、やりすぎた喧嘩ってとこらしい。佐藤は高校を卒業して実家を離れた後、ほとんど家には帰っていないそうだ」
狭い田舎町ということもあり、町の人間は佐藤の両親が亡くなった後も彼の消息をある程度は知っていた。
「出入国記録を確認したが、六年前から帰国していない。最後のビザは、ここだな」
山下は、ファックスで送付されてきた〝国見美由紀〟のパスポートを指す。
「この国名を聞いて思い浮かぶものってなんだい?」
未知香は南国産フルーツとリゾートビーチの名を挙げた。君塚は整形と性転換手術。山下は指折りながらそれに同意し、もうひとつあると続けた。
「あまり知られていないが、身分証の審査が甘いんだ。パスポートの偽造が――というか、国が発行するんだから正規のパスポートになるんだが――何度か摘発されている」
現在のところ国際問題化していないのは、偽造パスポートの温床と言われるほど活発ではないからだ。国自体の信用評価が低いため犯罪行為に使い難く、あまり需要がないのだ。
「国ぐるみとか犯罪組織がどうのっていうわけじゃなく、個人の小遣い稼ぎといった感じだな。離島を中心に戸籍の売買も行われていて、噂じゃ百ドルを切るほどらしい。百ドルっていうから……一万円てとこか」
安いな、と山下は呑気につぶやく。
「現地で死んだことになっている国見美由紀は、生きて日本にいます。あの佐藤って人も。じゃあ、二人の美由紀はその偽身分証で入国したってことですか」
「そうかもしれないけど……わからないのは、なんで佐藤は国見美由紀の名前を使ったんでしょう? わざわざ身分偽造するならまったく違う名前にすればよかったのに。そうすれば誰にもバレることなく……」
「バレたかった、ってことじゃないのかな」
山下の言葉に、明日香は顔を上げる。
「指紋が出たって言っただろう? あれ、写真立てのなかにある台紙からだったんだ」
山下は手の平を重ね合わせる。
「かなりの力で、指紋どころか掌紋までくっきり付けられてた。どう考えてもさ、見付けて欲しがってたんだよ」
それはもちろん、市役所や警察にではなく武生から、だったのだろう。それなのに、武生は最初から最後まで〝彼女〟と向き合おうとはしなかった。
元はといえば犯罪と呼べるようなものではなかったのに、〝美由紀〟はわざわざ自分から事件になるよう仕向けていた。偽の身分証を送ってきたのも本人、証拠を残したのも本人だ。
――なんだか最初から、関係が壊れることなんてわかっていたみたいだな。
武生の家で〝美由紀〟の写真を見たとき、明日香はそう思った。寂しげな笑顔と、カメラから逃げるような仕草。あれは〝彼女〟にとって、初めから期限付きの暮らしだったのだ。
「で、武生の方はいま佐藤のところに向かってるのかい?」
「ええ、四時に鎬橋だそうですよ。われわれは、来るなと言われましたが」
「その方が良いだろうね。後はわれわれが引き継ごう」
明日香は時計を見る。午後二時五十五分。四時になれば武生とその〝内縁の妻〟、佐藤望との間で身代金の引渡しが行われる。
「未知香ちゃんは事件解決に間に合わないだろうな。可哀想に」
山下に言われ、明日香は曖昧にうなずく。姉はともかく彼女自身は、茶番の終焉を見られなくてもまったく残念だとは思わなかった。
君塚の携帯が鳴った。未知香からだろうと言いながら電話に出る。
「……はい。……そうですが」
山下は君塚のそばを離れ、制服警官となにかを打ち合わせていた。何人か連れて、鎬橋まで受け渡しの様子を見に行くようだ。
「……理恵子?」
強張った声を聞いて、山下と明日香が振り返った。
見つめる二人の前で、君塚の顔色が急速に変わってゆく。
「わかりました、すぐ向かいます」
深刻そうな表情で電話を切った君塚に、山下が声をかける。
「どうした、武生かい?」
「いえ、晴照ヶ原です。国見家の近所に住む、五十嵐ハツさんという方から。未知香ちゃんが、飛び出したまま帰らないそうです」
「飛び出したっていうのは?」
「自分が理恵子の話をしたからだと言っています。そして、国見美由紀は、旧姓・久保田美由紀。久保田理恵子の、姉だと」
「係長、未知香がどこに向かったかはわかりますか?」
「現場近くに住んでる、今西っていう理恵子の友人宅だ。ハツさんも心配になって行ってみたが、そこには誰もいなかったそうだ」
山下は傍らの部下に、短く指示を出す。現地の駐在所に連絡して、未知香の捜索に何人か割いてもらうように言った。
「誘拐事件と関連しているんでしょうか」
「しかし、晴照ヶ原に共犯者がいるとしても、せいぜい理恵子とそのツレくらいだろう。武生さんも美由紀も遥野だ。いま晴照ヶ原で未知香ちゃんを略取したところで、いったいなんのメリットがある」
「晴照ヶ原……晴照ヶ原か」
そうつぶやいた山下は、君塚に向き直る。
「ちょっと気になったんだが、さっき言ってた鎬橋っていうのは本当に遥野のかい?」
「え?」
「晴照ヶ原にも、しのぎばしって橋がある。〝凌ぐ橋〟だから字は違うし、見た目も橋というより遊歩道だけどね。武生は何時にここを離れたのかな」
昼過ぎに別れてからのことは、明日香たちも知らない。〝しのぎばし〟と聞いて、遥野の鎬橋とばかり思っていた。
「昼か」
山下は首をひねる。どちらの橋だとしても、昼過ぎに出たのであれば着くことは可能だった。……だとしたら。
「山下さん、昨夜からいままでに美由紀はなにか送ってきませんでしたか」
「最後のファックスなら、コピーを未知香ちゃんに渡したよ」
「なんて書いてありました」
オリジナルは山下が持っているというが、文面は短い物だった。
「たしか……〝無関係な人たちに干渉してほしくない。無用なトラブルに巻き込まれたくなければ、手を引いてもらいたい〟と」
自ら警察に送っている時点で、〝無関係な人たち〟が官憲を指しているとは思えない。SASについて言っているのだ。
そして……晴照ヶ原が本命だった場合、未知香はそこに真正面から手を出したことになる。
「容疑者がどこまで本気なのかわからなかったので、君たちには遥野での交渉から手を引いてもらったんだが」
裏目に出たということか。
「山下さんは遥野の鎬橋に行ってください。わたしは晴照ヶ原の凌橋に」
「明日香ちゃん、でもどうやって」
晴照ヶ原までは、電車でも車でも優に二時間はかかる。スピード違反云々の問題を除いても、そもそも直通の幹線道路や高速道路がないのだ。いくら飛ばしたところで二十分と短縮できないだろう。
「晴照ヶ原まで、一時間で着ける方法はないですか」
「残念だが、ないな。崩落事故で最短ルートは閉鎖中、迂回路はかなり渋滞している。ヘリならどうにかなるのかもしれんが、晴照ヶ原には着陸できるところがない。車なら急いで出た方がいいな。必要ならパトカーを出そう」
礼を言おうとする明日香を、君塚が即座に遮った。
「いえ、それは結構です」
「係長!」
「その代わり、向こうの警察にも橋まで行ってもらえるように伝えていただけますか」
「わかった、手配する」
「……ちょっと」
山下が電話をしに離れたところで、君塚が明日香の袖を引いた。振りほどいて向き直る。いまさら説教など聴きたくはなかった。
「係長、なんで断ったんですか! パトカーなら少しは早く……」
「間に合わないよ。午後四時どころか、夜までかかる。白バイなら少しはましかもしれないけど、それでも一時間じゃ到底無理だ。だいいち二人乗りはさせてくれないだろ」
「だったら、ここで黙って待ってろっていうんですか!」
「方法はある」
「え?」
「一時間で着ける方法も、あるって言ったんだ。多少……デタラメなやり方になるけどな」
君塚の照れたような表情を見て、明日香は君塚を見直す。いつものどこか煮え切らない姿から、真っ先に無難な道を選択すると思っていたのだ。
「任せておけ、すぐに準備するから」
「係長……」
頼り甲斐のある男らしい君塚を初めて見た気がした。いままで過小評価していたのではなかったかと、心のなかで反省する。
「それで、どうするんです?」
振り返った君塚は、グッと親指を立てて言った。
「餅は餅屋、傘は……傘屋だ!」
「……は?」
――やはり、頼りにするのは間違いかもしれない。
農道空港に隣接した倉庫の前で、明日香は翳りはじめた空を見上げる。公用バンのなかでツナギに着替えたのはいいが、連れて来られたのは遥野観光協会だった。質問する暇もなく君塚はどこかに消え、協会長と明日香だけが残される。遠くで響くエンジンの始動音が、彼女をさらに憂鬱にさせた。
「珍しいね、朝比奈組から声がかかるなんてさ」
協会長は呑気に煙草を吹かす。観光協会は長く市役所と二人三脚でやってきたため、SASとも少なからず付き合いがある。
「アレを買った頃に何度か空撮に付き合ったことはあったんだけどね」
指で示した滑走路に、その機体が姿を現していた。
協会所有のセスナ172は、十年近くも前に観光の目玉として購入された物だった。リーズナブルな値段を打ち出したせいか遊覧飛行は案外好評で、週末を中心にいまでも活躍している。
「なんでもこなす良い機体なんだけど、三人しか乗れないだろ? 最近じゃちょっと厳しくてねえ。だから、今度は七人から九人乗りくらいのを買おうか、なんて話してるんだ」
観光協会長は明日香の硬直した笑顔にも気付かず、楽しそうにおしゃべりを続ける。
倉庫から出てきた君塚はパイロットとなにか打ち合わせをしていた。明日香が駆け寄ると、振り返って笑顔を見せる。
「じゃ、そういうことで」
「了解、十五分後に離陸します」
「予報じゃ荒れてくるって言ってたけど」
「ベストを尽くせば、結果はついてくるものです」
キッパリ言い切ったパイロットの言葉に、君塚はニヤリと笑って手を上げた。
意味不明な自信と、確固たる信頼。二人の間に感じられた奇妙な連帯感に、市役所内での噂を思い出す。
君塚が独り身を固持するのには、〝なにか理由がある〟という話だ。
「……係長」
余計なことを考えている暇はないと、明日香はその雑念を振り払う。上司がゲイであろうとなかろうと、そんなことはどうでもいい。
車に向かう君塚を呼び止めた。
「どうするつもりなんです、飛行機で行く気ですか?」
「そうだよ」
彼はあっさりと答え、公用バンのリアゲートを開けた。
「でも係長、たしか晴照ヶ原に飛行場って……」
「ないよ。山間部だから、平地そのものがない。農道空港はあるけど、三十キロ以上は離れている」
「ですよね? だから、どうするのかって訊いてるんです」
昼行灯でしかなかったはずの君塚だが、その声が急に迫力を増したように聞こえる。
明日香の心の奥底で灯る、真っ赤な危険信号。それを〝イヤな予感〟というには、あまりにもリアルな〝手触り〟を持っていた。
「ほら、ぼくからのプレゼントだ」
差し出された物を見て、妙な胸騒ぎが杞憂ではないと確信する。
登山用のリュックサックに似たそれには、なんだか見覚えがあった。
「……救命胴衣、ですよね?」
「惜しい、パラシュートだ」
そんなことは見ればわかる。現実を直視したくなかっただけだ。
「ホントはぼくの愛用してたヤツを使いたかったんだけど、操作性と速度に難があるんで民間用だ。メンテとセッティングは済ませておいた。装着の仕方と操作法は教えてあるよね?」
「よね、って……やっぱりアレ……」
ヒモ付きリュックを背負って塔から飛び降りる練習。二本のロープにぶら下がってバランスを取る練習。時間通りに胸元のハンドルを引く練習。転がりながらケーブルを巻く練習。
他にも山ほどある様々な訓練方法のなかに混ざっていたため、その全体像を考えてみたことはなかったが――いや、考えないようにしていたが――つなげてみれば、どこの誰がみても目的は明らかだった。
「そうだ。自覚と実感の有無に関わらず、空挺降下が行える程度の技術は仕込んである。大船に乗った気持ちで……飛べ」
あっさりと下された指示に、明日香はたっぷり三秒ほど言葉を失う。
「……冗談、じゃないみたいですね」
「だから、言っただろ? 〝餅は餅屋、傘は傘屋〟ってな」
不敵な笑みと、強固な自信。その言葉を聞いて、彼女はまた違うなにかに思い当たる。
そんなものは君塚がいつも口にする愚にもつかない駄洒落の類だとしか思っていなかった。しかし、そのフレーズにはどこかで聞き覚えがある。いやというほど聞き覚えがあった。
「傘屋……って、係長まさか」
「ああ。事故で背骨を折るまで、習志野にいた」
――ならしの。
千葉県習志野といえば日本で最精鋭の、そして唯一の空挺部隊である陸上自衛隊第一空挺団がある。だが、そのような猛者たちの集団と、真面目ではあるがどこか影の薄いあの係長とは、明日香のなかでどうしても結びつかなかった。
「いつか自分の娘に空挺降下を伝授するのが夢だったんだ。少し予定が変わったけど……まあ、いいか」
「よくないですよ、なにを勝手に納得してるんですか! だいたい、パラシュートなんて使ったこともないのに……」
「大丈夫だって。飛び出して、ゆっくり十数えたらコードを引く。簡単だろ?」
「それは簡単に言ってるだけで……」
「大丈夫だいじょうぶ、メインが開かなくてもリザーブがあるし、両方開かなかったら自動開傘するようにできてる」
ホラこれがAAD(自動開傘装置)だよ、などと話す君塚の声も、明日香の耳にはまったく届いていない。
「係長は? いっしょに飛んでくれないんですか?」
「悪いけど、医者に止められてる」
「そんな、飲み会を断るみたいに……!」
君塚はまったく意に介さず、爽やかな笑みを見せる。
いまの明日香の目には、それが悪魔の笑いに見えた。
「さあ、そろそろ時間だ」




