第二話 明日はこの本を読まれてはどうでしょう
初めて参加した日は、よく晴れていた。
図書館の閲覧室は高い天井に、窓辺には磨かれた木の机が並んでいる。
古い紙の匂いと、革表紙の乾いた匂いが混じっていた。窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃がゆっくり舞っている。
そこに、ひとりの男がいた。
年の頃は、クレアより少し上だろうか。
身なりは上品だが、ひとりの従者も連れていない。濃紺の上着は質がよく、袖口の刺繍も控えめだが、よく見れば職人の手が込んでいる。
姿勢はまっすぐで、椅子に腰かけているだけなのに、妙に人の目を引いた。
「初めての方ですね」
男が声をかけてきた。
「はい。クレア・モンテールと申します」
「アルです」
短い名だった。
家名を名乗らない。
けれど、クレアは何も言わなかった。
立ち振る舞い、視線の配り方、言葉を発する前に相手をよく見る癖。
何より、周囲の人々が彼に向ける、隠しきれない緊張。
おそらく、この人は王太子殿下だ。
だが、アルはその正体に触れられることを望んでいないらしい。だから、クレアも気づかなかったふりをした。
「本日は、こちらの作家の作品でしたね」
「ええ。読まれましたか?」
「読みました。正直に申し上げても?」
「ぜひ」
「比喩が少々、回りくどいと思いました」
アルは一瞬だけ目を見開き、それから口元を押さえた。
「……それを言ってくださる方を、待っていました」
「そうなのですか?」
「皆、名作だからと褒めるので。私には、三行で言えることを一頁かけて語っているように見えました」
「わかります」
クレアは思わず身を乗り出した。
「しかも、肝心なところほど曖昧にするのです。読者に委ねるのと、作者が決めきれていないのは違うと思います」
「まったく同感です」
アルは楽しそうに笑った。
その笑みは、最初に見た端正な印象より、ずっと年相応に見えた。
読書会は、思っていた以上に楽しかった。
本の好み、物語に対する考え方、好きな終わり方、苦手な展開。
話せば話すほど、クレアは自分の中にあった言葉が、次々と形を持つのを感じた。
ジョルジュといるとき、クレアはいつも聞き役だった。
母の話。妹の話。幼馴染の話。友人の話。元恋人の話。
彼の周りには、いつだって自分以外の誰かがいた。
けれど、アルは違った。
彼はクレアに尋ねる。
「あなたは、どう思いましたか」
「どの場面が一番嫌いでしたか」
「逆に、残すならどの一文ですか」
好きなところではなく、嫌いなところまで尋ねられるのが面白かった。
綺麗な感想だけを求められていない。正しく褒める必要もない。誰かの顔色を見て言葉を選ぶ必要もない。
クレアは、久しぶりに自分の声で話している気がした。
二度目の読書会の日、ジョルジュからの使いが来た。
会の始まる少し前だった。
「申し訳ございません。ジョルジュ様はリリー様のお買い物に付き添われるとのことで、明日の散策は延期してほしいと」
使いの者はそう告げた。
以前なら、クレアは頷いて、明日の予定を空白のままにしていただろう。
けれど、その日は違った。
「わかりました。では明日は、予定を入れます」
「予定、でございますか?」
「ええ。こちらからも、ジョルジュ様にお伝えください。次にお会いできる日は、あらためて調整しましょう、と」
使いの者は困惑した顔をしたが、クレアはもう気にしなかった。
そのやり取りを、少し離れた場所でアルが聞いていたらしい。
会が終わった後、彼は静かに尋ねた。
「明日は、婚約者との約束だったのでは?」
「そうでした」
「よろしいのですか」
「延期だそうですので」
「あなたは、怒らないのですか」
クレアは少し考えた。
「怒っていないわけではありません。ただ、怒るより先に、疲れてしまいました」
「それは、随分と長く後回しにされてきた人の言葉ですね」
その一言に、クレアの胸が小さく鳴った。
ずっと認めるのが怖かったこの状況。
誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
かわいそうに、でもなく。
我慢強い、でもなく。
ただ、後回しにされてきたのだと。
「……そうかもしれません」
クレアが答えると、アルは何か言いかけて、やめた。
そして代わりに、手元の本を差し出した。
「では、明日はこの本を読まれてはどうでしょう」
「おすすめですか?」
「ええ。比喩は少なめで、結末も逃げません」
「それは期待できますね」
クレアが笑うと、アルもほっとしたように笑った。
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