番外編① それぞれの優先順位
婚約破棄から、ひと月が経った。
ジョルジュ・ヴェルチは、おおむね上機嫌だった。
理由はある。
婚約を解消してからというもの、母や妹のリリー、幼馴染のソフィ、元恋人のイレーヌ、友人のマルグリットまでが、以前よりずっと気軽に声をかけてくれるようになったからだ。
「ジョルジュ、少しいい?胸が重くて、今日は不安なの」
「お兄様、今日も来てくれた!新しい帽子を見てほしいの」
「やっぱりジョルジュが一番、話が早いのよ」
なるほど、とジョルジュは思っていた。
クレアがいた頃は、彼女が待っているから、と断る場面もあった。観劇、散策、茶会、買い物。婚約者との予定を理由に、誰かの頼みを後へ回すこともあった。
けれど今は違う。
誰を気にすることもなく、全員の要望に応えられる。
これが本来の自分の姿だ、と彼は信じていた。
頼られる男。皆の味方。誰にとっても、必要な存在。
母は、ことあるごとにジョルジュを呼んだ。
「あなたがいてくれると安心するのよ」
そう言われれば、付き添わないわけにはいかない。妹のリリーは、買い物にも茶会にもジョルジュを連れて行きたがった。幼馴染のソフィは、些細な悩みでも長い手紙を寄越した。イレーヌは体調を崩したと知らせてきたし、マルグリットは夫の不在中に茶へ誘ってきた。
忙しい。
けれど、悪い気はしなかった。自分はやはり、必要とされている。
そう思えば、夜会の支度で少し寝不足になることも、急な外出で父に苦い顔をされることも、些細なことに思えた。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
最近、周囲から向けられる目が、少しおかしい。
最初にそれが形になったのは、ある夜会の帰りだった。
「ヴェルチ殿」
廊下で呼び止められ、ジョルジュは足を止めた。
相手は、リリーの婚約者である青年だった。温和な顔立ちをしている。いつもなら柔らかく笑って会釈をする男だが、その夜の目には、ジョルジュが見慣れない種類の冷たさがあった。
「リリーが、またあなたに相談していたようですね」
「ええ、まあ。妹が困っているなら、当然でしょう」
「婚約前から、ずっとそういった距離で?」
「もちろんです。家族ですから」
青年はしばらく黙っていた。
それから、廊下の奥で談笑する人々にちらりと目を向け、声を落とす。
「婚約中のご令嬢が、婚約者以外の男性を何度も呼び出す。その男性が、婚約破棄をされたばかりの方となれば……周囲の方々は、どう見られるでしょうね」
ジョルジュは苦笑した。
「おかしな見方をする人もいるでしょうが、僕たちは兄妹です」
「兄妹であれば、何も問題はないと証明できますか」
「……は?」
「なぜ、婚約者との約束を何度もずらしてまで、あなたを呼んだのか。なぜ、茶会でも買い物でも、必ず兄でなければならなかったのか。そしてなぜ、あなたが婚約を解消された後、以前より距離が縮まっているのか」
声は荒くない。
だからこそ、ジョルジュは言葉を失った。
「リリー様を疑いたいわけではありません。ですが、我が家にも面子があります」
「リリーは、そんな」
「では、ヴェルチ殿。あなたは妹君の婚約を守るために、今後一切、不必要な同伴を控えられますか」
ジョルジュはすぐに頷けなかった。
リリーが困ったとき、兄である自分を頼る。それを拒む理由が、どうしても見つからなかったからだ。
青年は、その沈黙だけで十分だという顔をした。
「……婚約の継続については、父とも相談いたします」
「待ってください。それは」
「リリー様が何も間違えていないのなら、堂々としていればよろしいでしょう。ただ、我が家が不安を覚えたという事実は、消せません」
そう告げて、青年は去っていった。
ジョルジュは廊下に残された。
壁際の燭台の火が、小さく揺れている。人々の笑い声は変わらず続いていたが、その中に自分だけが取り残されたような気がした。
そこから、噂は思ったより早く広がった。
リリーの婚約者が不信を抱いた。
その話は、すぐに別の家の耳へ届く。
すると、これまで別々の小さな出来事だったものが、急に一本の線で繋がって見えはじめた。
ジョルジュ・ヴェルチは、婚約者との約束より、ほかの女性を優先し続けた男だ。
そして、その男を呼び出していた女性たちは、いったいどういうつもりだったのか。
誰かがそう囁いた。
囁きは、茶会の席で広がった。扇の陰で、廊下の端で、馬車を待つわずかな時間の中で、少しずつ形を変えながら。
幼馴染のソフィからは、短い手紙が届いた。
しばらく、お会いしない方がよいと思います。
婚約者と話し合いの時間を持つことになりました。
ソフィらしくない、硬い筆跡だった。
翌日、イレーヌからも手紙が届いた。
もう私に関わらないでください。
あの方に誤解されてしまいました。あなたのせいです。
ジョルジュは手紙を握りしめた。
なぜ、自分のせいになるのか。
イレーヌが体調を崩したというから、見舞っただけだ。ソフィが相談したいと言うから、話を聞いただけだ。リリーが兄に付き添ってほしいと言うから、そばにいただけだ。
誰も間違ったことなどしていない。そう思いたかった。
けれど、三通目の知らせが届いたとき、ジョルジュの胸の奥に、ようやく嫌な重さが落ちてきた。
マルグリットの夫から、ヴェルチ家へ非公式な問い合わせが入ったのだ。
妻が、婚約破棄された男性を我が家に招いていたと聞いた。
それは事実か。夫婦の問題として、今後の付き合いを見直したい。
父はその書状を読んだ後、ジョルジュを呼ばなかった。
ただ、食卓で目が合ったとき、深い皺の刻まれた眉間を見せただけ。
それが、叱責よりもずっと重い。
母の部屋に呼ばれたのは、その日の夕方。
「ジョルジュ、どういうことなの」
長椅子に腰かけた母は、白いハンカチを握りしめていた。
「リリーが部屋から出てこないのよ。お兄様のせいで縁談が壊れるかもしれないって、泣いているの」
「僕のせいではありません。リリーが僕を頼ってきたから」
「でも、あなたがもっと上手くやってくれていれば」
その言葉に、ジョルジュは目を見開いた。
「母上まで、そうおっしゃるのですか」
「だって、あなたは男でしょう。リリーはまだ若いのよ。あなたが守ってあげなければ」
「守っていました」
「守り方を間違えたから、こんなことになったのでしょう」
ジョルジュの喉が詰まった。
母はいつも、自分を頼った。
胸が苦しい。外出が不安。茶会に顔を出してほしい。リリーの面倒も見てやってほしい。そのたびに、ジョルジュは出向いた。
クレアとの約束をずらしてまで。
それなのに、今になって母は、守り方を間違えたと言う。
「母上も、僕を呼んだではありませんか」
「私は母親よ」
「母親なら、息子の婚約者との約束を破らせてもよかったのですか」
母の唇が震えた。
ちょうどそのとき、扉が開いた。
父だった。
「その通りだ」
低い声に、母もジョルジュも口を閉じた。
父は部屋へ入り、静かに扉を閉める。
「お前もだ」
「体調が悪いと言えば、息子が婚約者との約束を破って飛んでくる。それを当然と思っていたのだろう」
「あなた、私は」
「母親である前に、ヴェルチ家の夫人だ。息子の婚約を壊すほど甘えてよい立場ではない」
母の顔から血の気が引いた。
父は続けた。
「リリーにも言ってある。婚約者より兄を優先してきた自分の振る舞いを省みろ、と。相手の家から不安を持たれるだけのことをしたのだ」
「でも、リリーはまだ」
「幼い娘ではない。婚約者のいる令嬢だ」
母は何も言えなくなった。
ジョルジュも同じだった。
その夜、ジョルジュは父の書斎へ呼ばれた。
扉が閉まると、部屋の空気が一段重くなる。
父は机の上に、いくつかの書状を並べていた。
リリーの婚約継続についての保留。
ソフィの家からの、非公式な距離を置きたいという申し入れ。
マルグリットの夫からの問い合わせ。
イレーヌの恋人の家から回ってきた、苦情に近い噂話。
書状の端は、父が何度も読み返したためか、わずかに反っていた。
「お前は、何をしていた」
「僕は、ただ頼まれたことに応えていただけで」
「婚約者がいながら、女性を呼び出す。婚約者との約束をずらして、女性に会いに行く。その結果、婚約を解消された。ここまでは、お前自身の愚かさで済んだ」
父の声は低かった。
「だが、その後も同じことを続けた。しかも以前より頻繁に。相手に婚約者がいようが、恋人がいようが、夫がいようが、考えもせず応じた」
「みんなが、僕を必要として」
「それが理由か」
父は、ゆっくりと息を吐いた。
「お前が頼られていたのではない。お前が誰も断らなかったから、呼ばれ続けていたのだ。その違いが、今でもわからないか」
ジョルジュは黙った。
喉が乾く。けれど、水差しへ手を伸ばすことすらできなかった。
「縁談が白紙に戻れば、リリーの未来が変わる。ソフィ嬢の婚約が揺らげば、ヴェルチの名前と紐づいて語られる。マルグリット夫人の夫婦不和は、社交界ではすでに噂になっている」
父は一枚ずつ、書状を重ねた。
紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「お前が優先し続けたのは何だ。頼まれること。必要とされること。その心地よさだ。家の信用ではない。妹の縁談でもない。そして婚約者でも、なかった」
ジョルジュは、返す言葉を持たなかった。
「物事には優先順位がある、と、お前はよく言っていたな」
「……はい」
「では、お前が優先すべきだったものは何か、今一度、考えなさい」
書斎に静寂が落ちた。
クレアは、もういない。
クレアは待ってくれない。
クレアは、理解ある婚約者として、そこに残ってはいない。
ジョルジュだけが、自分の立っていた場所を見失っていた。
今さらそれを理解しても、彼女の席はもう空いていなかった。
その頃、クレア・モンテールは、王城の図書館に置かれた上等な肘掛け椅子の上で、新しい本を開いていた。
窓辺には穏やかな光が差し込み、磨かれた木の床に薄い影を落としている。古い紙と革表紙の匂いの中に、昼食に添えられていた木苺のジャムの甘酸っぱい香りが、ほんの少しだけ残っていた。
「その作家、今回は文体が変わりましたね」
「そうなんです。前作より読みやすくなりました」
「人は変わるものですね」
「変われる人は、変わりますね」
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。
クレアは何もしていなかった。
復讐も、告発も、噂を流すことも。
ただ、自分の優先順位を選んだ。本を読み、アルと話し、好きな時間を、好きな場所で過ごすことにした。
あとは、それぞれが、自分で選んだものの行き先を受け取っているのだろう。
「クレア」
「はい?」
「今日は、いつまでここにいられますか」
「夕刻まで、ここにいます」
「では、夕刻まで私があなたを独占しても?」
アルは静かに笑うと、クレアは本から顔を上げた。
「……本の時間も、少しは残してください」
「努力します」
「そのお返事、あまり信用できません」
「それは困りました。あなたからの信用は、何より大切にしたいのですが」
アルはそう言って、開いていた本に栞を挟んだ。
そして、クレアの隣の椅子へ移ってくる。
近すぎない。けれど、遠くもない。
肩が触れるほどではない距離で、同じ窓辺の光を分け合う。
クレアは、ページに視線を戻した。
隣で、アルが同じ本を開く気配がした。
誰かを待つ時間ではない。
誰かに後回しにされる時間でもない。
自分で選んだ人と、同じ場所にいる時間。
窓の外、空は今日も、何事もなく青かった。
最後までお付き合いありがとうございました。
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