#13 彼女は再び身を投げる
飛行機のなかは快適だった。それはもう、永遠にそこから降りたくなくなるくらいに居心地が良かった。迫る降下時間を気にしなければ、窓外の素晴らしい眺望も心から楽しめたことだろう。
「……ったく、冗談じゃない……なんでわたしだけがこんな目に……」
明日香はシートにうずくまり、ぶつぶつと呪詛の言葉をつぶやく。自由落下の経験はない。パラシュートの操作も初めてだ。それよりなにより、彼女は重度の高所恐怖症だった。
グッタリと顔を伏せる彼女に、観光協会長が楽しそうに話し続けていた。
「その先が海浜公園で……あれ、どうしたの明日香ちゃん、吐きそう?」
「……ある意味では」
「大丈夫ですよ協会長、彼女はいまコンセントレーションの真っ最中なんです」
「コンセント……なに?」
「係長。ところでこれ、県警には」
「言えるわけないだろ。内緒だよ、……な・い・しょ♪」
ぶん殴ってやろうかと、明日香は一瞬本気で思う。
乗り物の選択だけで言えば、間違いではなかった。陸路で二時間以上もかかる行程が、飛行機だとほんの十分ほどでしかない。心の準備ができるより早く、パイロットが振り返って言った。
「あと二分ほどで晴照ヶ原上空です。二時方向、十字架型の建造物が凌橋ですね」
立ち上がった明日香が機材の装着を始めると、協会長がギョッとした顔で振り返った。
「え? なに? どうかしたの、明日香ちゃん」
「……ええ、どうかしてましたよ。つまり、人を見た目だけで判断しちゃダメってことです。ね、係長?」
「正解だ。まあ、そんなこんなでよろしく頼む」
「簡単に言ってくれる……」
君塚と密約が交わされていたらしく、パイロットは冷静に高度と風向、着陸予定位置を読み上げる。視線を前方に据えたままで明日香にグッと親指を立てた。
「スタンバイ」
ドアの前まで進むと、君塚が手を伸ばして素早く装備を再確認した。ヘルメットを被せ、通信機の感度を調整する。
『飛び出すとき、水平尾翼に気を付けろ』
「了解」
『いいか、降りるのは平地だぞ。橋や森や送電線には近付き過ぎるな、もし引っかかってもしばらくは拾いに行けないからな』
「了解」
『時間です。凌橋上空』
パイロットの声が無情に響く。
明日香は客室を振り返り、唖然とした表情の協会長にやけくそ気味の笑顔を見せた。
「ここで降ります。ありがとうございました!」
「お、降りるって明日香ちゃん、だって、ここ……」
蹴り飛ばすようにドアを開くと、吹き込んでくる風でなにも聞こえなくなった。忌々しい上司の声だけが、ヘッドセットからやけにはっきりと響く。
『叫べよ、教えた通りにな。騙されたと思って大声で吠えてみろ』
「騙す騙さないの問題じゃないですよッ」
明日香は胸元で手を重ね、身体の震えを押さえ込む。握り締めた拳が震えるのは恐怖なのか怒りなのか、もう自分でもわからない。
君塚がその拳を軽く叩き、耳元で楽しそうに叫ぶ。
『大丈夫だ、初回降下で死ぬ奴はいない!』
明日香は腰の引けた姿でドア枠にしがみつく。萎えて震える脚が、前に進もうとしない。その間にも、ゴウゴウと渦巻く風に身体だけが機外へ吸い出されようとしていた。
『どうした、グズグズしてると流されるぞ!』
「係長、他に方法はなかったんですか!」
『あったのかもな。でも、時間がないんだ』
明日香はその言葉を聞きながら、奇妙な既視感に襲われる。
――マンション屋上からロープ降下したとき、未知香が同じセリフを言ってたっけ。
頭に浮かんだその感情を、彼女は瞬時に振り払う。姉の思い出をいま反芻することは、姉の存在までを思い出にしてしまうような気がしたのだ。
彼女は顔を上げた。肚の底から、得体の知れない昂揚が沸き上がる。
「朝比奈明日香、降下準備よし!」
『OK、その調子だ。カウント!』
「……5・4・3・2・1……」
『行け!』
「……レンジャーッ!」
爆風が耳元を抜けて轟音を発し、風圧が全身を引っかき回す。眩暈がするような高さと、失神しそうな速度。脳天から血の気が引く強烈な落下感覚に、恐怖も覆い隠すほどの怒りが込み上げてきた。硬い空気の波でもみくちゃにされながら、明日香は吠える。
「くそったれェッ! 係長、帰ったらぶん殴ってやる!」
怒鳴り散らす声は唇から弾き飛ばされ、自分の耳にすら入ってこない。
バランスを崩して身体が回転し始め、無意識のうちに手を広げてそれを止める。彼女も認めないわけにはいかない。教わった通りの動きが、身体に叩き込まれていた。
「……いち明日香ァ、にィ明日香ァ、さん明日香ァ……」
言われたカウント数を超高速で唱え、十まで数えると同時に胸元のコードを引く。
主傘が開くまでには、一瞬のタイムラグがあった。慌てて予備傘の用意をしかけたとき、永遠に続くかと思えた落下はいきなり止まる。くぐもった破裂音とともに激しい抵抗が小さな身体を上空に蹴り上げた。
上空を覆う天幕を見て、主傘が開いたことを確認する。
『いいぞ明日香、ジタバタするな……流されてる、少し右に修正しろ!』
「はい!」
口から出たのは、訓練通りの返答。手はコードを操作し、言われた通りに修正する。遮蔽物・障害物・危険物・建造物・農地・水路・民間人・通行車輌なし。確認事項をこなすうちに、恐怖は緊張のなかに消え去る。
『OK、あとは地ベタに転がるだけだ! できるな?』
「はい!」
大丈夫だという、確信があった。
毎日何十回もやらされた奇妙な飛び降り練習がなんだったのか、明日香はここに来てようやく理解した。眼下の草地がグングンと迫る。
「着地!」
足を畳んで転がり、立ち上がって傘体を押さえ込む。頭のなかは白く霞んだまま、身体だけが異様なほど冷静に動き続けていた。
『状況!』
「回収完了、移動準備よし」
『OK、よくやった! そのまま北上、凌橋に向かえ。こちらも農道空港から急行する』
無事に着地したのは良いが、民家どころか道もない山のなかだ。時計に付いたコンパスで北を確認し、降下装備をまとめて木の根に突っ込む。息をつくと、彼女は走り出した。
木々を手で掻き分け、足で下草を薙ぎ払う。川を渡り岩場を乗り越え、ひたすらに北を目指した。奇妙な昂揚感に、移動速度はますます上がってゆく。暮れかけた日差しに、心がざわめき始めた。
時計を見る。三時四十二分。
「係長?」
上空を旋回していた軽飛行機は、明日香の移動を確認した後で北上を始める。通信圏外になりつつあるヘッドセットからの音声は、ノイズが入ってひどく聞き取りにくい。
『あと数分……着陸する。車を出してもら……はずだが、四時には間に合わ……。お前だけが頼り……行け!』
明日香は速度を上げ、小高い丘を越えた。急に視界が開け、目の前には起伏に富んだ田園風景が広がる。予定位置よりも少し流されたようだ。遥か彼方に目をやると、妙にデコラティブなモニュメントが見えた。
「あれが、凌橋」
通信機はもう反応しない。平地になると移動速度が上がり、走るたび全身の装備がガチャガチャと揺れ動く。ヘルメットを捨てグローブを捨てジャケットを捨てて、彼女は全力疾走で畦道を走る。橋への最短ルートを選ぼうにも、農地の区画が邪魔して思うように距離をつめられない。焦りが判断を鈍らせてさらに迷走し、用水路に阻まれて行き場をなくしてしまった。
農業用水とはいえ幅は三メートルほどあり、飛び越すには少々ためらわれる。上には簡素な板橋が渡されているが、明日香の立つ位置からは遥か彼方だ。
「ちッ」
いま来た方を振り返る。そちらも百メートル以上はあった。わざわざ板橋を避けて迂回するコースを選んでしまったらしい。
「ああ、もう……ッ!」
覚悟を決めると畦道に踏み込み、助走を付けて用水路を飛び越えた。足先は地面に付いたが、距離が足りずに上半身が仰け反る。バランスを崩してヒラヒラと舞い踊り、結局どうにもならず転げて水に落ちた。
膝まで泥にまみれ、息を切らして這い上がる。
――また余計な時間を……。
靴を鳴らしながら藪を抜け、目の前に現れた傾斜をよじ登ると、そこが凌橋の架かる涙川沿いの土手だった。橋桁につながる階段まで、あと数百メートル。
時計を確認しかけたとき、四時に合わせたアラームが鳴った。
「くそ……ッ!」
息は切れていたが、そんなことを気にしている時間はなかった。喉が渇き舌には鉄の味がした。心臓は締め上げられ脇腹にも激痛が走る。垂れ落ちた汗が目に入って沁み、腕も手も顔も擦過傷で火照った。
それもこれもどうでもいい……が、泥水がブーツのなかでこねくり回される感触だけはどうにもこうにも耐え難かった。足からニチャニチャと音を立て、明日香は土手を走り続ける。
「うひぃいい……気色悪いぃ……!」
階段に到着したとき、見上げた橋の欄干で灯りが点り始めた。必死に階段を駆け上がるが、脚は言うことを聞かない。筋肉が過熱して痙攣を始め、手足が痺れて力を失っている。
――痛みも苦しみも関係ない、限界を超えてしまえば……大した問題じゃないッ!
噴出する怒りとアドレナリンで、明日香は消耗した身体を無理やりに動かす。
橋脚を眼下に見下ろす水平の見晴台に出た。へたり込みそうになる身体を叱り飛ばし、誰が来ているかと欄干の隙間から覗く。灯りが点ったせいで影が多く、いまひとつはっきりしない。ワイヤーに風が鳴る音で、気配すらも読めなかった。
どう出るべきか迷う明日香の腰で、携帯が鳴った。呼び出し音を消すの忘れていた。いまさら悔やんでももう遅い。彼女は舌打ちをして遊歩道に飛び出した。
「くそッ……未知香ッ!」
素早く左右を見渡す。車はない。人もバイクも犬も、なにも。
身構える彼女の前で、広大なコンクリートの橋だけが照明に浮かび上がっていた。
「なにしてる、早くここを離れた方がいい」
倒れていた未知香の耳に、男の声が聞こえた。聴覚が麻痺して音が歪む。鐘のなかにでも入っているようで、聞き取ろうとすると眩暈がした。
「離れてどこに行くっていうの? 仕事は? 車は? お金は? 生活能力はある?」
「いまそんな話をしているときかよ」
「考えもなしに動くからいつまでたっても大人になれないのよ。いちいち怯えて、まったく意気地がないわね」
いがみ合う声に、未知香はようやく意識を取り戻す。真っ暗なのは目隠しがされているせいか、それとも、もう夜になったからか。
後ろで縛られた手を動かす。可動範囲はほとんどないが、とりあえず力は入った。指先をベルトからポケットに這わせる。小さなキーホルダーに触れた。それは明日香がくれた、ミニクーパーとかいう銀の自動車だった。
妹を思い出したことで、自分がやらなければいけないことが明確になる。少しずつ指先に力を込め、見つからないように銀のミニを引き出した。無理な角度で動かしたので、指先が攣りそうになる。静かに息を吐いて、縛られた手をもう一度大きく延ばす。
――よし、もうチョイ……。
身体を起こそうとすると、言い争う声が止んだ。
「目が覚めたみたいね」
女の声。久保田理恵子の声だ。男は理恵子の恋人だったという今西家の三男のようだ。
「理恵子さんですか? ……ここは、どこです」
周囲の気配を探りながら、未知香はハッキリした声で女に話しかける。右前方に足音と吐息。男は離れていったようだ。
「どこって、あなたが来た場所よ」
「どこにも動かされていないんですか。じゃあ、まだ晴照ヶ原なんですね。今西っていう家はここでいいんですよね?」
「質問したいのはこっちなんだけど。国見美由紀について、どこまで調べたの?」
「答える必要はありません」
笑みを含んだ、ため息。
「まあ、ね。じゃあ、取引しましょ。あなたは自分が知ってることを話す。わたしは、あなたの知りたがる真実を話す。……どう?」
「縛り上げられてまで、取引するつもりはありません。わたしは遥野市役所の人間です。ご意見ご要望は市役所の方で伺いましょう。もしくは、遥野署で」
「面白いお嬢さんね。でも譲り合うことを覚えないと、長生きできないわよ」
「もちろん、条件次第では話してあげてもけっこうですよ、理恵子さん」
「あら」
女は楽しそうに笑った。
「条件って?」
「まずはそこの、今西……達彦さんをどこかへやってください」
理恵子はそれに答えない。未知香に近付き、腕を捻り上げた。
身構える間もなく、その手から携帯電話が落ちる。
「本当に、面白いコね」
「……ッの、ガキ!」
罵りながら男が駆け寄ってくる。息と足音だけで、女がそれを止めたらしいことがわかった。男の口から焦れたような唸り声が漏れる。
「やめなさい、みっともない。子供に手を出してどうするのよ」
「そんなヌルいこと言ってる場合かよ! そいつが通報してたら、俺たちだって危ないだろうが」
「通報? いったいなんの理由で? いまのおしゃべりだけで警察が動くと思う?」
「動くさ、当たり前だろ。こいつ、自分の身分もここの住所も、この家や俺の名前まで出してるんだぜ?」
「いいからあっちに行ってて。そんなに怖いなら、あなただけでも逃げたら良いでしょ」
携帯を操作しながら理恵子が笑う。
「あらすごい、あれだけの時間でロックまで済ませてるわ、このコ」
「そこまで器用には見えないぜ。まだ電話できてなかったのかもな?」
未知香は挑発するような男の問いを黙殺した。
「……ちッ!」
男は忌々しげに舌打ちをして、どこかに歩いてゆく。
「一応、言っておくけど……」
ため息混じりの声で、理恵子が言った。
「あの男は今回の件になんにも関係ないわ、勝手に寄ってきただけ。バイクで様子を見に行くなんて張り切ってたけど、そのことは別に罪にならないでしょ?」
「あなたの、恋人だと」
「周りがどう見ているかなんて知らないわ。でも、ここの人間ならそう言うでしょうね。頑固で退屈でお節介で、粘着質な田舎者。寝ただけで恋人っていうなら、そんなの何人もいるわよ」
「佐藤さんは、彼は恋人じゃないんですか」
理恵子は小さく鼻を鳴らす。
「さあ、どうだったかしらね。昔の話だもの」
「彼はどこにいるんです?」
「質問するのはこっちよ」
「〝条件次第では〟って言ったでしょう? あなたが教えてくれれば、こちらも質問に答えますよ。佐藤さんはどこにいるんですか」
わずかな沈黙があった。迷うような呼吸。
逡巡しているのは答えられないからか、答えたくないなにかがあるからなのか。
「もう死んだわ。武生が殺したの」
吐き捨てるようなその言葉に、未知香は真実らしい感触を得る。
「わかりました、そういうことですね」
「うん?」
「武生さんはわたしたちに……そして、おそらく自分自身に対しても、ずっとなにかを隠してた。彼は見ないようにしていたけど、見えないはずはなかったんです。彼女の仕草、彼女の言葉、彼女の表情と、彼女が語る過去。表向きは露見しないよう慎重に身を隠しながら、本当は武生さん自身に見破って欲しかったんです。だから、あんなにたくさんの目印をばら撒いた。脅迫状、パスポート、写真、指紋、通話記録、協力者……そして、名前」
「……名前?」
「いちから作った身分証なんて、どんな名前にだってできたはずです。なのに、わざわざあなたのお姉さんと同じ名前、〝国見美由紀〟名義のパスポートを作り、〝入国〟した。彼女が……」
未知香は問いかける。闇の先の気配を探る。
「……あの人が、佐藤さんですね?」
理恵子の反応はなかった。
口調も変えず感情も示さず、彼女は静かに答えた。
「言ったでしょ、彼は死んだって」
明日香は橋の上でグッタリと座り込んでいた。
汗を拭って息を整え、鳴り続けていた携帯電話を取り出す。画面を見ると、山下からだった。遥野の状況は知りたかったが、こちらの経緯を伝えるわけにはいかない。なんと言えばいいのか迷ったが、構わず通話ボタンを押す。慌てた声がすぐに飛び込んできた。
『ああ、明日香ちゃん、いまどこだ』
「晴照ヶ原の現場に……向かっているところです」
苦しい言い訳だが、嘘は言っていない。
『じゃあ、いま移動中か? ちょっと大丈夫かな』
「はい。なにかありましたか」
『ついさっき、こちらに未知香ちゃんから電話があった。というより……向こうの音が聞こえるように、こっそりかけてきたようだ』
「向こう?」
『晴照ヶ原の、今西って家だ。いま、そこで捕まっているらしい。誰か向かわせてもらおうと思ったが、駐在も消防団も役場の人間も、ほとんどが土砂崩れの方に出ていて人が残っていないんだ』
明日香は立ち上がり、頭のなかに地図を描き出す。
晴照ヶ原の集落までは三キロと離れていない。萎えた足には厳しい距離だが、道のりはほぼフラットで道もつながっている。急げば十五分もかからないだろう。
「大丈夫です。すぐ向かいますから」
『ん?』
――しまった。
明日香が息を呑んだ一瞬、それだけで山下にはすべてがわかったらしい。
『……協会のセスナか。降りられるのは農道離着陸場だけだし、だとしたら町からずいぶんあるはずだが……』
「あ、いや……その」
しどろもどろになる明日香を、山下は豪快に笑い飛ばす。
『いいよ、聞かなかった事にしよう。君塚くんには、無茶するなと言っておいてくれ。彼は一生車椅子でもおかしくなかったんだからな』
「知っていたんですか、係長の昔の……」
『知っていたもなにも、その事故現場に出ていたよ。運とタイミングがもう少しでもズレていたら、彼の身体を拾い集めるところだった。せっかく助かった命なんだ、粗末にするなって伝えてくれ』
無茶をしたのは君塚ではなかったのだが、それを言うと話が長くなる。明日香はただ、わかりましたとだけ答えておいた。
『それと、もうひとつ。子供の話なんだが』
「ああ、それですか。一度も見ていませんから、きっと出任せでしょう」
『いや、出産はしてるようだ。少なくとも、可能性としてはありうる』
「え?」
明日香は頭のなかに関係者一覧を浮かべる。
「佐藤……のわけないですよね。国見美由紀?」
『いや、久保田理恵子だ。市内の産婦人科医に当たってみたんだが、そのなかに久保田理恵子と思われる患者を診察したという医者がいた。守秘義務があるとのことで訊けることは限られていたんだけどな、その患者の病状から、理恵子は――その患者が理恵子だとしたら、だが――経産婦である可能性が高いらしい』
「いつです、彼女がその病院に行ったのは」
『カルテは見せてもらえなかったが、半年ほど前だそうだ。診察した医師の所見では、当時で産後一年以内。そのまま育っているとしたら、現在は一歳前後になる』
「育って〝いるとしたら〟というのは?」
『出産の状況も、育児の状況もわかっていないからだよ。武生の家にも久保田理恵子のアパートにも、子供がいた様子はない』
……〝子供って、誰の子供よ〟
アパートの管理人である〝国見美由紀〟は、そう言っていた。門前払いになるはずだった明日香は、それで彼女と話をすることになったのだ。久保田理恵子の姉である以上、なにかを知っていたのかもしれない。探るつもりが、探られたのは明日香の方だったということだ。
「山下さん。その当時、遥野周辺で捨て子や……」
その先の言葉を飲み込む。あまり考えたくない話だった。
『わかってる。不幸な結果になった子供がいないかどうか、確認してもらっている。必要なら、例の管理人も押さえる。わかり次第そちらに連絡を入れるよ』
「お願いします」
明日香は時計を見た。四時十二分。
「山下さん、鎬橋の方は」
『現場には時間前に入らせていたが、武生も佐藤も現れなかった。これから周辺を当たって、いなければ山狩りになりそうだ』
「こちらにも……晴照ヶ原の凌橋にもいませんでした。これから今西という家に向かいます」
『頼む。それと、しつこいようだがな』
「無茶はしません。約束します」
『わかった。帰ったら署の方に顔を出すんだぞ』
そう言うと、電話は切れた。きっと皆で怒られることになるのだろう。
走り出そうとした明日香の耳に、甲高いエンジン音が聞こえてきた。
「おーい!」
猛スピードで疾走してきた軽トラが、橋の袂で急停車する。助手席から顔を出した君塚が、荷台に乗るように手で示した。
「四時過ぎに着きましたが、誰もいませんでした」
駆け寄る明日香に、しかめっ面の君塚がうなずく。
「わかってる。今西家に行ってもらおう。乗って」
荷台によじ登り、肥料袋の間に身を落ち着ける。運転席の男に挨拶すると、相手は振り返ってニヤリと笑った。
「俺ぁ、電話したばっちゃの息子で、五十嵐祐造ってもんだ」
「朝比奈明日香です。お世話になります」
「おう、行儀が良いな。カッコはなんだか原始人みたいだけどな」
祐造は車を出しながら、豪快に笑う。
改めて自分の姿を見ると、確かに野人のようにしか見えなかった。泥と水と土と埃、草木や枝が全身にこびり付き、風変わりなギリースーツのようになっている。
「係長、さっき山下さんから電話が」
「わかってるよ、こっちにもあった。その話は後にしよう」
「よっし……飛ばすぞ、しっかりつかまってな」
言葉通りの猛スピードで、軽トラは農道を突進する。歓声なのか悲鳴なのか、君塚が鶏のような声を上げた。祐造が運転席から、それを上回る大声で叫ぶ。
「今西の家に、明かりは点いてねえ! でも気配はするって、ばっちゃが言うとった!」
「逃げたってことは?」
「晴照ヶ原じゃ、日が落ちたらどこにも行けね! 今西の車は、ばっちゃが見張ってる!」
五分もあれば着く、と叫んで祐造はアクセルを踏み込む。
揺れる車体にしがみついた明日香は、そこで携帯の着信音に気付いた。表示は〝公衆電話〟。……嫌な予感がした。
最悪の事態を考えようとしたが、なにが最悪なのかは彼女にもわからない。思い切って電話に出ると、しばらく沈黙が続いた。
「朝比奈です、どなたですか?」
息を吸い込む音。小さな声がした。聞き取れない。もう一度訊く。
『明日香ちゃん?』
意外なことに、それは春奈だった。病院の公衆電話からなのだろう、声が遠い。
「春奈、どうした。いま、病院か?」
『うん、ちょっと声が聞きたかったの』
「悪いけどいまは取り込み中で、明日ならそっちに……」
『明日、手術受けるの』
「え?」
『だから、その前にいっぺん話したかったの』
笑おうとしているのがわかった。泣き声を堪えていることも。手術の前に電話してきた意味も。
怖いのだ。
なにかあったときの事を考えて眠れず、手当たり次第に電話したくなる。自分の声を聞いてくれる人に。
……自分のことを、覚えていてくれそうな相手に。
『それだけ。邪魔してごめんね、お仕事がんばって』
「待て!」
カーブを抜けると、集落が見えてきた。灯りの点った家と、煮炊きする夕飯の匂い。帰る家を失った者には、ひどく遠く儚く見える。
「明日、会いに行く。絶対に行くからな。山ほど話をしてやるよ、すごい笑える話なんだ。手に汗握る冒険活劇、って感じでさ。凶悪犯罪者たちを追いかけて遥野じゅう駆けずり回って、挙句に飛行機から放り出されたり川に飛び込んだりな。いま晴照ヶ原で、ようやく犯人を追い詰めたところなんだ。警官隊と消防団が山狩りかけて銃撃戦してる。わたしたちはこれから装甲車でアジトに突っ込むんだ。ワクワクするだろ? な?」
『そうだね、聞けたらいいな……そんな話』
遠い声。信じてもいない言葉。怒りが込み上げる。思い出の残骸が、胸のなかで甦る。短く美しい別れの挨拶と、果たされるはずもない再会の約束。いつだってそうだ。病院で出会った友人たちは、笑顔のまま消えて二度と戻らない。
『ねえ明日香ちゃん、もしわたしが……』
「待ってるって、言え!」
『……え?』
「明日、わたしを待っているって言え。そこで話を聞くって誓え! もう会えないみたいな声を出すな! 遺言みたいな言い方をするな! わたしはお前に話したいことがある、話さなければいけないことがある、聞きたいことも、聞いてほしいこともある、もっとたくさん会って、もっと仲良くなって、それで……」
最後は泣き声になった。堪えきれずに叫ぶ。
「だから、待ってるって言え! 明日、病院でわたしの話を聞くって言え! わたしには……お前が必要なんだ!」
車が集落に入った。山道から派手に尻を振って、軽トラは舗装道路に乗る。
振動が止むと、電話の声もクリアになった。静かな息遣いと、沈黙が続く。明日香は泥だらけの袖で顔を拭った。よけいに汚くなったが、いまさら変わりはしない。
『……泣き虫』
鼻を鳴らして、春奈が言った。
「うるさい」
『明日香ちゃん、わたしよりずっと年上なのにね』
「そうだよ、わたしは泣き虫の弱虫でワガママな子供だ」
『自分でそういうことを言える人は、全然弱くなんかないんだけどね』
「本当のことを言ってるだけだ。なんにも持ってないから、我慢なんてできないんだよ。イヤなものはぜったいイヤだし、欲しいものはなにがなんでも欲しい……春奈が欲しいんだ、失くしたくない」
『……バカ』
呆れたように言って、春奈は笑った。湿った音は混じっていたが、それは明るい声に聞こえた。
『待ってるわよ、楽しい話。じゃあ、また明日』
「うん」
電話を切ると、なぜかホッとした。沈んでいた気分も、いまでは平静に戻っている。
――早く解決して、遥野に帰ろう。
助手席の君塚はいつの間にか、声を上げるのを止めていた。覗き込んだ明日香は、その顔が真っ青なのに気が付く。額から脂汗が滴り落ち、襟足がぐっしょりと濡れている。
「係長、大丈夫ですか?」
「大丈夫……と言いたいところだけどな。悪いが、動けそうにない」
「着いたぞ」
祐造がブレーキをかけると、腰を押さえていた君塚が前のめりに崩れる。
「だいじょぶだ、この人は俺が看ておく。あんたは、あっちを」
軽トラのヘッドライトに、今西家の門が浮かび上がった。
目隠しが外され、未知香は目を瞬かせる。時間はわからなかったが、日が暮れかけているところだった。山間部ということを考えれば、五時くらいだろうと思われた。
「もういいわ、終わりにしましょ」
久保田理恵子は、穏やかな笑みを浮かべた。
「終わり……って」
「でも本当は、ずっと前から終わっていたのよね」
慈しむような表情で未知香を見るが、視線は彼女を通り抜けている。
遥か彼方を見据えるその目にいったいなにが映っているのか、未知香は知りたいとは思わなかった。好奇心や同情で覗き込むには、理恵子の瞳はあまりにも暗い色をしていた。
「武生が佐藤を殺し、佐藤は私を殺し、私は姉である国見美由紀を殺した。みんな死んで、生まれ変わった。そして幸せになったわ。まあ〝末永く幸せに暮らしました〟ってわけにはいかなかったけどね」
虚ろな目が潤む。
「でも、わたしだけが死んだままだった。自分で望んだことだもの、それでいいと思ってた。それなのに……どうしてかしらね、死んだはずの佐藤が戻ってきたのよ。打ちひしがれて、罪の意識を背負い込んで。わたしにできることなんてなかった。できることならなんだってやってあげたいと思っていたんだけど」
なんのことかまったく理解できなかった。見上げる未知香の視線に、理恵子は笑顔で首をかしげる。
「ひとり殺すと、殺し続けなければ生きていけなくなるのかしらね。わたしは愛するものをもうひとり失って、そこで壊れちゃった。もう無理だって、言ったのよ。そしたらあいつ、わかった……ありがとうって。馬鹿みたいにね、優しい声で言うのよ。もう終わりにしようって。愛情も結婚も子供も幸せな日々も、みんな最初から、叶うはずもない夢でしかなかったんだって」
「待ってください、子供って……まさか!」
気色ばむ未知香に、理恵子は笑いかける。
「死んでるわ、とっくに。言っておくけど、それに事件性なんてないわよ。ただ単に……未練を残した女の惨めな結末ってだけ」
「どういう意味です?」
「さあ、ね」
〝女〟というのは、おそらく理恵子のことだろう。比喩ではなく、本当に子供を亡くしているように聞こえた。その状況までは理解できないが、話す気もないようだった。
「これからどうするつもりですか」
「もう、どうでもいいわ。わたしはどうするつもりもない。あいつら同士で決着を付けさせてやりたい。その間だけでも、誰にも邪魔はさせたくない。それだけよ」
「……なぜ」
理恵子は、うんざりした表情で笑う。未知香にというよりも、自分の愚かさを嘲うように。
「言ったでしょ、好きだからよ」
どこかから、甲高い音が聞こえてきた。猛スピードで走ってくるエンジン音。門の前で、その音が停まる。ドアが開く音は聞こえなかった。
「ほら、お迎えが来たわ。早かったわね」
理恵子に逃げる気配はない。未知香の問うような視線に気付き、彼女は肩をすくめた。
「逃げるところなんてないわよ。それに、これ以上あいつらに付き合う義理もない。しょせん出来損ないの囮だもの、もう十分に役割は果たしたわ」
納屋の前から、なにかを蹴り倒すような音。未知香が振り返ると、達彦が棒切れを抱えて母屋に走るのが見えた。やって来た誰かを、迎え撃つつもりなのだ。
「……失う物があると、そうもいかないのかしらね」
未知香は、先ほどのエンジン音が軽自動車のものだったことを思い出す。田舎とはいえ、警察車輌に軽自動車を使うだろうか。走ってきたときの運転の荒さは、警官ではないような気がした。
「待ってください、いま来たのは」
「しッ」
女はそう言って、未知香に猿轡をかける。
「ちょっと我慢しててね。すぐ済むわ、きっと」
薄暗い農家の前で、明日香は静かに呼吸を整える。車庫の前にいたハツに会釈して、下がっているように手振りで伝えた。彼女が祐造に言っていたように、奥に誰かが潜んでいるのは雰囲気でわかった。少し前には物音もしていた。庭先の虫だけは、鳴くのを止めている。
息を呑む誰かの気配。襲いかかろうとするその殺気。伝える明白な敵意に、全身が緊張し始めた。
「遥野市役所SASだ、抵抗すると……」
彼女は吠える。
「後悔するぞ!」
振り上げられた棒の空を切る音。腰を落とし拳を固めて、明日香は影に突っ込んでゆく。頭上を掠めたものがなんだったのか、認識する間もなく追撃が加えられる。袈裟斬りからの二段突き。重さはあるがスピードが足りず、力みすぎていて伸びもない。
かわしながら懐に飛び込み、真正面から男の顔と向き合う。驚愕に見開かれたその目を覗き込むように、地面を蹴り大きく宙を舞う。
彼女は、笑っていた。
「ふッ!」
顎を打ち抜く膝蹴りを、男は身を引いてわずかにかわした。
着地と同時に回転して足を払い、延髄を狙った回し蹴りにつなぐ。頭上から弧を描く明日香の脚を、男はステップバックして両腕で受け止める。防御の動きと弾いた筋肉の感触で、相手が鍛えられているのがわかった。
男が取り落とした棒は、庭石に落ちて鈍い音を立てる。おそらく、樫の木刀だった。当たれば致命傷にもなるその重い木刀を、男は頭を狙って振り抜いていた。
よほどの決意を持っているのか、あるいは単に見境のない馬鹿か。
「未知香はどこだ。大人しく渡せば怪我をしないで済むぞ」
男は答えず、油断なく身構えた。
武器を失っても怯む様子はなく、両手を顔の前に掲げている。右足を前にして軽く前傾したその構えから、格闘技の経験があることはわかった。
――ボクシング。
明日香は、素早く動けるよう爪先に体重を乗せる。ボクサーだとすると、厄介な相手だった。武術や武道と比べて、ボクシングは短期間で一定レベルの格闘能力が身に付く。〝齧った程度〟だとしても、油断はできない。おまけに、明日香にはサウスポーと戦った経験がなかった。
肩の力を抜き、出方を見る。相手は周囲に視線を走らせ、なにかを探していた。構えを崩さず、視線も高い。どうやら武器ではないようだ。
「探しているのは、女か」
何気ない問いに、視線が揺れた。息を吐き捨て、突っ込んでくる。
間合いをつめる男の動きで、ボクサーとしての資質を探った。雑なステップといい加減な防御。見たところ問題は体重差だけだ。
そしてそれが、大問題だった。
体重はパンチ力に直結する。体重七十キロの相手からまともに打撃を喰らえば、体重が半分以下の明日香など一撃で再起不能になる。
薄闇のなかでは、目の表情までは読めない。腰を落として呼吸を合わせた。右のジャブに被せて回し蹴りを放つ。
「ふッ!」
鼻先を掠めた足は空を切り、男は頭を振って身体を沈める。がら空きになった明日香の脇腹を、誘いだとは気付かない。
大振りの左フックに肘を立てると、受け止めた瞬間パシンと乾いた音がした。
「くぁッ……くそ!」
男は拳を押さえ、痛みに顔を歪める。しょせんは力任せの付け焼刃だったようだ。
無防備な顎を前蹴りでかち上げ、棒立ちになったところで下腹部に後ろ蹴りを叩き込む。
「……ぎゅッ」
くの字に曲がって息を呑んだ男は、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
「未知香!」
痙攣する身体を視界に入れながら、明日香は周囲に呼びかける。
奥にある納屋から、なにかを倒したような音がした。駆け寄る彼女の前に、物陰から現れた女が立ち塞がる。
「あら? やられちゃったのね、あいつ」
「誰だ、お前」
「幻滅ね。あんだけ大きな口を叩いておいて、こんな女の子も押さえられなかったんだ」
「誰かと訊いているんだ!」
「あなたたち、わたしを探してたんじゃないの?」
「久保田、理恵子か。お前のことなんてどうでもいい、未知香はどこだ。もし彼女の身になにかあったら……」
「大丈夫よ、納屋のなかにいるわ。大人しくしてもらってただけ、怪我はさせてない」
明日香の背後で、男が呻きながら身を起こす。立ち上がろうともがくが、まだ足元が覚束ない。
「脳震盪を起こしてる。動くなと言ってやれ」
「なんでわたしが」
「自分の男だろう。本来なら、ああなるのはお前の方だったんだぞ」
納屋に入ると、奥で起き上がる未知香の姿があった。手足を縛られ、目隠しと猿轡をされている。見たところ着衣に乱れはなく、怪我をしている様子もない。
「なかなか似合うぞ、未知香」
「ひぁふぁ」
口元から布切れを剥ぎ取ると、未知香はホッと息を吐いた。
「怪我はないか」
「大丈夫よ、でもどうやってここに?」
「飛行機から落ちた」
手足の拘束を解いて、姉を立ち上がらせる。
明日香の身に付けた装備を見て、だいたいのところは察したようだ。
「ねえ、まさかひとりで……スカイダイビングしたの?」
「そんな優雅なモンじゃなかったけどな。行こう」
納屋から出ると理恵子たちの姿はなく、赤色灯が門前を照らしていた。
警察かと思えばそれは救急車で、ストレッチャーの上には君塚が転がっている。
「係長!」
駆け寄る二人に気付き、君塚は情けない表情で顔を上げた。
食い縛った歯の間からは、唸り声と悲鳴だけが漏れ出す。青褪めて身を屈めた姿は、いつにも増して覇気が無いように見えた。
「だ、大丈夫ですか?」
「……こ、こヒ、こ……ぃひッ!」
「イヒ?」
「こぉ、ひッ!」
いまいち意味のある言葉には聞こえなかったが、身振りから腰を痛めたらしいことはわかる。軽トラで山道を駆け付ける間に、古傷が悪化したらしい。
「係長、痛そう……」
同情する未知香に、パタパタと手を振って答える。しゃべるだけでも痛いらしく、口からは唸り声しか出てこない。
「それは大変ですね。まあ、いたいけな女子中学生を飛行機から蹴りだした罰です」
明日香の冷めた目を見て、未知香が笑いを堪えた。
姉妹が遥野署に着いた頃には、もう午前二時を過ぎていた。
終電はとうに終わっていたが、祐造が自慢の愛車BMW2002で送ってくれた。最初は遠慮していた未知香も、ハツの強い勧めに押されて好意に甘えることにしたのだ。
どのみち誰かに送ってもらわなければ、泊まる場所を探すしかない。
君塚は晴照ヶ原の救急医療センターに収容された。医師によれば、全治二週間だという。
「上役さんはこっちで預かるからぁ、治ったら二人で迎えに来なよぉ」
家の前まで見送りに出てくれたハツは、手を振りながら笑った。
どうやら、未知香たちはえらく老婆に気に入られたらしい。遥野署の前で降りるとき、祐造はトランクから山ほどの野菜と漬物を出し、二人に持たせた。
「遠くまでありがとうございました」
未知香が礼を言うと、祐造は真っ赤になって照れる。
「いいっていいって、俺ぁ夜のドライブが趣味だからよ。ばっちゃも待ってるから、また寄んなよ~」
陽気な祐造が行ってしまうと、辺りは急に静かになった。
「良い人ね、祐造さん」
町役場に務めるという彼は、今回の件で最大の功労者だった。
君塚や明日香を現場まで運んだのも、救急車の手配をしたのも、理恵子と達彦を取り押さえて縛り上げ、駐在に引き渡したのも祐造だ。ついでに言えば、無許可でのパラシュート降下を揉み消したのも、彼の尽力なくしてはありえなかっただろう。
二人は遥野署に入り、署員に言われるまま四階まで上がった。山下の怒鳴り声をたどり、明かりの漏れた奥の部屋に向かう。
和田という顔馴染みの制服警官が、取調室の前で姉妹を迎えた。
「お疲れさん、お手柄だったね二人とも」
肩を叩いて褒められ、明日香は照れて笑う。
「こちらの行った橋の方は、空振りでしたけど」
「それで良かったんだよ。晴照ヶ原が本命だったら、きっと未解決になってた」
「え?」
「晴照ヶ原には近隣合わせても警官が全部で三人しかいない。その警官も消防団も土砂崩れの復旧で出ずっぱりだったしね」
「土砂崩れって、〝事件〟だったんですか?」
「山さんが調べてた件? 事故だよ。単なる自然災害。そういう線で落ち着いた」
警官に連れられ、二人は隣の接見室に入る。テレビドラマでよく見るように、取調室内の様子がわかるようになっていた。武生を指差して、警官が事件の結末を語る。
「結局、取引場所は鎬橋でもなかったようなんだな。周囲を捜索して、二時間後に彼を県道脇で発見したんだよ」
武生を拘束した表向きの理由は、公務執行妨害。警察に発見されたとき、逆上した武生はなぜか刑事を殴っていた。
近くに女の姿はなかったという。現在のところ、国見美由紀こと佐藤望の行方はわかっていない。
「やっぱり狂言誘拐だったのか?」
接見室のスピーカーから、山下の声が響く。
「狂言……狂言か」
自嘲気味に笑う武生の声。それは次第に泣き笑いへと変わってゆく。
明日香は取調室の前に立ち、隙間からなかを覗き込む。彼女に背を向けて座る武生の後姿、そして苦りきった表情の山下が見えた。
「いい加減にしゃべったらどうなんだ。……それで、子供はどうなった」
「いません」
「いない? 金だけ取られて、人質は渡されなかったのか?」
「彼女に子供はいないし、わたしにも久保田理恵子にも誰にもいない。最初から、どこにも子供などいなかったんですよ」
「じゃあ、子供子供って言っていた人質は……あれは嘘か? あんたたち二人とも、警察をからかって……」
「違います」
山下の声を遮り、武生が静かに言った。
「彼女がわたしを脅迫していたのは本当です。都合した金も本物、取り引きも成立しました……たぶん」
「でも人質である子供はいない? あんた、いったいなにを言ってるんだ!」
「ちょっと、山下さん!」
制服警官が割って入り、胸倉をつかんだ山下の手を外す。武生は脱力した身体を動かそうともしない。引き剥がされた姿勢のまま、ストンと椅子に崩れ落ちた。
「……子供というのは、メタファーなんです」
「メタ……なに?」
「つまり……比喩のことです。物の喩え、符丁、二人の間だけに通じる、合言葉」
武生は他人事のように話しながら、ユラユラと首を振る。
「そう、あれはわたしたちの間で使っていた、喩え話なんです。彼女はこの国の人間ではないし、わたしも彼女と結婚して彼女の国籍を取得するという道を塞がれていた。しかし、子供は違う。日本で、日本人の親から生まれさえしたら、その子は日本人になれる。わたしたちは、その希望を共有しながら生きていた……はずだった」
「言っている意味がよくわからないな」
「子供っていうのは……〝希望〟のことだったんですよ。そんなささやかな夢に向かって二人で暮らしていると思っていたのに。……でも、わたしの考える〝希望〟と彼女の〝希望〟は……まったく違うものだったんですね」
途切れがちだった声が軋む。武生は、いつしか泣きじゃくっていた。
「あんなに……あんなに近くにいたのに……」
ライトの光が、武生を照らす。視界は白く遮られ、刑事の声は遥か彼方に感じられる。
武生は、山中で見た光景を思い出していた。漆黒に埋もれてゆく森のなかで、浮かび上がる美由紀のシルエットを。静かに話す彼女の声が、いまと同じように……どこか遠くに感じられていたことを。
いまは廃墟と化した鎬橋ドライブイン。武生が最初に、美由紀と出会った場所。
「時間切れだったのよ。もう遅かったの」
彼女は言った。
「……あなたはいつでも、退屈な毎日にうんざりしていた。〝いつか俺は、いつか俺は〟って、そればっかり言ってた。ここではないどこか、いまではないいつか、目の前にあるものではない、なにか」
でもね、と彼女は続けた。
「でもわたしが欲しかったのは、あなたが必死に変えようとしていた、その退屈な日常だったわ。昨日と同じ今日が来て、同じような明日が来るんだって信じていられるのがどれだけ幸せだったか。くたびれて帰ってくるあなたを待つ夜の静けさが、どれだけ心を落ち着けたか。わたしは幸せだったの。ずっと幸せだったのよ」
武生は無言で美由紀を見つめる。
なにも言えなかった。言うべきことは山のようにあったが、なにをどう言えばいいのか、彼にはもうわからなくなっていた。
「もう、行くわ」
「待ってくれ、ひとつだけ……訊かせてくれないか。君は」
武生は、言葉につまる。泣き出しそうに、声が震える。
「……ぼくを愛していたことはあったのか」
「訊いてどうするの」
「……わからない。でも、知りたいんだ。ぼくは本気で君と……」
「もう聞きたくないわ、そんなこと。お金を渡して」
武生は黙って封筒を差し出す。中身を確かめた美由紀は、自嘲するように笑った。
「取り引き成立ね」
「取り引き、か。ぼくらの子供は、そんな値段だったんだな」
武生の視線を受け止め、彼女は静かに言った。目が濡れているように見えたのは、錯覚だったのだろうと思う。泣くはずがない。泣く理由も。
「子供なんて……いないわ。最初から、どこにも、いなかったの。あなただって本当は、わかっていたでしょう?」
「ぼくが悪かったのか」
武生は声を上げる。責めるつもりが、泣き声になった。
「ぼくがもっと早く気付けば、どうにかできたっていうのか!」
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんにしろもう終わったことよ。あなたとは関係ないわ」
「なぜだ、そんな一方的な話があるか」
美由紀が振り返る。黙ったまま武生を見つめる。
「なぜもっと早く、ちゃんと言ってくれなかったんだ! ……そしたらぼくは」
「言ったわ! 何度も言ったのよ。〝わたしを見て〟って。〝もっとわたしを見て〟って! でもあなたは気付かなかった。あなたが見ていたのはこの作り物の身体だけ。一度も〝わたし〟を見てはくれなかった」
美由紀が初めて見せた剥き出しの表情に、武生は言葉もなく呆然と立ち尽くす。
「だから言ったのよ。……もう手遅れだって」
美由紀はそう言って、武生に背を向けた。一度も振り返らず、足を止めることもなく、彼女は車に乗り込んで走り去る。
テールランプが闇の奥に消えても、武生はその場から動くことができなかった。どうしたらいいのかわからないまま、彼は暗闇に置き去りにされる。
――こうなることは、わかっていたような気がする。
わかっていながらも、目を逸らしてきた。見てはいけないものとして、懸命に覆い隠してきた。目に入らなければ存在しないものだと、必死にそう思い込もうとしていた。その罪が自分にあるというなら、それは美由紀の言う通りなのだろうと思う。
木々のざわめきを聞いているうちに、やり場のない怒りが込み上げてきた。音は近付いてくるようだった。ガサガサと下生えを掻き分ける音。ライトの光と無線の通信音。複数の足音が、武生に迫ってくる。
〝自分はここにいるべきではない〟という思いが、心のなかに広がっていった。
彼女の言った言葉が甦る。
〝ここではないどこか、いまではないいつか、目の前にあるものではない、なにか〟
常に求めていた逃げ場所。そう……自分はずっと、逃げ続けていたのだ。しかし、そんなものはない。どこにも行く先などなく、自分を受け入れてくれるところもない。最初から、どこにも、ない。
それを、武生は初めて思い知った。
「武生、隆一さんですね」
肩に手をかけられ、武生は振り返る。
へたり込む彼を、取り囲む影。闇に埋もれる黒い服と、無表情な男たち。彼らは言った。
「彼女はどこですか。国見美由紀……いや、佐藤望は」
「の……のぞみ、は」
――名前は、のぞみ。
唐突に武生はそれを思い出す。雨の降りしきるドライブインで、初めて交わした言葉。それがなんだったのか、武生はもう覚えていない。記憶にあるのはただ寂しげな彼女の微笑みと、遠くを見る横顔だけ。
彼女は言った。ずっと子供を捜しているのだと。何度も繰り返し見る、夢のなかの子供。その子はいつも一人きりで、森の奥で泣いている。名を尋ねると彼は答える……
「ぼくの名前は……のぞみ」
臓腑が波打つような焦燥。胸の奥で燻っていたなにかが突然、音を立てて燃え上がる。背筋を駆け下りた痺れが四肢を震わせる。叫びだしそうな憤怒。握り締めた拳を、どこか遠くで感じる。
「ぁぁあぁあああああ……ッ!」
金切り声を上げて立ち上がった彼は、目の前に立つ男の鼻面を渾身の力で叩き潰した。
明日香は、新緑の草原を眺めていた。春の空は晴れ渡り、穏やかな日差しが降り注ぐ。遥野の南部にある、広大な工場跡。どうということもない場所なのだが、明日香はよくここを訪れる。
彼女が生まれるよりも前、この一帯は大小の工場が立ち並ぶ遥野の中心地だったという。半世紀近くが経過したいまでは建物も設備もすべて撤去され、賑わっていた住宅地や商店街も移転して、繁栄の面影はまったく残っていない。
良くも悪くも、それはSASが行ってきた環境対策の結果だった。
「理想論、か」
つぶやいた彼女は、鞄から小さな袋を取り出す。
その理想論を信じた者たちの末裔として、自分が行ってきたことがどういう成果を上げてきたのか。彼女には自分の仕事に、まだ確信が持てずにいた。
不可解な事件は明日香たちを蚊帳の外に置いたまま、一応の解決を見た。誰もが自分の身を勝手に傷付け、何もかも失って終わった。
武生への愛情を抑えきれなくなった佐藤は、生まれ変わろうと向かった国で、理恵子の姉と出会った。その詳しい経緯については、当人たちが語ろうとしないため不明。
書類上〝死んだ人間〟になった二人は別の身分証を持って帰国。理恵子は彼らを受け入れ、支え、助けた。遺産を切り崩して古いアパートを買い、佐藤の正体を隠すため武生との結婚を偽装し、さらには佐藤と似た男を探して〝佐藤と武生の子供〟を作ろうとさえしたのだ。
理恵子の妊娠が流産という結果に終わったとき、それを知った佐藤は――幸せな夫婦生活を送っていた〝国見美由紀〟は――積み上げてきた嘘の清算を決意した。
それが、山下警部補から聞かされた事件の全容だった。その後の調査によると、武生から奪った五百万円はどうやら理恵子に渡されたらしい。
明日香はぼんやりと草原を見つめ、袋の中身を地面にばら撒く。ひとつかみずつ周囲に撒き散らし、移動してはそれを繰り返す。
彼女には最初から最後まで、彼らの気持ちがわからなかった。
正直に言うと、いまでもわからない。
「明日香!」
その声に振り返った彼女は、駆けて来る姉の姿を見て軽く手を上げた。
「なにしてるの、こんなとこで」
未知香は、振り撒かれた粒のひとつを拾い上げる。
「ヒマワリの種……?」
「未知香もやるか?」
彼女は草むらを歩きながら、手当たり次第に種を撒き続ける。
未知香は妹の横顔を見つめ、わずかな違和感に気付く。いつの間にか、明日香の表情は大人びたものに変わっていた。
「約束したんだ……あいつと。ヒマワリでいっぱいの、どこよりも美しい街にするんだって」
未知香はふふんと鼻を鳴らし、眺めていた種を指先で飛ばす。
「まるで種ゲリラね。楽しそうじゃない」
明日香の手から種の袋を取り上げ、抱えていた物を代わりに押し付ける。
「なんだ、これ」
「係長から。明日香宛だってさ」
大判の業務用封筒で、汚い字で〝スパイの子へ〟と書いてあった。
「スパイ? わたしのことか」
「自分の部屋にロープ降下してくる市役所職員なんて、まぁ一般市民から見たらスパイみたいなモンなんじゃない?」
「じゃあ、これって……」
「そう。例の籠城してた〝彼〟が、自分で届けにきたんだよ。なんか、ちょっとは小綺麗になってたみたい」
封筒を開くと、なかから出てきたのは漫画原稿の束だった。
タイトルは、〝春風市役所特殊部隊〟。以前に見たのと同じ、謎の美少女が主人公だった。
「春風市役所っていうのは、」
「そんなことはどうでもいいんだが……この……アレは、なんというか……どうなっているんだ?」
主人公の身体にピッタリと張り付いたボディスーツは、さらにピチピチ具合がアップしているようだ。明日香はこっそり眉をひそめ、斜線と擬音でいっぱいのページをめくった。
市街地のど真ん中へ白昼パラシュート降下する美少女。ビルの壁をよじ登り呪符と爆薬でアジトを吹っ飛ばす美少女。日本刀とマシンガンで襲いかかる忍者軍団にたった一人しかもなぜか素手で戦う美少女。
軽く眩暈がして、ページを進める。
瀕死の青年を背負って山中を駆け巡りバズーカ砲を撃ちまくり戦闘ヘリに追われて断崖絶壁から身を投げたかと思うと潜水艦に拾われて復活しハリネズミのように武装したなんだかよくわからないバイクで高速道路を疾走する美少女。両手に拳銃を持ってクルクルと舞い踊りつつ悪漢を次々に薙ぎ払う美少女。胸元をはだけ足を剥き出し髪を振り乱しながら敵を殲滅し血塗れで笑う美少女。美少女。美少女。
頭痛がひどくなる。
――これはいったいどんな市役所だ。
視線を感じて振り返ると、未知香が覗き込んでいた。二人は微妙な表情で顔を見合わせる。
「どう? 〝スパイの子〟として、感想は」
「……待て。このムチムチしたのは、やっぱり……わたしなのか?」
「みたいね」
ニヤニヤと笑う姉を睨み付け、明日香は原稿を袋に戻す。
「ハナにピーナッツでも入れられたみたいな気分だ」
小さな付箋が足元に落ちた。原稿の裏に貼られていたらしい。拾い上げて見ると、うねるような手書きの文字が書いてあった。絵なのか字なのかさえ判然としないそれはひどく読みにくい。
「未知香、ちょっと見てみろ」
「いや、もうお腹いっぱい……ん?」
未知香は片眉を上げ、付箋に顔を近付ける。
「この原稿が雑誌に掲載されるらしいぞ」
少年なんだかという雑誌名も書いてあったが、それがどういう種類のものなのか二人にはわからない。少年向けというからには、少なくともいかがわしい類ではないのだろう。
「ふうん……やるじゃん、あのオタクくん」
「彼は、もうオタクじゃない。駆け出しの……でも、プロの漫画家だ」
思わず涙ぐんだ彼女を見て、未知香は不思議そうに笑う。
「そんなに嬉しいの?」
「ああ、嬉しいな。すごく嬉しい」
明日香は、くしゃくしゃの顔で笑みを浮かべる。
「もしかして……なにも解決できないんじゃないかと思ってたんだ。なにをやっても、どれだけ頑張っても、本当は、自分の力なんかでは、なにも成し遂げることなんかできないんじゃないかって」
「そんなことないでしょ。けっこう色々と……」
二人の後ろで、車の停まる音がした。
「あら、十一時だって聞いてたのに」
振り返ると、私服姿の春奈がぎこちない足取りで歩いてくるところだった。停められたタクシーの陰で、母親が明日香たちに頭を下げる。
駆け寄った未知香が手を取って抱き締め、胸元に抱え込んでわしゃわしゃと頭を撫でた。嬉しそうな悲鳴を上げ、春奈も未知香を抱き締める。
「退院おめでとう、二人で迎えに行こうと思ってたのよ」
「いいの、もう自分でどこにでも行くんだから。先生がね、もうすぐ自転車にも乗れるようになるって」
視線が合うと、春奈は含羞んだように笑う。その初々しさに明日香も思わず微笑みを浮かべた。彼女が初めて見せた、心からの自然な笑顔。
彼女はそのことに、まだ気付いていない。
(了)




