第四話 私の優先順位は、どれくらいでしょう
その言葉に、閲覧室の空気が止まった。
クレアは目を伏せた。
悲しみは、不思議なほど薄い。
むしろ胸の奥で、長く絡まっていた糸が、ぷつりと切れたような気がした。
その瞬間だった。
「待て」
アルが初めて、声に位を乗せた、そのたった一言で、空気が変わる。
今まで読書会で穏やかに語っていた青年の声ではない。
人に命じることに慣れた者の声。
場にいる全員の背筋が、自然と伸びる。
ジョルジュも、そこでようやく異変に気づいたらしい。
アルはゆっくりとジョルジュを見た。
「今、お前と言ったな」
「そ、それは……」
「僕の婚約者、とも言った。婚約者を公の場で怒鳴りつけ、さらに私を身分もわからぬ男と呼んだ」
ジョルジュの顔から、見る間に血の気が引いていく。
「まさか……」
「気づくのが遅い。私はアルベリック・レオン・フォルタン。この国の王太子だ」
アルは淡々と言った。
誰かが小さく息を呑んだ。
ジョルジュはその場で膝を折りかけ、慌てて姿勢を正した。唇が震えている。
「お、王太子……殿下……。知らなかったのです。どうか、お許しを」
「知らなければ、不敬が許されると思っているのか」
「いえ、その、決して、そのような」
「それに、身分がわからなければ侮辱してよいという考えも、なかなか興味深い」
ジョルジュは言葉を失った。
アルベリックは視線を外さない。
「本来なら、私への不敬は見過ごせるものではない。だが、ちょうどお前自身が婚約破棄という言葉を口にしてくれたな」
ジョルジュの喉が鳴った。
「選ばせてやろう。不敬を不問にする代わりにモンテール嬢との婚約を解消するか、このまま正式に罪を問われるか」
閲覧室には、紙の擦れる音ひとつしない。
ジョルジュは青ざめた顔で、クレアを見た。
助けを求めるような目。
けれど、クレアは何も言わない。
これまで彼が優先してきたものの中に、クレアはいなかった。
ならば今、クレアが彼を優先する理由もない。
「こ……婚約破棄を……選びます……」
ジョルジュは、震える声でそう答えた。
「後の手続きは、正式な使者を通して行う。ヴェルチ家にも、今日の件は伝える」
アルベリックは短く告げた。
ジョルジュは深く頭を下げ、ふらつく足取りで閲覧室を出ていった。
その背中を追う者はいない。
しばらくして、読書会の参加者たちも気を遣うようにひとり、またひとりと退室していった。
静かになった閲覧室に、古い紙の匂いだけが戻ってくる。
クレアは、ようやく息を吐いた。
「……申し訳ございません、殿下。私のことで、読書会を騒がせてしまいました」
「謝るのはあなたではない」
アルベリックの声は、いつもの柔らかいものに戻っていた。
「それに、ここではアルで構いません。少なくとも、今は」
「ですが」
「あなたに殿下と呼ばれると、距離ができたようで落ち着かない」
クレアは思わず瞬くと、アルベリックは少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……今のは、王太子としてではなく、私個人の希望です」
クレアの胸の奥に、温かなものが広がった。
「では、アル様」
「様もいらないのですが」
「それは、さすがに急には難しいです」
「では、今後の課題にしましょう」
アルベリックは、そう言って小さく笑った。
窓から差し込む午後の光が、机の上に置かれた本の背を照らしている。埃の粒が金色に光り、ゆっくりと落ちていく。
騒ぎの後だというのに、不思議と怖さはなかった。
むしろ、長い間閉じ込められていた部屋の窓が開いたような、そんな息のしやすさがあった。
「さっきの、優先順位の話ですが」
「はい?」
「私の優先順位は、どれくらいでしょう」
アルベリックの言葉に、クレアは少し考えた。
ジョルジュとの約束を待ち続けた日々。
着る機会のなかったドレス。
冷たい温室。
苦くなった紅茶。
そして、アルベリックとこの図書館で交わした言葉。
比喩の多すぎる小説を笑い合ったこと。
結末から逃げる作家に腹を立てたこと。
自分の意見を、最後まで聞いてもらえたこと。
クレアは静かに微笑んだ。
「少なくとも、元婚約者より、ずっと高いです」
アルベリックは一瞬だけ目を見開いた。
それから、これまで見せたことのないほど嬉しそうな顔で笑った。
「それは光栄です。これからもっと、順位を上げてもらえるよう努めます」
「王太子殿下が、そのようなことをおっしゃってよろしいのですか」
「今の私は、読書会であなたと本の悪口を言う男ですから」
「悪口ではありません。批評です」
「では、批評仲間として、次はこの本について話しませんか」
アルベリックは本を一冊、クレアの前に差し出した。
クレアは表紙を見ると、まだ読んだことのない作家だった。
「結末は逃げませんか?」
「逃げません。ただ、途中で主人公が少し迷います」
「それは必要な迷いですか?」
「あなたなら、そう言うと思いました」
クレアは本を受け取った。
革表紙は手のひらにひんやりとして、けれど不思議と重くはなかった。
「では、読んできます」
「楽しみにしています」
窓から差し込む光の中、本に囲まれたその場所で、クレアは初めて、自分の時間が自分のものに戻ってきたのだと感じた。
そしてその時間の先に、もうひとり、同じ本を開いて待つ人がいる。
二人の物語は、そこから静かに始まった。
最後までお付き合いありがとうございました。
「理解してくれる」は、とても便利な言葉です。
けれど、それに甘え続けると、ある日突然その人はいなくなってしまうのかもしれません。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




